CALL

――呼びかけ




命題Ⅰ
文明の勝利には何も欠けていない。
恐怖政治も情動の貧困も。
普遍的不毛も。
砂漠はもう拡大しない。それは遍在するからである。
だがそれはなお深まるかもしれない。
明らかな破局を前にして憤慨する者たち、決起する者たち、告発する者たち、そして組織化する者たちがいる。
われわれは組織化する者たちの側にある。

補注
これは一つの呼びかけである。すなわちこの呼びかけは、この呼びかけを聴き取る者たちに宛てられている。われわれは論証し、議論し、納得させるといった労を取るつもりはない。われわれは自明のことへと向かうだろう。
自明のこととは、先ず、論理の問題、推論の問題ではない。
それは感覚的なことや、諸世界の側にある。
どの世界も、各々の自明のことを持つ。
自明のこととは分かち合われること、分かつことである。
分かち合いの後に、あらゆるコミュニケーションが再び可能となる。それはもはや前提とされるものではなく、打ち立てられるべきものである。
そしてこのこと、私たちを構成するこの自明のことのネットワークについて、〈人〉はそれを疑い、それから逃げ出し、それを沈黙させ、それを監視するよう、私たちに大いに教え込んだ。〈人〉が私たちにかくもそう教え込んだがゆえに、叫びをあげようとするとき私たちにはあらゆる言葉が欠如しているほどである。

われわれが生存しているところの秩序に関して言えば、何に甘んじているのかを、誰もが知っている。目前にある帝国である。
死に瀕した一つの社会体制が、もはや己の放埓に関して、みずからの不条理な規定――そのもうろくした規定――以外の弁明を持たない、ということである。その規定とは、ただ続けるのみ、というものだ。
それはつまり、世界規模のであれ、国家単位のであれ、警察が、規則に従わない者たちに対して復讐するまったき自由を受け取ったということであり、その中心に傷を負った文明が、自ら始めた恒常的戦争の中で、己自身の限界以外の何物とも衝突しないということである。
すでに100年にも及ぼうとする、この危険覚悟の積極策は、もはや、絶えず迫り来る災厄の連鎖をしか生み出さないということである。
人民大衆は、諸秩序のもとでの虚偽、シニシズム、痴呆化、封印といったものの打撃に慣らされているということである。
このことについて知らないとは誰にも言わせまい。 
そして移り気な媚へつらいをもって、果てしなく現在の災厄を描出し続けることで成り立つ「騒動」は、「そういうわけで〜」〔という現状追認〕の別の言い方にすぎない。これがジャーナリストたち、前夜に確認したガラクタを毎朝再発見するふりをする者たちに与えられる汚辱の栄誉である。
だが目下興味深いことは、帝国の傲慢不遜の数々ではなく、むしろ反撃の弱さである。膨張肥大した麻痺状態のような。それは大衆の一つの麻痺であり、ある時は、かろうじて何かを口にしても「すべきことは何もない」と言ったり、ある時は端まで追いつめられて、「課題は山積だ」と認めたりするが、どちらも大して変わりはない。そして、この麻痺状態の余白に、活動家(アクティヴィスト)たちの「何でもいいから何かをしなければ」がある。
シアトル、プラハ、ジェノバ、遺伝子組換食品反対闘争や失業者運動に、われわれは参加してきた。ここ数年の諸々の闘争を、われわれは甘受してきた。
そして、確かに、ATTACや「白いツナギTute Bianche」〔オルター・グローバリゼーション運動組織〕の側に与してはいなかった。
抗議的な見世物は、われわれを楽しませることをやめた。
ここ10年、われわれはマルクス-レーニン主義が、未だ学生である者たちの口の中で、その退屈な独言を蒸し返している様を見てきた。
最も純粋なアナーキズムが、自分に納得が行かないことを否定する様も見てきた。
最も平凡な経済主義――『ル・モンド・ディプロマティーク』を支持する者たちのそれ――が、新たな民衆の宗教と化す様を見てきた。そしてネグリ派が世界中の左派の知的潰走に対する唯一の対案として頭角を現す様を見てきた。
いたるところで戦闘主義は再び築こうとする。
その頼りなげな構築物を、
その気を滅入らせる組織網を、
衰退さえも。
簡潔に言えば「反グローバリズム運動」〔に集約されるもの〕に打ち克つのに、警官や組合、その他の情報官僚たちには、3年もかからなかった。それ〔「反グローバリズム運動」〕を碁盤割りにすること、不毛であるのと同程度にやり甲斐のある「戦場」へとそれを分割することに、である。
今、ダヴォス〔スイスの「世界経済フォーラム」(〈帝国〉の発展を目指す)が行われる場所〕からポルト・アレグレ〔ブラジルの「世界社会フォーラム」(オルター・グローバリゼーションを目指す)が行われる場所〕まで、MEDEF〔失業補償を中心としたフランスの企業運動〕からCNT〔スペインのアナキズム系労働者が組織する「労働者国際連合」〕まで、資本主義と反資本主義は同じ空虚な地平を描き出している。災厄を乗り切るにあたって、肝心な部分の欠けた展望を。
支配的な壊滅に対立するのは結局のところ、さほど生彩のないもう一つの壊滅にすぎない。いたるところで幸福という愚劣な理念が等しく跋扈する。等しく強直的痙攣を起こした権力のゲームであり、等しく無力な浅薄さ、等しく感情的な文盲、等しく砂漠である。

この時代は一つの砂漠であり、この砂漠は絶えず深まっているとわれわれは言おう。これは詩的表現などではなく、一つの明らかなことである。他の多くの物事を孕んだ一つの明白さである。とりわけ抗議する全てのもの、災厄を告発し、それについて注釈する全てのものとの断絶である。
告発するものは免罪される。
一切は、恰も、経営者が支配の手段を集めるのと同じやり方で、左派が反抗する理由を集めるかのごとくに行われる。同じやり方で、つまりは同じ享楽とともに。
砂漠とは世界の漸進的過疎化である。われわれが実践することを選んだ習慣とは、恰もわれわれが世界に属していないかのごとく在ることである。砂漠は連続的で集団的な、人口にプログラムされたプロレタリア化の中にある。ちょうどカリフォルニア郊外の中にそれがあるように。そこでの苦悩は、まさしく、もはや何ものもこの砂漠を感知していないように見えるという事実である。
この時代の砂漠は知覚されることなく、そのことがまたしても砂漠の存在を証し立てる。

砂漠に名前を与えようと試みる者たちがいた。異邦からのスパイのようなものではなく、一つの諸関係の総体として闘うべき事柄があるということを指し示そうと試みる者たちが。彼らはスペクタクルや生権力、帝国について語った。しかしそれはまた、現在なお効果を発揮している混迷に付け加わることでもある。
スペクタクルとはマス・メディア・システムを意味する簡便な略号ではない。それはまた残酷さの中にも存在し、この残酷の中では全てのものがわれわれに、われわれのイメージを絶えず映し出す。
生権力とは社会保障や福祉国家、製薬産業の同義語ではなく、われわれがわれわれの美しい身体に与える配慮の中に、他者に対してと同様に自己に対して持つ或る種の身体の異常さの中に、快く宿っている。
帝国とは或る種の超世俗的実体とか、諸統治・金融ネットワーク・テクノクラート・多国籍の惑星規模での結託ではない。帝国はいたるところに遍在し、そこでは何も起らない。いたるところでそれは機能する。正常な状況が支配するところなら何処ででも。
われわれに対面する一つの主体として敵を見ることによって――われわれを管理する一つの関係としてそれを感知するのではなく――こそ、人は監禁に対する闘いの中に監禁されてしまう。「オルタナティヴ」という口実の下、支配的諸関係の中でも最悪のものを再生産してしまい、商品に抗う闘争を売り飛ばしはじめ、反権威闘争から諸々の権威が、例えばお粗末な雄々しさを湛えたフェミニズムや、アンチファシスト的人種迫害が生まれるということである。

われわれはいつも、或る状況の当事者である。その内奥にあるのは、主体と客体、自分と他者たち〔その他〕、自分の願望と現実といったものではなく、諸関係の総体、状況を貫く諸々の流れの集合である。
一つの全般的な背景がある――資本主義、文明、お望みなら帝国――、各状況を管理しようとするのみならず、さらに酷いことに、最も多くの場合、状況がないという状態を作り出そうとする全体的背景が。〈人〉は通りや住まい、言語活動や情動を整備し、次いでそれら全てをこの唯一の効果へと導くグローバルなリズムを整えた。いたるところで〈人〉は諸々の世界がお互いに深入りしないようにしたり、さもなければお互いを無視するように仕向けた。「正常な状況」とは、この状況の不在のことである。
組織化という言葉が意味するのは状況から開始するということであり、状況に異議を申し立てることではない。状況のふところで方針決定を下すこと。状況のふところで、物質的、情動的、政治的連帯を織り成すこと。これこそ、何処の事務所であれ工場でも、一切のストライキがしていることである。これこそあらゆるグループ、あらゆる地下組織のしていること、あらゆる革命党派ないし反革命党派のしていることである。
組織化が意味するのは状況を打ち立てること、それを現実的なものとし、触知可能なものとすることである。
現実は資本主義的ではない

ある状況の只中でとられる立場が同盟を組む欲求のもととなり、そのために、コミュニケーションや、さらに広範な諸々の伝播の回路を打ち立てる欲求を引き起こす。この場合、これらの新たな結合が状況を再び形作る。
われわれに対して作り出された状況を、われわれは「世界内戦」と呼ぼう。そこではもはや、向かい合う諸力の対立に境界線を引くことはできない。法-権利でさえ境界線を引くことはできず、むしろ一般化された対立の別の形態に陥る。
ここで言われる〈われわれ〉とは、境界画定可能で単離した一つの〈われわれ〉、単一のグループとしての〈われわれ〉ではない。それは或る立場としての〈われわれ〉である。この立場-位置取りは、この時代の中で、一つの二重離脱として顕現する。一方では資本主義的価値付与過程からの離脱であり、次に帝国に対する単純な敵対――たとえそれが議会の外での敵対であろうと――が強いるあらゆる不毛さからの離脱、つまるところ、左派からの離脱である。そこでの「離脱」が指し示しているのは、コミュニケーションすることの実践的拒否よりは、コミュニケーションの諸形態を自由に用いることである。それはあまりにも強度を孕んでいるがゆえに、その諸形態が布陣された場所において、敵からその力の大部分を奪取してしまう。
要するにわれわれが言っているのは、このような立場-位置取りは、突入の力をブラック・パンサーから、共同食堂をドイツのオートノーメから、木々の中の住居やサボタージュの技術をイギリスのネオ・ラッダイト運動から、諸々の語彙の選取をフェミニズムから、大衆による自己値引きをイタリアのアウトノミアから、武装した歓喜を6月2日の運動1793年、パリ民衆による国民公会の包囲、ジロンド派の追放の始まり〕から、借り受けているということである。

もはや、友愛は存在しない。我々にとって、政治だけが在る。




命題Ⅱ
制限を知らない管理の膨張が、システムの予測可能な諸々の崩壊に、希望もなく、対応する。政治的な諸々のアイデンティティのありふれた配分において表現されているもののどれ一つとして、災厄の彼岸へと導いてくれはしない。
何にせよ、われわれはそこから抜け出すことから始めよう。われわれは何ら異議申し立てをせず、何も要求しない。われわれはみずからを、世界内戦の只中で、力、物質的な力、自律的な物質的力において構成しよう。この呼びかけは幾つかの根本原理に関して述べる。

補注
ここでは群集を蹴散らすための新兵器、木製の破散性手榴弾が実験されている。オレゴンでは自動車の交通を妨げる全てのデモ参加者に25年の禁固刑が提案された。イスラエル軍は都市郊外鎮圧の見地からして最高のコンサルタントと化しつつある。世界中のエキスパートたちが、転覆行為を企てる者たちを排除する、かくも恐るべき、かくも精妙な最新の掘り出し物に驚くべく奔走している。傷つける技術――百人を震え上がらせるために一人を傷つける――は、その頂点に達したようである。次には勿論、「テロリズム」がある。すなわち「個人ないし集団によって一つないし複数の国、その制度ないし住民に対して、それらに対する恫喝や深刻な損害を与え、或る国の政治、経済ないし社会構造を破壊することを目的として意図的に為される一切の侵害行為」である。こう語るのは欧州委員会である。アメリカ合衆国には農民よりも多くの囚人がいる。

再配置され、徐々に手を加えられるにつれ、公共空間はカメラに覆われてゆく。それは、以降、あらゆる監視が可能となったかに見えるということだけではなく、とりわけ、この監視が許容されうるものと化したかに見えるということである。あらゆる類いの「容疑者」リストが省庁から省庁へと回され、その尤もらしい使い道はほとんど見当がつかない。あらゆる民兵団が、その中で警察はアルカイックな典拠の象徴であるわけだが、いたるところで、一昔前の形象である、お喋りする女性たちや遊歩者たちに、取って代わりつつある。敵の立場の、憤慨するというよりむしろ組織化する者たちの一人であるCIA元長官は『ル・モンド』誌でこう書いている。「テロリズムに対する戦争である以上に、ここで賭けられているのは、第一次および第二次世界大戦を経て冷戦――あるいは第三次世界大戦とも言えよう――に至るまでの20世紀の間、ずっとわれわれが尽力してきた構築と防衛に鑑みて、リベラル文明を脅かす世界諸地域[アラブやイスラーム教圏]への民主制の拡張である」。

こうしたこと全てにおいて、われわれに衝撃を与えるものは何もない。われわれを不意撃ちしたり、われわれの生活感覚を根源的に変質させるものもない。われわれは破局の中で生まれ、破局との間に、或る奇妙にも穏和な習慣的関係を打ちたてたのである。ほとんど親密な関係と言ってもいい。人間の記憶の中でアクチュアルなものはと言えば、世界内戦のそれしか決してなかった。われわれは生き残りとして、生き延びるべき機械として、育て上げられた。〈人〉はわれわれに、生きることは行進することであるという観念を教え込んだ。同様に行進し、躓き、自らの番が来たら倒れる他の生命達とともに、倒れるまで行進することである、と。究極的には、現在という時代の唯一の新しさとは、こうしたこと一切が、何一つとして隠されることなく、或る意味で誰もがそれを知っているということである。このシステムの、きわめて見てとりやすい極端な硬化は、ここに由来する。そのやり口は剥き出しであり、ごまかそうという意志は全く無用だろう。

左派ないし極左のいかなる派も、お馴染みの政治勢力のどれ一つとしても、こうした事態に対峙しえないことに、多くの人びとが驚いている。「でも民主制には与っているでしょう?」 そして彼らは長い間、驚いていることができる。古典的な政治の枠組の中で現れるものには、砂漠の膨張を抑えることができない。
なぜなら、古典的政治は砂漠の一部を成しているからである。
このように言ったからといって、それはリベラル民主制に対する気晴らしとしての何らかの議会外政治を褒めそやすためではない。フランスが市民集団や「社会運動」として数えあげる〔に含める〕もの全てによって数年前に署名された「われわれは左派だ」という名高い宣言は、「われわれは権力を掌握したり国家を転覆させたりすることを望まない、したがってわれわれは国家権力に対話相手と認められるのを望んでいる」という、この30年来、議会外政治をリードしてきた論理を十全に言い表している。


政治をめぐる古典的概念がはびこるところなら何処でも、災厄に対する同じ無力が君臨する。この無力が、最終的には両立可能な諸アイデンティティの広範囲に渡る配分へと調整されるとしても、そのことは何ら事態を変えない。FA〔アナキスト連盟〕のアナーキスト、評議会コミュニスト、ATTACのトロツキスト、UMP〔フランス国民運動連合、現フランス大統領ニコラ・サルコジ、同国前大統領ジャック・シラクらの所属する政党〕の代議士は、いずれも同じ欠如から出発し、同じ砂漠を増殖させる。
彼らにとって政治とは、人びとの間で作用し、言われ、為され、決定されるものである。全てを結集し、各々の世界から抽出された人間を集める議会は、理想的な政治情勢を形成する。経済、経済領域は、必然的にそこから生じる。議会の脇に置き去りにされたものや、家族、企業、私生活、娯楽、情念、文化、等々から成る、非政治的なものとして構成された一切の、必要かつ困難な管理として。
かくして政治の古典的定義は砂漠を拡大させる。人間を各々の世界から抽出〔抽象化〕することによって。各々の世界、感覚的世界を構成し、人間に固有の密度を与える習慣・言葉・フェティッシュ・情動・場所・連帯といった諸事物のネットワークから引き剥がすことによって。

古典的政治、それは世界なき身体達の輝かしい上演である。だが政治的諸個体性の演劇的議会は、己が砂漠であるということを上手く隠せない。残りの諸存在から切り離された人間社会が在るのではない。諸世界の多様性が在るのだ。諸世界とは、分割されるほどにいっそう現実的であり、お互いに共存するものである。実のところ政治とは、むしろ諸々の様々な世界の間の作用であり、両立可能な諸世界の間の結合、相容れない諸世界同士の対立である。

したがって、ここ30年の中心的な政治的事実は気づかれることなく過ぎ去ってきたと言おう。なぜならそれは現実的なもののある階層の中で展開されてきたからである。この階層はあまりにも奥深いものであるがゆえに、政治という観念自体に転回をもたらすことなしには「政治」とは呼ばれえない。なぜなら現実的なもののこの階層とは、つまるところ、そこにおいて現実とその残余と見做されてきたものの間の共有が練り上げられる層だからである。この中心的な政治的事実とは、実存的リベラリズムの勝利である。各自が各々の生を持つという観念に基づく世界との一つの関係が、以降、自然なものと認められるという事実である。この観念が、良かれ悪しかれ選択の一つの連続において存立するということ、各々から唯一的で取替えのきかない存在を作り出す諸々の質、固有性-所有権の一つの集合や、その可変的な均衡によって各自が定義されるということ、契約が、諸々の存在の一方の他方に対する適切な約束(アンガージュマン)〔責任敢取〕を要約し、尊敬があらゆる徳を要約するということ、言語活動が互いを理解するための一つの手段にすぎないということ、各自が他の諸々の「私」の中の一つの「私」であるということ、世界とは実際のところ、管理すべき諸事物と、「私」の海原とから構成されており、しかもそれらの「私」は管理されるままであるがゆえに、物へと変化してしまうという遺憾な傾向を、自身が持つということである。
勿論、シニシズムは実存的リベラリズムの無限の臨床目録の中のありうる一つの特徴にすぎない。鬱・無気力・免疫疾患――あらゆる免疫系統は直ちに集団的である――・欺瞞・司法による嫌がらせ・慢性的不満足・諸々の否認された愛着・孤立・市民社会の諸幻想ないしあらゆる寛容の喪失といったものもまた、この目録を構成する。

つまるところ、実存的リベラリズムはかくも巧妙にその砂漠を増殖させる術を心得ていたがゆえに、以降、最も誠実な左派さえもが、その諸々の語彙を用いて己のユートピアを口にしてしまうほどである。「われわれは一つの平等社会を再構築する。そこでは誰もがみずからの貢献をもたらし、各自がそこから自分が期待する諸々の満足を引き出す。〔…〕個人的諸欲求に関して言えば、誰もが自分が手軽に提供できる努力に応じて消費活動を行うことは、平等主義的たりうる。そこでもまた、各自が提供する努力を評価する様式を再び明確にする必要があるだろう」。こう書くのは、『いつ資本主義と賃金制度は廃棄されるのか!』と題された或るテキストの中で、エヴィアンで開催されたG8に反対して反資本主義と反戦を掲げる〈オルタナティヴ・ヴィレッジ〉の組織者たちである。というのも、そこではこれこそが帝国の勝利を握る一つの鍵なのだ。影に潜み、自分が操っている地平そのものを沈黙で包み込むようにすることがそれであり、この次元で帝国は決定的な戦闘を開始する。それは、感覚的なものに細工を施し、諸々の感受性を型にはめる地平である。このようにして帝国は、それが作動する瞬間、あらゆる防衛を予防的に麻痺させ、反攻という観念に至るまで破壊する。「政治的労働」の過酷な一日の終わりに、活動家がアクション映画を見ているうちにぐったりと倒れ込むその度ごとに、勝利はもたらされる。

古典的政治の疲弊させる諸々の儀礼――総会・会議・交渉・異議申し立て・返還要求――からわれわれが撤退する様を見たり、労働や身分証明証、退職や交通の自由といったことについてよりはむしろ感覚の世界についてわれわれが話しているのを聴いたりすると、活動家たちはわれわれを憐れみの眼差しで眺める。彼らはこう言っているようだ、「憐れな連中だ。彼らはマイノリティ運動に甘んじている。自分のゲットーに閉じ込もって、拡張することを放棄している。あれでは運動とは言えないな」と。だがわれわれはまさしく逆だと考える。彼らこそ、偽りの客観性を備えた言語を話しながらマイノリティ運動に甘んじているのであり、その言葉の重みは反復とレトリックによる重さにすぎない。ヴェールに覆われた軽蔑に騙される者はいない。彼らはその軽蔑とともに「人びと」への心配について語り、失業者から身分証明証なき移民労働者、ストライキを打つ者から娼婦にいたるまで、決して危険に身を曝すことなく近づくことができる――というのも、この軽蔑は一つの感覚的な自明だからである。「拡張」への彼らの意志とは、すでにそこにいる者たちから逃れるやり方の一つにすぎない。そして何よりも先ず、彼らはこのような人びとと生きることを酷く恐れている。結局のところ、感受性の政治的意味を認めることを厭い、こうした人びとの誘引作用が引き起こす、哀れみををもたらす諸々の効果を、偽りの感情のうちに期待しているのは彼らなのだ。
つまるところ、われわれは広漠で無気力なネットワークからよりも、濃密で奥まった諸々の核から始めることを好む。われわれはこの無気力を充分に知ったのだ。




命題Ⅲ
状況の切迫にみずからの反応の切迫で以って応えようとする者たちは、窒息に窒息を重ねているにすぎない。
彼らの介入の仕方は、彼らの政治、彼らの動揺の痕跡をふくんでいる。
われわれはとってみれば、状況の切迫はわれわれを、いずれにせよ合法性ないし正統性という、いずれにせよそこに安住できなくなったものについてのあらゆる配慮から、まさしく解放する。
輝かしく勝ち誇る一つの革命運動を、その全き厚みにおいて構築するには、われわれには一世代かかる。このことはわれわれを一歩も退却させるものではない。われわれはこのことと静謐に向き合うだろう。
われわれがみずからの実存の犯罪的性質と、そしてわれわれの身振りと静穏に向き合うのと同様に。

補注
政治運動(アクティヴィズム)の誘惑を、われわれはよく分かっていたし、今でも分かっている。
反サミット、反強制排除、反治安維持法、新たな監禁・占領・国境なき収容所の構築に対する反対キャンペーン、こうしたこと全ての継起を、である。政治運動の散乱そのものに応じた、諸集団の漸進的散乱を。
運動を熱心に追い求めることを。
その度毎に本質的な無力へと回帰するという犠牲を払ってのみ、己の力を少しずつ感じとること。キャンペーンを行う毎に高い代価を払うということ。われわれに備わっている一切のエネルギーをキャンペーンによって消費されるに任せること。そして、その度毎にいっそう息切れし、疲弊し、悲嘆にくれる、次のキャンペーンに取り組むことを。
そして、要求や告発を大いにした結果、われわれの政治参加の起源に存在すると思われるもの、すなわちわれわれを横切る切迫の本性を、単に捉えるだけのことができなくなってゆくこと。

政治運動とは最初の反応〔反射的行為〕である。応答〔反応〕は現在の状況の切迫に順応する。切迫〔緊急事態〕の名における絶え間なき動員は、切迫を克服する手段であるように見える以前に、われらの政府や雇用主たちが、われわれを切迫に馴致させているところのものである。
生の諸形式は毎日、消滅しつつある。植物種、動物種、諸々の人間的経験、そして諸々の生存形態と生の諸形式との間の、きわめて多くの可能なる関係が。だが、われわれの切迫感は、これらの消滅のスピードよりはむしろその不可逆性に、さらには砂漠化したものを元通りにする能力が我々にはないということに、結びついている。
活動家(アクティヴィスト)は破局に対して己を動員するが、破局を延長させるにすぎない。その(はや)る気持ちは、残された世界の僅かな部分を消費すべく到来する。切迫に対する活動家の反応はそれ自体、そこから抜け出したりそれを断ち切ったりするという見込みなしに、切迫の体制の内側にとどまる。
活動家はいたるところに存在しようとする。彼は、帝国機械の変調のリズムに導かれるままに、あらゆる場所に赴く。彼はみずからの実践的創意を、己の反破局のお祭り気分のエネルギーをいたるところに持ち込む。活動家が動き回ることには異論の余地がない。だが彼は決して、どうしたらよいのかを考える諸々の手立てを、己に与えない。砂漠の進行を具体的に停止させるために、居住可能な諸世界を待ち受けるのではなく打ち立てるために、何をすべきなのかを。
われわれは政治運動(アクティヴィズム)を放棄しよう。その力を作りだすものを手放すことなく。すなわち、状況への確かな影響力を、状況の只中にある運動の闊達さを、道徳ないしイデオロギー的観点によってではなく、技術的・戦術的観点によって闘争を把握するやり方を。

老いた戦闘的態度(ミリタンティズム)は逆の例を与える。闘士(ミリタン)たちの状況への無理解には、注目すべき何かがある。われわれはジェノバでのそうした光景を覚えている。LCR〔オリヴィエ・ブザンスノ等が率いるトロツキスト系政治運動組織、フランス革命的共産主義者同盟〕の50人ほどの闘士が「100パーセント左翼」というラベルのついた赤旗を振りかざしている。彼らは身動ぎもせず、いつまでもそうしている。公安に包囲されながら、彼らはその規格化されたスローガンを叫んでいる。その間、数メートル離れたところで、われわれの内の何人かは、幾つも列を成した憲兵に直面して、催涙弾を投げ返し、投げつけるために歩道の敷石を剥がし、ゴミ箱から漁った瓶とひっくり返ったヴェスパから抜いたガソリンで作った火炎瓶を準備している。そういえば、左翼闘士たちは冒険主義や無分別について話している。諸条件が整っていない、と彼らは言い訳する。何も欠けてなどいない、全て揃っていた、彼らを除いては、とわれわれは言う。
戦闘主義のなかでわれわれが放棄するのは、この状況への不在である。政治運動が強いる優柔不断さをわれわれが放棄するのと同じく。

活動家たち自身、この優柔不断さを感じとっている。だから彼らは、周期的に、己の兄貴分である闘士たちの方へと戻ってゆくのだ。活動家は闘士から諸々のやり方、活動の場、スローガンを借り受ける。戦闘主義において彼らを引きつけるのは、彼らには欠落している恒常性・構造・誠実さである。かくして再び活動家たちは、異議を申し立てたり、要求を行ったりすることになるだろう――「全ての人に身分証明証を」「人びとの交通の自由を」「保証賃金を」「交通機関の無償化を」等。
こうした諸要求に関わって問題となるのは、先ず、諸権力が聞き取れるような語彙で欲求を表明することは、これらの欲求に関して、つまり彼らが世界の現実的変化と呼ぶものに関して、何も言っていないに等しいということである。だから諸輸送手段の無償化を要求することは、移動することではなく旅することへのわれわれの欲求、ゆっくりした動きへのわれわれの欲求に関しては何も言っていない。
また、これらの要求はたいてい、それが争点を表しているところの、現実に起るもろもろの衝突を隠蔽するにすぎない。無償の交通手段への要求は、或る然々の場所における、不正行為のテクニックの普及を召くにすぎない。人的交通の自由への要求は、検札の引き締めから実践的に逃れるという問題を巧みにはぐらかすにすぎない。
保証賃金のための戦いは、せいぜい、窮地を切り抜けるためには資本主義の改良が必要だという幻想へと、みずからを追いやることである。ともかく、袋小路はつねに同じなのだ。これら動員された者達の個人的な可能性は革命的ではあるかもしれないが、根本的改革のプログラムとして提示されるものの中に同化されたままに留まっている。改革と革命の二者択一を乗り越えるという言い訳の下、ご都合主義的な曖昧さの中にこそ、人は置かれている。

現在の破局とは、積極的に安住不可能にされてしまった、一つの世界の破局である。人間同士および、各々の世界との関係の中に安住していた者全ての、一種の体系的な荒廃である。資本主義は、権力をめぐる諸々の技術、本来的に政治的な諸々の技術なくして、惑星規模での勝利を勝ちとることはできなかっただろう――諸々の技術と言ったが、その中にはあらゆる種類の技術がある。道具があるのであれないのであれ、物体的であれ言説的であれ、性愛に関するものであれ美食に関するものであれ、規律訓練や統制の諸々の装置にいたるまで。そしてこのことは、「技術の支配」を告発するにあたっては、何ら役に立たない。資本主義の政治的技術は、先ずは、諸々の結びつきを破壊することにある。その結びつきとは、そこに一つの集団が一つの同じ運動をつうじて、己の糧と実存の諸条件を生産する手段を見つけだすところのものである。そして資本主義の政治的技術は、石や金属、植物、何にでも使える樹木、神々、魔神、野生ないし家畜化された動物、医療や精神活性化物質、護符、機械、そしてその他、人間集団がそれによって諸世界を構築する、すべての関係物から、人間共同体を切り離す。
共同体を全面的に破壊し、その存在手段およびそれに関わる知から諸集団を切り離すこと。それが、あらゆる関係の中に市場という媒介の闖入を命ずる、政治的理性である。魔法使いたちを厄介払いすること、すなわち医療に関わる知や、魔法使いたちが存在させていた諸世界間の通り道を除去しなければならなかったように、今日必要とされているのは、農産物加工業の多国間による独占および、その他の農業政策管理組織を確固たるものとするために、農民がみずからの種を撒くことの放棄である。

資本主義のこうした政治技術、現在の主要都市はそれらの最大の集中ポイントを形成する。主要都市とは、究極的にはみずからの再我有化が可能である他にはほとんど何もない場である。人間が自分自身とのみ関係し、それ以外の諸存在形態から切り離された状態でみずからを生成し、他の諸存在形態とは決して出会うことなくそれらと接し、利用するために一切が作られているような、一つの場である。
この分離を基礎として、またこの分離を持続可能とするために、人は、諸々の市場関係を無視する最小限の企てをも犯罪行為と見做すことに専念する。
合法性の領域は長い間、賃労働や個人起業、無償奉仕や戦闘主義によって、生を不可能なものと化す様々な拘束のそれと混同されている。
この領域がつねにいっそう住みにくくなるのと同時に、人は、生を可能とするのに貢献する全てのものから犯罪を作りだす。
活動家たちが「誰も不法ではないNo one is illegal」と絶叫するところに、まさしくそれとは逆の事態を見てとらねばならない。すなわち、こんにち、完全に合法的な存在とは、完全に服従させられた存在である。
脱税や架空の雇用、インサイダー取引や偽装破産といったものがある。RMI〔再就職促進最低所得保証〕における詐欺、給料支払に関する偽造データ、APL〔住宅手当〕の不正受給、補助金横領、公費で賄われるレストラン、罰金の踏み倒しといったものがある。国境を越えるための飛行機の貨物室内の旅、都市や国内を旅行するためのチケット不要の旅といったものがある。メトロ内の詐欺行為〔無賃乗車など〕や万引きは、主要都市内の何千もの人びとの日常的行為である。種を交換するこれら不正行為こそが、多種の植物の保護を可能としてきた種子の交換のようなものである。資本主義世界システムには他の不正行為よりもいっそう機能的な不正がある。その幾つかは黙認されており、他の幾つかは奨励されていて、その他のものは結局のところ罰される。空き地に即興的に作られた菜園が、最初の収穫の前に、ブルドーザーで破壊される様を見る機会は大いにある。誰もがいつでも通る諸々の空間を支配する例外的法規や慣習的規則の、すべてを人が重視するならば、その時点で、処罰されないことを保証されうる者は存在しえない。諸々の法規、コード、法解釈の決定といったものがあり、存在を、全面的に処罰対象たらしめる。そのためにはこれらの法規その他が字義通りに適用されるだけで充分である。

砂漠が拡大するところにおいて、救済者もまた大きくなるということに、われわれは賭けるつもりはない。この砂漠を拡大させるもの全てから離脱することから始めなければ、何も起らない。
何らかの広がりを持った一つの力を構築するには時間がかかるということを、われわれは知っている。われわれにはもはや作りだすことのできない多くのものがある。実のところ、われらが発展地域において分かち与えられる近代化と教育の恩恵に浴す全ての者たちと同様、われわれには殆ど何も作りだすことはできない。装飾用にではなく料理や医療のために植物を摘むといったことさえ、せいぜい時代遅れと見做され、最悪の場合には哀れみを催させるものとなる。
われわれのしている総括は単純である。老いさらばえた世界の、これらの地域に住んでいるという単純な事実が与えてくれると同時に共有させてくれる、一定の富と知を自由にできるものなら誰でも〔殆ど何も作り出せない〕、ということである。
問題は金銭と共に或いは金銭なしで生きるかとか、盗むか購買するかとか、働くか働かないかといったことではなく、市場社会に対するわれわれの自律を成長させるために、われわれの金銭を有効に利用するということである。
そしてわれわれが働くより盗む方を、盗むより自律的に生産する方を好むとすれば、それは純粋性への配慮によってのことではない。諸商品や、生き残るための方法を条件づける主体的隷従の流れを加速させる権力の諸々の流れが、途方もないものとなったからである。
われわれが何に直面しているのかを言うのに不適切なやり方が幾つかある。われわれはキャンペーンに行こうとは思わないし、旧弊な知を再我有化して蓄積させようとも思わない。われわれの問題は諸々の手段の再横領のそれですらない。ましてや諸々の知の再横領のそれでもない。政治運動(アクティヴィズム)の領域において展開される、あらゆる知、技術、創発性を集合させたとしても、一つの革命運動を手に入れることはできないだろう。これは一つの時間性の問題である。一つの攻撃が消えゆくことなく成長しうる諸条件を構築するという問題であり、また、われわれに持続を可能にする物質的連帯を打ち立てるという問題なのだ。

われわれはこう考えている。共有された一つの物質的力を構築しなければ革命はない、と。われわれはこの信念のアナクロニズムを疎かにしない。
それには時期尚早であり、またあまりに遅きに失しているということもわれわれは知っている。だから、われわれには時間がある。
われわれは待つことをやめたのである。




命題Ⅳ
反逆点、砂漠からの脱出、〈資本〉の終焉を、われわれは、各自がそれぞれに生きているものと思考しているものとの間に打ち立てる、結びつきの強度の中に位置づける。実存的リベラリズムの支持者たちに抗い、われわれはそこに、私的な事柄や個人的問題、個的性格の問いを見るのを拒絶する。われわれは逆に、この結びつきが、共有された諸世界の構成に、そして実効的な諸手段の共有化に依存しているという確信から始めよう。

補注
誰もが日常的に、「生と思考の間の関係」についての問いがどれほど無邪気で、当惑させる問いであることを認めるよう強いられ、結局のところ、至極単純な教養の欠如について証言するのである。われわれはそこに一つの症状を見てとる。と言うのも、この明らかさは、あまりにも根本的に近代的な、公と私の間の区別の、リベラルによる再定義の結果に過ぎないからである。リベラリズムは原理的に、社会構造やその諸制度および国家権力の水準での直接的帰結を伴わないと認められてはじめて、全てが許されねばならず、全てが思考〔想定〕されうると主張する。社会および国家のゲームの規則が受け入れられてこそ、いかなるアイディアも許容されうるのであり、その表現は選好さえされるべきである、と。言い換えれば、私的個人の思考の自由は全面的でなくてはならず、その表現の自由もまた、原理的に全面的でなければならないが、但し、集団生活に関わる事柄に関しては、その思考の諸帰結を望むことは許されない、と。

おそらくリベラリズムが個人を発明したわけだが、但しそれは直ちに四肢を切断された個体である。自由な個人とは、今日、平和主義者や市民の運動に最もよく表われているのだが、まさしくこの自由が何も拘束せず、とりわけ他者に何も課そうとはしないその限りで、己の自由にこだわる存在である。「私の自由は他者たちのそれが始まるそこにおいて停止する」という愚かな戒律は、今日、一つの乗り越え難い真理として受け入れられている。ジョン・スチュアート・ミルですら、リベラリズムによる征服の本質的橋渡しを行った一人ではあるにせよ、或る厄介な帰結が生じると記していた。すなわち、一切を欲望することが許されている、ただし、それがあまりにも強く欲望されてはいないという唯一の条件つきで、それが私的なものの諸限界、とにかく公的な「自由な表現」の諸限界を食みださないという唯一の条件つきで。

われわれが実存的リベラリズムと呼ぶものは、諸々の明白さの一系列への同意であり、それら明白さの核において、欺瞞に必要不可欠な主体の自由が出現する。欺瞞という観念そのものから前もって解放してくれる、この一種の下位-体制の中で機能することに、われわれは馴らされてきた。この情動的な下位-体制は、われわれがみずからの大人への成長の保証として受け入れた抵当である。最も熱き人びとにとっては、踏み越え難い理想としての情動的な自立状態の幻影とともに。とは言え、子供の頃から持ってきたであろう、彼らに随伴し続ける(将来への?)有望性との結びつきを守ろうと決めた人びとにとっては、そこには裏切るべきものがあまりに多くあるということにすぎない。

リベラリズムの諸々の自明性の中には、みずからに固有の諸々の経験に対してさえ、一人の所有者としてふるまうというものある。だから、リベラルな個としてふるまわないことは、先ずは己の所有権〔諸特性〕を保持しないということである。さもなければ「所有権」という言葉に別の意味を与えなければならない。もはや私に固有に属すものではなく、私を世界に結びつけるもの、その限りで私に用意されていないものは、一つの私的所有権とも、一つのアイデンティティを定義すると想定されたもの(「私とはこれこれの者である」という定義と、「それがまさに君だ!」というその確認)とも、関係がない。個的所有権という観念を拒絶するなら、われわれは諸々の愛着に反する何をも持たなくなる。横領〔我有化〕ないし再横領〔再我有化〕への要求は、われわれにとって、われわれに適応した〔所有された〕もの、すなわち使用の面で、欲求の面で、世界のとある場所や、とある瞬間への関係の面で、適切なことを知るという問題に還元される。

実存的リベラリズムとは、政治的理想として取り組まれる、社会的-民主制に適合した自発的倫理である。諸君が最良の市民であるのは、ただ、諸君があなたのいる場所を保持するために一つの関係ないし戦いを否定することができる場合だけである。それはいつも苦痛なしに進むわけではない。そうではなく、まさにそこでこそ、実存的リベラリズムは効果を発揮する。実存的リベラリズムは、自分が生み出した諸々の不快感に対する治療法すら、予め準備しているのである。アムネスティ宛の小切手、フェアトレードのコーヒーの包、新たな戦争に対するデモ行進、ダニエル・メルメのラジオを聞き惚れること、これらは救済のみぶりを装った非-行動でもある。まさしくいつも通り〔慣習的〕に行為せよ、すなわち与えられた空間の中を散歩し、買い物せよ、いつもと同じように、或いはそれ以上に、慣習を補完する如くに、良心を授けよ。無登録商標を買い、トタル石油をボイコットせよ。そうすれば、結局のところ政治的行為とは大したことを要求するものではなく、われわれも「政治参加する」ことができるのだと諸君が納得するのには充分なのである。この寛大な商取引には何も新しいことはないが、困難は、周囲の誤謬を断ちきろうという感覚において生じる。他なる可能な世界を祈願する文化、フェア・トレードの思考は、値札についてとは別の仕方で倫理について語るための空間を殆ど残さない。環境保護団体や人間中心主義者によるアソシエーションや「連帯」の増殖が、広まる社会への不満を誘導するため折よく到来する。かくして、個人の価値付けや承認と、「相応に」徴収された諸々の補助金の分配によって、要するに社会的有用性への崇拝(カルト)によって、事の成り行きの永続化に貢献している。
取り分け、もはや敵はいない。在るのはせいぜい諸問題であり、諸々の破局の更なる濫用である。その破局とは、権力の諸装置が我々を護ることができる程度のものである。

リベラリズムを打ち立てた人びとが諸セクトの排除に偏執していたのであれば、それは諸セクトの中であらゆる主体的諸要素が結びつき、その結びつきを排除することが近代国家の存在条件を成したからである。一人のセクト主義者にとって、生とは先ずはまさしく一つの真と認められた思考がじかに要求するもの――すなわち世界の諸事物および諸々の出来事に対する或る一つの意志、重要なものを見失わないための一つの様式に対して適切とされうるものである。「社会」の出現(およびその相関項である「経済」)と公私についてのリベラルによる再定義の間には一つの並存関係がある。セクト的集団性はそれ自体によって、そしてこの集団性が分離の一つの組織形態である限りで、「リベラル社会」なる冗語が指し示すものに対する一つの脅迫である。近代国家創設者たちの悪夢はそこにあった。一部の集団が全体から離れ、かくして社会的統一性という理想を廃棄するという悪夢である。「社会」が受け入れることのできない二つの事柄の一つは、一つの思考が具体化されること、つまりその思考が或る存在、言い換えれば生のふるまいないし生存様式に対して効果を発揮するということであり、もう一つは、この具体化がたんに伝達されうるのみならず、共有され、コモン化〔共産化〕されうるということである。統制の外にあるあらゆる集団的経験を「セクト」と形容して貶めることに人が慣れてしまうためには、それらはあってならないのだ。

市場世界の自明性がいたるところに挿入されている。諸々の目標と手段を切断し、かくして「日常生活」を一つの生き方の空間――その役目はわれわれを管理することだけにある――へと滲ませていくにあたって、この自明性は最も操作的な道具である。日常生活とは、一つの必然的かつ普遍的な無力化の受容として、そこに向かってわれわれが戻ってゆくのを望んでいると見做されているものである。それは、先延ばしされない歓喜の可能性の放棄の、日々増大する部分である。或る友の言うように、それはわれわれが犯しうるあらゆる犯罪の中で中庸〔平均的〕なものである。
諸々の集団性を待ち受ける裂け目、つまり現実の極度の凡庸さ、中庸〔平均〕的強度の頂点としての共同体、マリヴォー風〔優雅で凝った言い回しによる恋愛描写〕の陳腐さに満たされた、不器用で緩慢な断層化の回帰から逃れ去ることのできる集団は稀である。

無力化とはリベラル社会の一つの本質的特徴である。いかなる感情も溢れ出てはならず、誰もが自制する義務を持つことを要請される無力化の諸々の源を、誰もが知っており、とりわけ誰もがこの源をそれ自体として生きている。企業(だが今日、「企業」でないものがあるだろうか?)、ディスコ、スポーツ施設、文化センター等である。これらの場所に関して誰もがその事情に通じているとすれば、真の問題は、それではなぜこれらの場所はかくも流行ることができるのかを知ることにある。つねに、そして何よりも先ず、むしろ「何も起らず」、いずれにせよあまりに深い動揺を引き起こすようなことが何も起らないことを望むのはなぜなのか? 習慣によって? 絶望によって? シニシズムによって? さもなければ、人はそのようにして、全くそうではない〔にも関わらず〕、何処かに存在してあることの喜びを、本質的には全く余所の場所にありつつそこに存在してあることの喜びを感じることができるからであり、かくしてわれわれが存在しているということが、結局のところ、もはや存在してはならない地点で保持されているからであるだろう。
何より先ずこれらの「倫理的」問いが立てられねばならず、とりわけこれらの問いをこそ、われわれは政治の核心そのものに見出す。すなわち情動の無力化に、決断的思考の潜勢力を孕んだ諸効果の無力化に、いかに応答すべきか? そしてまた、これら無力化を近代社会はいかに利用したのか、より正確には、近代の機能における本質的な歯車としての無力化をいかに作動させているのか? われわれの緩衝的傾向がわれわれの中で、そしてわれわれの集団的経験の中に至るまで、どのようにして帝国の物質的効力と替わるのか? 

これらの無力化を受け入れることは、勿論、創造行為の大いなる強度と対を為す可能性がある。一つの創造的特異性であるという条件で、あなたは狂気に至るまで経験することができるし、またこの特異性の証明を(作品として)公に創り出すことができる。また諸君は動揺が何を意味するのかを知ることもできる。但しこの動揺をただ一人で感じとり、究極的にはこの動揺を間接的に伝達するという条件で。そうすれば諸君は芸術家とか思想家として認められ、たとえ殆ど「政治参加」することがなくとも、より遠くを見通して他者に知らせるだろう良心とともに、諸君が望むあらゆる瓶を海に投げ込む〔投瓶通信する〕ことができる。

他の多くの人びとと同様、われわれは或る「内面性」の中に閉じ込められた諸々の情動が悪化するという経験をした。それらは症状にさえなりうる。われわれが己の中に見てとる諸々の硬直は、諸々の壁に由来する。その壁とは、己の人格の諸々の限界を記すために、そしてその人格の中に、溢れ出してはならないものを包含するために建てなければならないと各自が思い込んでいるものである。或る理由または別の理由でこれらの壁がひび割れ、砕けるとき、恐ろしいものでありうる何か、本質的にじかに恐怖la frayeur、とは言え不安(恐れ)la peurからわれわれを解放しうるような恐怖とともに見るべき何かが起る。個の諸々の限界や、文明によって線引きされた諸々の境界を問題視することのすべてが、救済として現れる。諸身体が陥る或る種の危機は、あらゆる具体的な共同体の存在が伴う。諸々の情動と思考がもはや互いに割り当てられなくなるとき、そこにおいて諸々の個体とは無関係に、情動・観念・印象・感情が通過するところの一つの伝播が回復されたときがそれである。必要なのは、ただ、そのようなものとしての共同体が解決ではないということを良く理解することである。いたるところであらゆるときに生じるその消滅こそが、問題である。

われわれは人間を、互いに孤立したものとは捉えないし、この世界にとっての他者であるとも捉えない。われわれは人間が、それを否定することを習得したところの多様な愛情によって結ばれているのを見る。情動の伝播によってこれらの愛情は感じとられるのだが、この否定はそれを妨げることができる。翻ってこの妨げは、習慣が最も無力で色褪せて中庸な強度の体制に捕われてあるために必要とされる。この体制は休暇や、あるいは恩恵としてのゆったりとした夜会やディナー――つまりは全く同様に無力で、中庸にして色褪せた、とは言え自由に決断される何かとしてのそれらを、欲望させうるものである。まさしくきわめて西欧化されたこの強度の体制によって、帝国の秩序は己を養うのである。

共有状態で実験される諸々の情動的強度を礼賛することで、あなた方は諸々の生ける存在が生きるために要求するものを、つまり優しさや落ち着きといった、今日では希少な食料品のように高価に売られてすらいるものとは逆方向に向かっている、と人はわれわれに言うだろう。このように述べることで、われわれの視点は権威に認められた諸々の娯楽と相容れないのだと人が言いたいのなら、ウィンター・スポーツに熱狂する人びとですら、あらゆるスキー場が燃やされ、リスたちに再び彼らのスペースが与えられる様子を見るのは大いなる喪失にはあたらないと認めることもできよう。そのかわりにわれわれは、生きるものである限りの全てが保持する喜びに抗うものを何ら持ってはいない。「生きることは心地よいことであるかもしれない」ということを、どの若い草木も世界市民の誰よりよく知っているのである。




命題Ⅴ
あらゆる道徳的懸念、あらゆる純粋性への配慮に換えて、われわれは一つの戦略の集団的準備を据える。
われわれの力の増大を削ぐものだけが悪しきものである。
もはや経済と政治を区別しないということが、この解決の役目である。
ギャングたちを形成するという展望は、われわれにとっては恐るべきことではない。むしろマフィアと見做される方がわれわれには楽しい。

補注
われわれは嘘を売りつけられた。われわれにおいてに最も固有なものは、共有のもの〔コモン〕からわれわれを分つものであるという嘘を。
われわれは逆の経験をする。あらゆる固有性は様式と強度において感じとられるのであり、固有性と共に一つの存在は何か共有のものを存在させる。
要するにわれわれは其処から出発する。
われわれがいる其処から。
われわれの中の最も特異なものが一つの共有を呼び求める。
ところでわれわれは次のことを確認する。われわれが共有すべく持ち合わせているものは、支配的秩序とは明らかに相容れない。それだけではなく、支配的秩序はあらゆる共有形態を執拗に追跡し、支配的秩序は共有の諸規則を発布したりはしない。例えば諸々の巨大都市においては、兵舎、病院、監獄、避難所、老人ホームといったものが、集団的居住の唯一認められた形態である。規範的国家とは、誰もが己の私的立方体の中で孤絶している状態である。彼が他所で生じさせる諸々の出会いや、彼の感じる反発がどれほど転覆的であろうとも、其処で彼は変わることなく回転する。
われわれは存在のこうした諸条件を知ったのであり、決して其処には戻らないだろう。これらの条件はわれわれを過剰に衰弱させ、過剰に傷つきやすくさせ、枯渇させる。
「伝統的な社会」においては、孤絶とは最も苛酷な罰-苦痛であり、共同体の成員はこの罰-苦痛に曝される可能性がある。今やこれが共同体の条件である。それ以外の災厄は、論理的に、この条件に引き続く。
偏狭な観念によってこそ、各々が通りを警察に委ねるのが自然であると思いつつ、それぞれの我が家を作りだす。〈人〉が各々に私的空間という避難所を予め授けていないなら、〈人〉は世界をかくも果敢に住み難くすることも、あらゆる社会性を統制すると主張すること――バー付きの市場、秘密研究所付きの企業――もできなかっただろう。

われわれを傷つける存在の諸条件の外へのわれわれの逃走において、われわれはスクウォット或いはむしろ国際的なスクウォットの舞台を見出す。人がそれについて何を言おうとも、統制の外での集団の凝集形態が実験される、占拠された諸々の場のこの星座的配置に、われわれは先ず、一つの力の増大を見てとった。われわれは基本的生存のために組織化されており――懐柔・窃盗・協同作業・共同の食事・諸技術・用具・愛情の共有――、またコンサート・示威行進・直接行動・サボタージュ・ビラといった――政治的表現の諸形態を見出した。
次に、少しずつわれわれは、われわれを取り巻くものが環境へ、環境から舞台へと変化してゆくのを見た。われわれは、或る道徳の布告が一つの戦略の準備にとって換わるのを見た。諸規範が凝り固まり、名声が構成され、着想の数々が機能し始め、一切がきわめて予測可能なものと化すのを見た。集団的冒険はくすんだ同居に変貌した。
敵意ある一つの寛容があらゆる関係を奪取した。われわれは整備されたのである。そして結局のところ、必然的に、一つの反-世界であると思い込んでいたものはもはや支配的世界の一つの反映にすぎないものに還元された。窃盗や殴り合い、政治的修正や、ラディカルさの現場における、いつもの個人的評価――、情動的生におけるいつもの汚れたリベラリズム、領土や掌握に対するいつもの配慮、日常生活と政治活動の間のいつもの分裂、同一性に対するいつもの偏執。最も運のいい連中にとって、周期的に己の局所的悲惨から、それを未だエキゾティックなものと見做す他所の地に齎しつつ、逃れ去るという贅沢と共に。

これらの脆弱さをスクウォット形態のせいにしようとは思わない。われわれはこの形態を否定も放棄もしない。スクウォッターがわれわれにとって新たな意味を獲得するのは、ただ、われわれが携わっている共有の諸々の原理に立ってそれが理解されるという条件においてのみである。他と同様スクウォットにおいても、一つの戦略の集団制作が、自己同一性への自閉や統合化ないしゲットーに対する唯一の代替案である。

戦略に関して、われわれは「敗北者たちの伝統」の教訓全てを覚えている。
われわれは労働運動の端緒を覚えている。
それらはわれわれに近しい。
なぜなら、その初期段階において作動していたものは、われわれが生きているものに、今日われわれが作動させようとしているものに、じかに結ばれているからである。
「労働運動」と呼ばれていたものの大勢での構成は、先ず、諸々の犯罪行為の共有に基づいていた。ストライキやサボタージュ、秘密結社、階級の暴力といった事例における連帯の裏帳場、個人的解決から始めることを狙いとした相互共済の諸々の第一形態は、それらの非合法的特徴や敵対性に対する完全な自覚において展開されてきた。
労働者の組織化の諸形態と組織化された犯罪行為の間の不分明が最も触知されるのはアメリカ合衆国においてである。産業時代端緒のアメリカ・プロレタリアたちの力は、労働者たちの共同体の只中で、諸々の不法な連帯の存在に起因するのと同様、〈資本〉に対する破壊と報復の力の発展に起因するものだった。労働者から犯罪者への恒常的な反転可能性は、その返答として、或るシステム化された統制を、あらゆる形態の自律組織の「道徳化」を、呼び求めた。誠実な労働者という理想的存在から溢れだす全ての者を、〈人〉はギャングとして周縁化させた。一方ではマフィアを、他方では労働組合を獲得するに至るまで、これらは何れも同様な相互的切断の二つの産物である。

ヨーロッパでは、労働組織諸形態の国家管理装置――社会民主制の基礎――への統合は、最小限の有害性を引き受けることの放棄によって償われた。ここでも労働運動の出現は実際的な連帯に、コミュニズムへの緊急の要請に属していた。「人民の家」は、直接的共有化と革命過程の作動に結ばれた戦略上の必要性の間のこの不分明の、最後の避難所だった。次いで「労働運動」は、その戦略上の存在理由から切り離された安上がりのボロ家である協同的流れと、他方での議会制や共同管理の地平に投射された政治的・労組的諸形態がとが徐々に分離するかたちで展開されていった。分離主義におけるあらゆる目標の放棄からこそ、左派というこの不条理は生まれた。この不条理が頂点に達したのは、諸労組が乱暴者たちを押さえ込むために警察と協力し合うことを納得させようと叫び、暴力に訴えることを非難したときだった。
近年の諸国家警察の硬直化が証明したのは次のことのみである。すなわち、西欧社会は集団の凝集力を完全に失った。それらはもはや己の避け難い解体の管理しかしていない。すなわち、本質的には、あらゆる集団的再凝集化を禁ずること、出現する全てのものを粉砕することである。
その場を離脱する一切の者を。
列から食み出す全ての者を。
だがそこでは何も生まれない。これらの社会内部の廃墟状態は、増大する亀裂の数を示している。外観の絶え間ない塗り替えは、諸世界が形成される場において、何一つ可能にしていない。スクウォット、コミューン、セクト、都市、何れもが資本主義の悲歎から抜け出そうと試みる。最も多くの場合、これらの試みは、諸々の接触、適切な連帯を打ち立てなければ、また同様に、世界内戦の参加者としての自覚がなければ、自給自足を流産ないし瀕死にいたらせる。
しかしこうした集団の再凝集化はどれも、群衆の欲望、一切を放棄すること、抜け出し、出発することへの絶えず延期される欲望から見れば、依然として何ものでもない。
二つの調査の間の10年間で、イギリスでは10万の人間が消滅した。彼らは一台のトラックを、一枚のチケットを、薬物、或いは隠れる場所を手に入れた。彼らは離脱し、出発した。
われわれはみずからの離脱において、糾合すべき一つの場所、採択さるべき党、取るべき指針を持つことを望む。
出発する多くの者たちは、彷徨っている。
そして、決して到達しない。

したがってわれわれの戦略は以下のようになる。即刻、脱走の複数の拠点、分離の複数の極、合流点を打ち立てること。失踪-徘徊する者たちのために、出発する人びとのために。奈落の其処へと通ずる文明という帝国から逃れ去る複数の場所を。
問題は諸々の手段を手にすること、そして、別々に各自に課され、鬱-陥没へと追いつめてゆく諸々の問題を乗り越えさせる梯子を見つけだすことである。どうすればわれわれを衰弱させる諸々の依存-従属関係をくじくことができるのか? どうすればもう労働せずに済むような組織化ができるのか? 死に至らしめる諸々の資本の外で、とは言え「田舎に出発する」ことなしに、いかに身を立てるべきか? どのように原子力発電所を停めるべきか? 一人の友人が狂気に陥るとき精神の粉砕に訴えることを強いられないためには、あるいは病気になって粗雑な機械的投薬治療に訴えることを強いられないためにはどうすればよいのか? 互いを潰し合うことなく、いかにして共に生きるか? 一人の同志の死をいかに受け入れるのか? いかにして帝国を廃絶するのか?

われわれは己の脆弱さを知っている。われわれは生を享け、平穏な、崩壊した社会で育った。集団的な強度に満ちた対決の諸々の瞬間が与えるこの密度も、それに結びついた諸々の知も、われわれには獲得する機会がなかった。われわれにあるのは、共に熟する一つの政治教育、理論的かつ実践的な一つの教育である。
ゆえに、われわれには複数の場所が必要である。己を組織化し、要求される諸々の技術を共有し発展させるための場所が。その必要性が明らかにされうるもの全ての取り扱い方を訓練するための場所が。協働するための場所が。バウハウスの実験が政治的射程をそっくり放棄しなかったなら、それはそこに含まれていた具体性と厳密さをもって、諸々の知と経験の伝達に向けて整備された時空をわれわれが作り出すのだという理念を、喚起させるだろう。ブラック・パンサーたちもこのような場所をみずからに与えようとしており、彼らが毎日配分する数万人分の無料の食事や自律的刊行物といった、みずからの政治的-軍事的力能を、彼らはその場所に付加してゆく。やがて彼らは権力にとってあまりに明白な一つの脅迫を形づくるようになり、その結果、〈人〉は彼らを抹殺するための特殊部隊を遣わさねばならなくなる。

このように力をふりしぼってみずからを組織する者なら誰でも、諸々の敵意に満ちた世界規模の展開の中で、自分が一つの党と成ることを知っている。「暴力」に訴えるかそれとも放棄するかという問題は、このような党に対して立てられる問題の一つではない。また友好主義自体がわれわれにはむしろ、CRS〔共和国保安警備隊〕の分遣隊やジャーナリストたちの側から帝国に奉仕する、一つの補完的軍事力として現われる。われわれを悩ませているに違いない諸々の注意は、われわれに課された非対称な抗争の諸条件、われわれの諸々の実践に適した出現と雲隠れの方法に関わっている。示威行進、包み隠さぬ行動、憤慨を湛えた抗議といったものは、現状を支配する体制には不適切な闘争の諸形態であり、これら統制システムを明るみに出す諸々の情報を培養させることによって、それらを強化するものでさえある。しかも、われわれの管理者をも含めた同時代的主体性の脆さを前にしたなら、しかしまた最下級市民の死を涙で包み込む悲壮趣味を前にしているなら、諸々の具体的装置に一つの顔貌を与える者たちよりはむしろ、それらの装置自体を蝕むことの方が賢明である。戦略上の配慮からして、ということである。同様にまた、匿名のサボタージュ、求められない行動、容易く取得可能な諸々の技術への訴えかけ、的を絞った反攻といった、全てのゲリラに固有の諸々の作戦形態の方にこそ、われわれは向きを変えなければならない。

われわれがみずからの生存と闘争の手段を手に入れる仕方には、道徳上の問題ではなく、われわれがみずからに与える諸々の手段およびわれわれがそこから作りだす使用法をめぐる戦術上の問題がある。
或る友は言った、「私たちの生における資本主義の発露、それは悲しみなのだ」と。
問題は、喜びのもとに共有される自由の具体的諸条件を打ち立てることである。




命題Ⅵ
一方でわれわれはコミュニズムを生きることを欲する。他方でわれわれはアナーキーの拡張を欲する。

補注
われわれが生きる時代は、最も極端な分離の時代である。大都市の抑圧的な規範性、その孤独な群衆は、諸々の原子から成る一つの社会という不可能なユートピアを表現している。
最も極端な分離は「コミュニズム」という言葉の意味を認識させる。
コミュニズムとは一つの政治的または経済的システムではない。コミュニズムはまさしくマルクスなしで済ませる。コミュニズムはソ連邦を無視する。そして〈人〉が、全てがわれわれをコミュニズムに駆り立てているとしか感じないのならば、50年前から10年ごとに、「コミュニズムとはどのようなものであるか見てみるがよい!」と叫ぶために、〈人〉はスターリンの諸々の犯罪を発見するふりをしている、としか説明できないだろう。

かつてコミュニズムに抗して身を持してきた唯一の論拠は、それは必要とされていない、というものだった。なるほどそれがどれほど狭量なものであったとしても、ごく最近まで、諸々の事物、言語用法、諸々の場所、諸々の共同財(コモン)が、其処此処で確かに存続していた。それらの何れもが衰退しないためには充分なものだった。複数の世界があり、それらは民で満たされていた。コミュニズムの問いを思考し、立てることの拒否には諸々の論拠があり、それらは実践的な論拠だった。それらは一掃された。フランスでは、1980年代、永続するがままの80年代が、この究極の追放のトラウマとも言うべき指標として、依然続いている。以降、一切の社会関係は苦痛と化した。望ましくはまったくの麻痺状態、そしてこの上なき孤独に至ることである。或る意味で、実存的リベラリズムこそがわれわれを、その勝利の過剰それ自体によって、コミュニズムに追い込むのである。

コミュニズムの問いは、世界、存在、われわれ自身に対する、われわれの関係の練り上げに関わる。異なる世界間のゲームやそれらの間のコミュニケーションの練り上げに関わる。惑星的空間の統一化にではなく、感覚的なものの創設、つまり諸世界の複数性に関わる。この意味で、コミュニズムとはあらゆる紛糾を消滅させることではなく、その後に全てが片付いたような社会の最終状態を描出するものではない。と言うのも、紛争によってもまた、諸世界はコミュニケートし合うからである。「人びとの間の差異が人間そのものに由来することのない差異であるにすぎないブルジョワ社会では、まさしく諸々の真の差異、質を備えた差異こそが保持されていない。コミュニストが望んでいるのは一つの集団的魂を構築することではない。偽の差異が清算された一つの社会を実現させることであり、これら清算された偽の差異を真の差異に向けてそのあらゆる可能性を開かせることである」と或る旧友は語った。

例えば、私に相応しいものとか私が必要とするもの、私の世界の一部を成すもの、つまり、私に属すものについての問いを、合法的所有権という国家(ポリス)権力による唯一の虚構が解決したと〈人〉が主張するのは明白である。或る事物が私固有のものであるのは、それが私の諸々の使用の領域の中に入り込む限りにおいてであって、何らかの法的資格によってのことではない。つまるところ法的所有権には、それを守護する諸々の力より他の如何なる現実性もない。コミュニズムの問いとは、したがって、一方で国家(ポリス)を廃棄することであり、他方で共に生きる人びとの間で共有や使用の諸様式を準備することである。この問いこそ、〈人〉が毎日、「ウザイ!」とか「頭を冷やせ!」などに沿って回避するものである。確かにコミュニズムは与えられるものではない。それは思考し、為すべきことである。同様に、コミュニズムに抗して提出されるあらゆる意見は、多くの場合、疲労の表明に帰着する。「でもきっとあなたはコミュニズムが目指すものには到達できませんよ…… そいつはうまくいかないでしょう…… 人間は今そうであるところのもの以上ではないんですよ…… それに生きるっていうことはもうそれだけで、充分にウンザリさせるものですよね…… もう力尽きましたよ、何もできませんね」といったように。だが疲弊は論拠ではない。それは一つの状態である。

したがってコミュニズムは共有の経験から出発する。先ずはわれわれの欲求の共有からである。欲求とは、資本主義の諸装置がわれわれをしてそれに馴らさせしめるところのものではない。欲求は、同時に世界への欲求であることなしに、事物の欲求たりえない。われわれの抱く欲求のどれもが、あらゆる恥ずかしさを超えて、世界を感じさせるあらゆるものにわれわれを結びつける。欲求とは、それによって、とある一つの感覚的存在が、己の世界の然々の要素を存在させる関係に与えられた名前に他ならない。だから世界を持たない人びと――例えば大都市に生きる諸々の主体――はまた、わがままをしか持たない。またそうであればこそ、他ならぬ諸事物への欲求を満たす資本主義が、普遍的に拡張させるのは、ただ不満だけなのである。と言うのも諸事物への欲求を満たすためには、資本主義は諸々の世界を破壊しなければならないからである。

われわれにとってコミュニズムとは、注意力の或る種の規律を意味する。

われわれがそれを生きているところのコミュニズムの実践を「〈党〉」と呼ぼう。或る障害を総体-集合的に克服しうるようになったとき、或いはより高次の共有の水準に達したとき、われわれは「〈党〉を構築する」と言おう。きっとわれわれが未だ与り知らぬ他の人びともまた、他所の地で〈党〉を構築しているはずである。この呼びかけは彼らに宛てられる。この時代においては、コミュニズムのいかなる経験も、組織化や他との結びつき、事態の臨界化、そして交戦なくして生き延びることはできない。「なぜなら生に恩恵を与えるオアシスは、われわれがそこに庇護を求めるとき、殲滅されるからである。」

われわれが考慮しているところのコミュニズム設立の過程は、コミュニズム化の諸行為の一つの集合としてのみ、然々の空間・道具・知の共有化としてのみ、体を成す。すなわちそれらに結ばれた共有の様式の練り上げとして。蜂起それ自体はこの過程における一つの加速装置、一つの決定的契機であるに過ぎない。われわれが言わんとしているところの〈党〉は組織――其処では透明性のせいですべては儚い――ではないし、家族――其処では不透明性のせいで一切からペテンの臭いがする――でもない。
〈党〉とは諸々の場所・インフラ基盤・共有化された手段、そしてこれらの場所・手段の使用・インフラの共有の間で循環する、諸々の夢・身体・呟き・思考・欲望といったものの一つの集合である。
〈党〉という観念は、或る最小限の形成の必要性に対応するものであり、不可視のままに留まることをわれわれに可能にしつつ、一切に接近することをわれわれに許す。われわれ自身に向けてわれわれを説明すること、われわれの共有の諸原理を定式化することが、コミュニズムの要請である。到来した共有が、少なくともそのことにおいて、最も古い共有と等しいものであるためには。
仔細に眺めてみれば、〈党〉は一つの感受性の力を通しての構成以外ではありえない。諸世界の群島的展開である。帝国下、みずからの農場・学校・軍・医療機関・集合住宅・編集台・印刷技術・幌付きトラック・大都市の中の前進拠点を持たない一つの政治的力とはどのようなものだろうか? われわれの内の何人かが依然として〈資本〉のために働くことを強いられているということが、われわれにはますます不条理なものと感じられる――勿論、多様な仕方での〔〈資本〉への〕侵入という任務を除いて。〈党〉の攻撃力、そして生産力もこれに由来する。しかしその中心において、諸関係は偶発的なやり方でのみ生産関係である。
最終的にはあらゆる関係の生産諸関係への還元を通して資本主義は存立するのだろう。企業から家族まで、消費それ自体が、もう一つのエピソードとして、一般的生産の中に、社会の生産の中に出現する。別のタイプの関係の諸条件を創造するに至るだろう人びとから、資本主義の転覆は到来する。
この点で、われわれが語っているコミュニズムは、〈人〉が「コミュニズム」と呼んでいるもの、多くの場合もはや社会主義でしかない、国家独占資本主義とは、悉く対立する。
コミュニズムは新たな生産関係の錬成においてではなく、まさしくその廃絶において存立する。
われわれの置かれた環境ないしわれわれの間で生産諸関係を持たないということは、成果の追求が、過程に対する配慮より優位に立つがままには決してさせないことであり、われわれの間のあらゆる価値形態を廃絶し、情動と協働が切り離されないように注意深くあることを意味する。
諸々の世界に注意深くあること、それらの感覚的形態に注意すること、それはまさしく何かが「生産諸関係」として孤絶してしまうのを不可能にすることである。
われわれが共有する諸々の手段の周囲に、われわれが切り開く諸々の場所において、この恩寵をこそわれわれは探求し、感じとるのである。
この経験に名前を与えようとして、フランスではしばしば「無償」という語への回帰が望まれる。無償よりはむしろ、われわれはコミュニズムについて語るほうを好む――というのも、われわれは無償なるものの実践が、組織化と、短期的に見れば政治的敵対とを、暗に含んでいることを忘れてはならないからである。

同様に〈党〉の構築は、その最も可視的な相においては、われわれにとっては共有化と、われわれが自由に扱えるもののコミュニズム化から成り立つ。一つの場所をコミュニズム化するとは、そこから使用を解放し、この解放に基づいて、精錬され、強度を高められ、充実した諸関係を実験することを意味する。私的所有が、本質的に、所有された事物の使用を望む者が自由裁量に基づいて〔何かを〕奪いとる権力であるとすれば、コミュニズム化は、そこから帝国の担い手をのみ、奪いとる。

いたるところでわれわれは、攻撃と構築、否定と肯定、生活とサバイバル、戦争と日常の間で選択せよという恐喝に対峙させられる。われわれはこの恐喝に応じない。この二者択一がいかにして、存在する全ての集合体を引き裂き、次いで分裂させるかを、われわれはうんざりするほど目の当たりにしている。展開される一つの力にとって、この根絶装置を無力化させうるのが、構築の問題なのか攻撃の問題なのか、あるいは食糧や医療に関する一つの関係的自律を目指すことが戦争行為を構成することなのか撤退行為の構成であるのかを言うことは不可能である。一つの蜂起においてそうであるように、そこには様々な情勢があり、そこでは同志たちの間で互いを配慮し合うことが可能であるという事実が、われわれの破壊力を著しく増大させる。武装することが一つの集団の具体的構成に関係ないと誰に言えようか。一つの共有された戦略に関して合意が為されているところでは、攻勢か構築かという二択は存在せず、各状況において、われわれの力を増大させるものと損耗させるもの、時宜を得たものとそうでないものに関する明白さがある。そしてこの明白さが欠けているところには討論があり、最悪の場合には賭けがある。

一般的に言って、武力とは別のもの、資本主義の全面的崩壊後に生き残ることができる、現実とは別のものが、どうすれば資本主義をほんとうに攻撃することができるのか、すなわちまさしくその崩壊にいたるまで攻撃することがどうすれば可能なのか、われわれには分かっていない。
ここで問題とされるのは、到来した契機、それはまさしく一般化された社会崩壊をわれわれの優位へと方向転換させることであるという点、アルゼンチンやソヴィエト風のやり方で、資本主義の沈下を革命的状況に転化させるという点である。具体的な自律と、帝国機械をサボることとを切り離せと主張する人びとは、自分たちがその何れをも欲してはいないということを、十分に告げている。近年の共有をめぐる最も偉大な実験が、1868年から1939年にかけてのスペインのアナーキズム運動という事実にあったということは、コミュニズムに対する一つの異議申し立てではないのである。




命題Ⅶ
コミュニズムはあらゆる瞬間を契機として可能である。
われわれが「歴史」と呼ぶものは、今日、人間たちがそれを厄介払いするために発明した諸々の遠回しな表現の集合にすぎない。この〈歴史〉が、或る世紀以降、諸々の災厄の多彩な集積に帰着したということは、ただそれのみにおいて、まさに、コミュニズムをめぐる問いを、もはや宙吊りにしたままではおけないことを告げている。この宙吊りをこそ、翻っては、宙吊りにする必要がある。

補注
「それにしても〈あなた方〉はいったい何を欲しているのか? 〈あなた方〉は何を提案しているのか?」
この手の問いは無邪気なものに思われるが、しかし生憎ながらこれは問いではなく、操作である。
みずからを表現する〈われわれ〉の全体を、外部の〈あなた方〉としてしまうこと、それは先ず、この〈われわれ〉が自分を何らかの仕方で呼びかけ、この〈われわれ〉が私を横断してゆくという脅威を祓い除けることである。そして、それは一つの文面を――割当不可能な自己において――、その所有者自身に宛てられただけのものにしてしまう。ところで目下支配的な、分離の方法論的組織化においては、諸々の文面が流布するのを認められるのは、ただ、一人の所有者、一人の作者に裏付けられるという条件においてのみである。さもなければこれらの文面は少しばかり共同のものであるという危険を冒すことになり、〈人〉の言うことだけが、匿名の伝播を許される。
次いで以下のような欺瞞がある。すなわち、われわれを不快にさせる一つの世界の流れに巻き込まれるや否や、成し遂げるべき諸々の命題、見出すべき諸々の対案が生じるだろうという欺瞞である。言い換えれば、分別ある人びとの間で、興奮を静めるようなやり方でそれについて討論するべく、われわれに作られた状況から人は抜け出しうるという欺瞞である。
否、状況の外の空間といったものはない。世界内戦に外部はない。われわれは手の施しようもなく、其処にいる。
われわれにできる全ては、そこで一つの戦略を練り上げることである。或る状況分析を共有し、一つの戦略を練り上げることである。それが、唯一の可能なる革命的な〈われわれ〉、同じ意味において行動する、至るところに存在する実践的な〈われわれ〉である。

われわれがこれを書いている2003年8月現在、われわれはここ20年来、〈資本〉の最も巨大な攻撃に直面しているとも言える。反テロリズムと、今は亡き労働運動がかつて勝ちとった最後の調整への弾圧が、人々の一般的歩みをリードしている。社会を支配する者たちは決して、自身が乗り越えてきた障害がいかなるものか、いかなる手段で保有者であるのかを、まさしく知らなかった。彼らが知っているのは、例えば、大都市に住み着く惑星規模で存在するプチブルが、みずからにプログラムされた根絶への最小限の抵抗を示すにはあまりにも武装解除してしまったことである。以降、彼らが導く反革命が、何100万トンものコンクリートによって、かくも多くの「新都市」建築そのものに刻まれていることを知っているように。より長期的な視野に立てば、どうやら〈資本〉のプランはまさしく、絶えずみずからの内に結ばれる諸々の安全なゾーンの集合を地球規模で解体することであり、そしてそこでは資本主義的価値評価の過程が、永遠であると同時に妨げられることのない一つの運動として、生の発現を含み込むように思われる。市民的で脱領土化された、この帝国的な快適のゾーンは、一種の警察的な連続体を形成するだろう。そこでは殆ど恒常化した、政治的でも生体測定学的でもある監視の水準が行き渡るだろう。そのとき「世界の残された部分」は、醜い引き立て役であると同時に文明化されるべき巨大な外部として、その不完全な社会秩序安定化の度合いに応じて翻弄されるだろう。イスラエルでここ数10年展開されているような、敵意に満ちた飛び地の間のゾーンごとの共存という野蛮な実験は、来るべき社会管理のモデルを提供するだろう。〈資本〉にとって、こうしたこと全ての現実的賭金が、それみずからの社会を根底から再構築することであるのは疑いない。その形態がどのようなものであれ、またその代償がどれほどのものであれ。
こうした視点からすれば、アルゼンチンにおける一国全体の経済的崩壊は、さほど高くつかなかったことが分かる。

この文脈でのわれわれとは、以下の三つの作戦の戦術的必要性を感じている者すべてのことである。

1、 あらゆる手段によって左派の再構築を妨げる。
2、「自然な破局」から「社会運動」にいたるまで、コミュニズム化の過程、〈党〉の構築を漸進させる。
3、帝国機械の維持に不可欠な諸部門の中にいたるまで、離脱を持ち込む。

1 周期的に左派は潰走している。これは喜ばしいことだが充分ではない。その決定的なまでに施しようのない潰走を、われわれは欲している。和解可能な対立という亡霊が、自分が資本主義的機能に不適格であると自覚している人びとの精神の中に、二度と漂わんことを。左派――誰もが今日それを認めているが、しかしわれわれはそれを明後日も未だ記憶しているだろうか?――はリベラル社会固有の無力化作用の装置の不可欠な部分を成している。社会的なものの内破が明らかになるに連れて、いっそう左派は「市民社会」を引き合いに出す。警察権力がその放埓を罰されることなく行使するに連れて、左派はいっそう己が友好的であることを宣言する。国家が近年の司法上の手続を逃れるに連れて、左派はいっそう市民的なものと化してゆく。危機による、われわれの生存のための諸手段の横領が増えるに連れて、いっそう左派はわれわれに待機し、調停を要求するよう促し、さもなくばわれわれの支配者の保護を促す。今日、社会戦争の地平上に公然と位置する諸々の政府に直面して、われわれに彼らの言うことを理解し、われわれの苦情を文書化し、諸々の要求事項を構成し、政治経済学を学習するよう厳命するのは、まさに左派なのだ。レオン・ブルム1872-1950。フランスの政治家〕からルラ〔不明。現ブラジル大統領ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァか〕に至るまで、左派とは人間、市民、そして文明の党でしかなかった。今日このプログラムは全面的的反革命のプログラムと、われわれを麻痺させる諸々の幻想の集合を現状維持するプログラムと一致している。左派の使命はしたがって、帝国だけがその諸々の手段を手にしているところのものについて説明することである。それは帝国的近代化の観念的側面を、資本主義という耐え難い進行に必要なはけ口を、形成する。若者や教育、研究に関する省庁の公刊物そのものに次のようなことを書くのを、〈人〉はもう厭わない。「今後、市民たちの具体的援助なしには、国家はわれわれの社会が爆発するのを避けることのできる現場を成功させる手段も時間も持たないだろうことは誰もが知っている」(『行動の必要性――政治参加ガイド』)
左派を打破すること、すなわち社会離れの通路をつねに開いたままにしておくことは、たんに必要なだけでなく、こんにちでは可能なのである。加速的リズムで諸々の帝国的構造が補強されている一方で、われわれは、労働運動の墓堀人でありまたそこからの出口でもある旧弊な労働者本隊論的左派から、ネグリ派がその最先端を形成していると言えよう新たな世界的・文化的左派への移行の証人である。この新たな左派は依然として「反グローバリゼーション」という近頃の無力化作用の悪しき土台である。新たな左派が進展させた諸々の幻想はまあよいとして、他方で旧来の左派には何の手立てもない。
われわれの務めは世界中至る場所に現れる左派を廃絶し、方法論的に、とはつまり理論においても実践においても、それらが構成されうる契機を一つ一つ妨害することである。かくしてジェノバにおけるわれわれの成功は、警察との見世物的な対立や国家諸機関や〈資本〉に加えられた損害においてよりはむしろ、デモ行進に参加したあらゆる隊列の中で「ブラック・ブロック」〔反グローバリゼーション運動などの直接行動に見られるアフィニティ・グループ〕固有の対決実践の普及によって、「白いツナギ」〔イタリアの反グローバリゼーション運動組織〕に寄せられた崇拝が消滅したという事実の方にある。ともかく、われわれのそれ以降の失敗は、この路上での勝利でのようなやり方で、われわれのポジションを練り上げることができなかったことにある。そのやり方とは、いわゆる「友好主義的」なあらゆる運動が今やシステマティックに扇動するたんなる案山子のようなものとは、まったく別のものに生成することである。
今や、諸々の社会フォーラムにおける世界中の左派のこうした退却――路上では敗北したという事実に由来する退却――をこそ、われわれは攻撃しなければならない。

2 年々、全てが機能するための圧力が増大している。社会のサイバネティクス化が進むに連れ、平常な状況は逼迫したものになってゆく。したがって諸々の危機状況や機能不全が増殖してゆくのは全く以って論理的である。帝国からすれば、電気系統の故障、酷暑、社会運動の間には何ら差異はない。いずれも混乱であり、管理しなければならない。さしあたって、言い換えればわれわれの弱さゆえに、これら中断的状況は、帝国が延命し、諸世界の具体性と結びつき、新たな手順で経験する諸々の契機と同じ数だけ出現する。帝国が、己が救うと主張する人々を、よりしっかりと引きつけるのはとりわけそこにおいてである。帝国は平常な状況への回帰の担い手としていたるところに現われる。われわれの務めは、逆に例外状況を居住可能なものとすることである。われわれが本当に「企業社会をブロックする」ことができるのは、ただ、平常への回帰の欲望とは別の欲望で一杯にするという条件においてのみである。
一つのストライキや「自然災害的破局」において生じるものは、或る意味ではまさしく類同物である。一つの宙吊状態が、われわれの依存-従属を組織する恒常-規範性の中に介入する。そのとき、各々の中に、欲求する存在とコミュニスト的存在という、われわれを本質的に結びつけ且つ本質的に分かつものが、剥き出しの状態で到来する。慣習という、すべてを覆う恥のヴェールは引き裂かれる。出会いへの、また、世界や自己、そして現れるがままの他者との関わり方を実験することへの柔軟な準備は、コミュニズムの可能性に関するあらゆる疑いを一掃するに充分である。コミュニズムの必要性に関しても同様である。このとき要請されるのは、われわれの自己組織化の能力であり、われわれの欲求に基づいて直ちにわれわれを組織化しつつ、持続させ、伝播させ、帝国権力が基づくところの恐怖政治のごとき何かに対して例外状況を現実にもたらす能力である。こうしたことは「社会運動」の中では特に際立っている。「社会運動」なる表現自体が、この場合、真に重要なことは人が進んでゆくところの運動そのものであって、そこで起こっていることではないと仄めかすために存在するように思われる。あらゆる社会運動には、今日、そこに在るものを掴み取ろうとしないという断固とした決意があり、諸々の社会運動が決して結集せず、むしろ互いを追い落としながら次々にあとを継ぐという事実はこのことによって説明される。そこから、運動の社会性に固有の、あらゆる政治参加が容易に取消しうるかのような、極めて脆い構造が生じる。その変わらぬドラマトゥルギーもまた、そこから生じる。すなわち、メディアの反響に由来する飛躍的な発展が、次いでこの速すぎる結集に始まる緩慢なしかし致命的な疲弊、そして最後に運動は干上がる。それは、然々の労働組合に挿入され、然々の協会を築き、そのことによってみずからの政治参加に一つの組織的連続性を見出そうと希望する、頑固な最後の砦である。だがわれわれが探し求めているのは、場合に応じて招集するための場所や、ビラを刷るための複写機を配備する、このような連続性ではない。われわれが探し求める連続性とは、何ヶ月もの闘争の後、労働に戻ってゆかないこと、以前と同じ労働を再開しないこと、ダメージを与え続けることを可能にする連続性である。そしてこのような連続性を打ち立てることができるのは、ただ諸々の運動の持続のみである。これは真の革命的戦争機械の構築、〈党〉の構築の、直接的、具体的共有という問題である。
先に述べた通り、問題はわれわれの欲求に基づいてみずからを組織化すること――食べ、眠り、思考し、愛し合い、諸々の形態を創造し、われわれの力を協働させるという集団的問いに漸進的に応答するのを目指すこと――そしてこのことを帝国に抗う一つの戦争の契機と理解することである。ただこのようにしてのみ、われわれはプログラムの壊乱そのものに宿りつつ、最低限の帰結にすぎず、いたるところで受け容れられ、実践されている実存的リベラリズムの論理的作動であるにすぎないこの「経済的リベラリズム」――「ネオリベラリズム」を挫こうとする人びとをも含め、最も基本的な己の権利に対するのと同様、誰もがこのリベラリズムに繋がれている――を妨害することができる。帝国が遭遇する例外状況の各々によって、その背後に残される居住可能な諸々の場所の一つの痕跡としての〈党〉は、このようにして構築される。したがって、革命的な諸々の主体性と集団は、彼らがみずからに一つの世界を与えるに連れて、いっそう強くなるのだということが、必ずや確められるだろう。

3 帝国は明らかに、二つ独占の成立と同時代のものである。一方は世界に関する「客観的な」諸々の描写および、それについての実験技術から成る科学的独占である。他方は自己に対する技術、主観性を練り上げる方法の宗教的独占――精神分析の実践が直接結びついた独占である。一方は自己――世界の断片としての自己――とのあらゆる連関についての、世界との純粋な関係であり、他方は世界――私を横断する限りでの世界――とのあらゆる連関についての自己との純粋な関係である。したがって一切は、あたかも諸科学と諸技術が、それらの分裂自体において、帝国が理想的に動ける空間を形成するかのごとくである。
確かにこれらの独占は帝国の諸ゾーンに応じて多様に配分されている。発展したと言われる諸地域では、諸科学は真理の言説を構成しており、宗教の言説がその力を失っているところで、集団の生存をまとめ上げる力がそこには認められる。したがってそこでこそ、事を始めるにあたって、われわれには離脱をもたらす必要がある。
諸科学における離脱をもたらすことは、征服ないし破壊すべき要塞に対するように、それらに対して身を投じることではなく、それらを横切る諸々の破断線を際立たせること、これらの線を強調し、そのためにこれらの線を隠蔽しないことから事を起こす人びとを支援することを意味する。と言うのも、諸々の亀裂が社会の偽りの稠密さに絶えず作用するのと同じやり方で、科学の諸分野は諸戦略で満ちあふれる一つの戦場を形成しているからである。長い間、科学的共同体は、己に関して、或る巨大な統一された、要点については当事者の合意から成る、儀礼にまつわる諸戒律を遵守する家族のイメージを与えてきた。それはまさに諸科学の存在に結びつく重大な政治的操作であった。内部に走る諸々の分裂を隠蔽し、この平滑なイメージに基づいて、比類なき恐怖政治的効果を発揮することである。外に向けては、科学という真理の言説の資格を持つとは認められないもの全てに対する、剥奪としての圧政である。内に向けては礼儀正しく残酷な資格剥奪としての、潜勢力を秘めた諸々の異端への圧政である。「親愛なる同僚殿……」。

どの科学も諸々の仮説全体を活用する。現実の構築に関しては、これらの仮説はどれもが決定そのものである。今日このことは広範に認められている。否認されているのはこれらの決定それぞれの倫理的意義であり、そこではこれらの決定は、或る一つの生の形式、或る一つの世界を認識する様式(例えば存在の時間を一つの「遺伝子プログラム」の展開として、或いは喜びの感情をセロトニン〔血管収縮作用のある分泌物〕の問題として捉えること)に縛り付ける。

かくして科学的言語の諸ゲームは、それを使用する人びとの間に一つのコミュニケーションを打ち立てるよりも、むしろそれを知らない人びとを排除するために作られているように思われる。研究所や討論会といった科学活動を含む、具体的で堅牢な構成は、実験と、実験が形作る諸世界との分裂を、己のうちに保持している。いわゆる「基礎」研究がつねに諸々の軍事市場の流れに何らかのかたちで接続され、逆にまたそれらの軍事市場が研究の内容や方針自体を定義するのに貢献する、その仕方を語るだけでは不充分である。科学を帝国的平和に参加させるその仕方とは、諸々の実験だけを先に行い、支配的秩序の維持と相容れる仮説だけを検証することである。帝国的秩序を廃絶するわれわれのやり方は、敵対的実験を行いうる諸々の場を設けることを通じてのみ可能である。それは諸実験がそれに連関した世界を産み出す然々の自由な場所に属しており、同様に諸々の科学的実践の抑圧された闘争性が表現される、これらの世界の多様性に拠っている。

問題は、旧弊な機械論的・パストゥール的医療の実践者たちが、全く以って錯乱的なニュー・エイジは別として、諸々の「伝統的」医療を実践する人びとと手を携えることである。研究への専念を、研究所の潔白さの司法的防衛と混同することをやめることである。非生産主義的な農業活動が「ビオ」ブランド〔有機農法生産物の登録商標〕の四角い牧草地の外で展開されることである。フランス共和国の防衛と、どこにでもいる自律企業家集団とのはざまで、「国民教育」が孕む諸矛盾の危険な性質を感じとる人びとがさらに増えることである。「文化」がもはや諸形態のただ一人の発案者とのコラボレーションを鼻にかけることが不可能となることである。

諸々の同盟がいたるところで可能である。
資本主義的回路を破砕するという展望は、それが現実のものとなるために、諸々の離脱が増殖することを求める。
そしてそれらの離脱が結集することを。

〈人〉はわれわれに言うだろう、諸君は何が起ころうとも諸君を罰することになる二者択一に囚われている。すなわち、帝国に対する脅威を構成するようになるか、そのような脅威を構成するのに失敗するかのどちらかであり、前者の場合、諸君は迅速に排除され、後者の場合、諸君はまたも自滅するだろう、と。

残されているのはもう一つ別の項、われわれがそこを歩くには充分であり、理解ある全ての人びとがそこを歩き、生きるのには充分な、細い尾根があるということへの賭けである。

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