永山則夫について

NEZUMI

2017年8月1日は永山則夫が東京拘置所で処刑されて20年目にあたる。これを機に「HAPAX」5号(2016年1月)に掲載された永山則夫論をここにあげる。この投稿にあたって一部を省略・訂正した。




永山則夫について
鼠研究会

「わがこころのよくて殺さずにはあらず」親鸞
永山則夫は1977年、寺山修司と論戦にいどむ。72年、永山は覚醒せるルンペン・プロレタリアートの蜂起を告げる「驚産党宣言」を書いて、その革命論を定式化し、以降、主にかつての支援者たちへの批判を通じてその思想戦を激烈化させていった。76年、そのような永山に嫌悪をあらわにして寺山は書く。「私は、彼のこうした『見事な変身』をまったく信用しない」。「永山はいつまでも、他人の不始末に原因をもとめつづけて、自分の無主体性を、正当性だと言いはろうとする。だが、『私は、私自身の原因である』と言い切れるものだけが、歴史的思考をあらたに生成する自由をもつのである」。つまり「彼は『ピストルの引金をひいたから、少年拳銃魔になった』のではなく、『少年拳銃魔だったらから、ピストルの引金をひいた』のだ」(「永山則夫の犯罪」「現代の眼」1976年12月号)と。これへの永山の反論は数多い永山の論争でも最も強い緊張感に満ちたものであり、77年末に『反寺山修司論』(JCA出版)として刊行された。これは永山が『無知の涙』にはじまる獄中思想闘争の書として刊行される最後の著作となった。
永山によれば、寺山はブルジョワ文化人であり階級的視点を欠落させている。「仲間殺しを『殺人』一般に解消して」「『生来犯罪人説』を支持している」。永山は問題の根源を市民社会のルンペン・プロレタリアートが「殺されて当たり前」とする「世界観」にもとめるが、それを成立させたのは「市民化」であり、寺山はその典型とされる。市民化=社会化とは「仲間殺し」の過程でされ、社会への敵対性は極限的である。永山にとって寺山との闘争はルソー的な「自然人としての生存闘争」と位置づけられる。「社会契約が成立する市民は、社会人であり、その死有罪財産イデオロギーに基づいた階級闘争を行なっているが、社会契約が成立しない非市民のばあい、その人びとに自然人としての闘争、つまり生存競争をやるだけである。」
しかし寺山の論は「生来犯罪人説」ではない。69年のテクスト「歴史」(『幸福論』角川文庫)では寺山は歴史のメシアニズム=目的論を批判し、永山を論じながら「人は、歴史に見捨てられると、地理を援用する」と書く。歴史に対する地理。「歴史の外へ逃れでよう」とした永山にとって「彼を疎外しているのが歴史ではなく、歴史的思考なのだということがわかるためには『四つの殺人事件』が必要だった」と書いた*1)。寺山の反政治と反歴史が因果関係の切断と顚倒を意味するとしたら寺山の論旨は69年から76年まで一貫しているといわなければならない。
では寺山が見ることが出来なかったものは何か。寺山が苛立った同じ光景を前に足立正生はこう書いた。「今、〈連続射殺魔〉=永山則夫が限りなく饒舌に、己れの存在を主張する、新しい犯罪者の古き典型へと変身しつつある」(「〈連続射殺魔〉への架空の質問」1791年3月、『映画への戦略』晶文社)。足立は永山の四つの殺人と未遂に終わった五つめの事件にいたるまでに何があったのかを問いつ永山における狂気の成熟を凝視しつつ断言する。「したがって、〈連続射殺魔〉=永山則夫の饒舌さはN=6に実態化しつつある狂気なのだろう」と。足立の預言したとおり、永山は最後まで狂気を更新しつづけた。最後に残された膨大な小説「華」は妄想だけを書き連ねて、中上健次までが評価した文学的才能のかけらも示さないことによって世間を驚愕させたのである。
寺山は永山が「無主体性を、正当性」としていることを批判する。しかし犯罪における主体とは何か。「19世紀末、主体の解釈学と呼んだものがまさに刑法の内部で社会防衛の必要性という理由から構築される」。こう論じてフーコーは「主体の真理陳述をめぐるもう一つの問い〔犯罪者の主体性への問い〕は、刑罰システム全体に刺さる棘であり、その傷口であり、消失線であり、裂け目だ」)(『悪をなして真実を言う』河出書房新社)とも書く。犯罪においては必ず心身喪失が焦点となるのもここにかかわる。弁護側は「無主体」であると主張し、検察は「主体」を構成しようとする。永山の殺人も著しい身心の消耗のさなかで実行された。しかし永山は、もしくはあらゆる当事者たちにとってこそそこは「裂け目」なのである。犯罪は主体そのもの、もしくは法に抵触するというよりたえず法そのものをたえず危うくするのだ。だからこそ法は犯罪者を事後的に主体化することによって成立する。ここで成立する主体と裁き、負債の連関こそ近代の統治のはじまりとなる。さらにフーコーをひくならこの統治はプロレタリア化した下層民とプロレタリア化していない下層民の分割/分断の基礎なのである*2)。これらは近代の暴力の表裏なのであり、主体の「裂け目」の起源である。
永山のルンペン・プロレタリア論を導いたファノンは書いた。「植民地において経済的下部構造はまた上部構造でもある。原因は結果である。つまり白人であるがゆえに富み、富んでいるがゆえに白人なのだ」(『地に呪われたる者』みすず書房)。すなわち原因は結果であり、結果は原因でもある。寺山の「私は、私自身の原因である」というテーゼと永山の「犯罪」の〈原因動機結果〉の弁証法は反転可能なのであり、そこにこそ犯罪の本質がある。前者において犯罪はキルケゴール的な特異性の問いとなり、後者において犯罪は集団的な作動配列となる。永山は前者において(イサクを捧げたアブラハムのように)固有名としての永山則夫を引き受け、後者において無数の下層の少年たちの悲惨を蜂起に転化させようとした。「夜間中学生へ 九九もわからなくともいい、名前を書けなくてもよい、ただ階級意識だけを鍛えつづけよ」。社会と犯罪の関係は絶滅進化論的である。犯罪はダイアグラムの生成、すなわち権力関係と外の変異である。それは断絶であることによって社会を逆照するが、それを犯罪社会学は社会の統治に犯罪を還元する*3)。しかし犯罪は「無様相」(江川隆男)なのであり、その狂気、もしくは「白痴性」において革命と並行するのである。「革命的な潜在性がどのように現働化するのかを説明するものは、潜在性をふくむ前意識的な因果性状態ではなく、むしろある特定の瞬間におけるリビドー的切断の実効性なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』河出文庫)
犯罪の当事者は自身の行為にどう向き合うのか。永山(たち)にとってそれは主体化をうけいれてモラル(市民)に回帰すること、裁きに加担することでない。それらに抗うことである。フーコーは人民裁判を激しく拒絶していたではないか*4)。裁くこと自体を拒否するとともに自分の罪を最後の罪たらしめること。獄に囚われ、裁判をたたかいながら、いかに「裁き」と訣別するか、これはフーコー以上に困難な課題だが、永山は狂気の非−主体としてこの不可能を生きようとしたのだ。永山はその犯罪の淵源を母の幼年期にまでたどり、PTSD的に分析した石川鑑定書を拒否する。この鑑定書が減刑に効果があるとしても永山は自身の行為を環境に還元してすることを拒絶し、「革命家」への「変身」を選び取ったのだ*5)
そしてこの永山の選択は現在、多くの死刑囚たちによって闘われている死刑廃止運動の主題でもある*6)。「死刑を論難することは法そのものを論難することなのだ」(「暴力批判論」)。すべてはこう記したベンヤミンの問いにかかわる。刑罰は原国家の暴力であり、死刑はその極限にして原型である。そして罪からの解放を実現する神的暴力はこの死刑廃止へのような闘いからこそ生れてくるだろう。
平岡正明の「あらゆる犯罪は革命的である」というテーゼに代表される犯罪革命論は、永山の「変身」と併走した*7)。その意義はただ「犯罪に革命の起爆力」を発見することではない。先述したように下層民において革命と犯罪の平行論を形成することであり、そこにおいて生の非正当性を発見すること、あらゆる統治を破棄することである。

*1 松田政男は最初の風景論的テクストでこの寺山の永山論を批判した。「永山則夫(たち)とは、まさに『地理』的流浪によってしか彼(ら)の『歴史』的定在をつくりだしえない下層社会の無名の大衆であったという現実に自らの想いをいたそうとしない」(「風景としての都市」『風景の死滅』航思社、初版〔田畑書店〕は1971年)。
*2「人民裁判について」におけるフーコーの発言(1972年6月)、『フーコー・コレクション4』ちくま学芸文庫。
*3 犯罪があらわれると社会は必ず「背景」をさぐり、犯罪者と被害者の「物語」をつくりだす。しかしすべては無様相であるから「背景」に何かがあるはずもない。
*4 前出「人民裁判について」。ちなみのその時のフーコーの論敵たるマオイストたちはこの討論の数年後に新哲学者へと転向することになる。次は収容所国家とマルクス主義を裁くために。
*5 永山自身は看守もまた下層に属すると考え、看守と敵対する獄中者運動には加わることはなかったが、その思想が政治犯だけでなく刑事犯をふくむ獄中者の決起をうながしたことは疑えない。74年に結成された獄中者組合は75年の東アジア反日武装戦線メンバーの合流などを得て激しい獄中闘争を展開した。77年、日本赤軍がダッカ闘争において刑事犯二名を奪還要求者に加えたことはこの地平による。現在もこの活動は統一獄中者組合として継続されている。東アジア反日武装戦線の大道寺らは八〇年代にはいって並行して死刑囚としての死刑廃止運動にかかわる。「日本国家を否定し、日本国家を支えている法制度も否定し、粉砕しようと考えて」きた以上、死刑判決も「無視すべきもの」と考えていたが、「死刑攻撃を受けている仲間たちを殺させてはならない」と考えたからだ(大道寺将司『明けの星を見上げて』れんが書房新社、1984)。
*6 石川鑑定書については堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店、2013)を参照。永山はこれを拒絶する一方、『反寺山修司論』では最後に「百万人の精神分析運動」をよびかけた。
*7 若き平岡による最初期の犯罪論(「犯罪の擁護」一九六二年)にはすでに本稿の主要な論点が萌芽としてであれ出揃っている。これをふくむ平岡らの「犯罪革命論」の総括が(その展開をうながした「第三世界革命論」の検討とあわせた)次の課題となるだろう。


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