ハロー どこでもない場所からのあいさつ


サンフランシスコのミッション地区、ある公園の向かいにあるカフェで、青年は黒いズボンのポケットから小さな冊子を取り出し、渡してくれた。表紙には「Hello」と印字されているだけで、著者名はない。ページを最後までたぐると、裏表紙に小さく「for more copies:hellofriend@riseup.net」とある。本稿はその冊子を全訳したものである。あるサイトの書き込みでは、冊子は2013年1月に印刷されたとされているが、詳細は不明。




命題
予測されたとおりのわたしであること、命令されたとおりにふるまうこと。そのようなことは不可能である。失敗は不可避であり、なにも面白くない。ならば、予測され命令された〈すべて〉から離脱しよう。絶望が待ち受けていようとも、それこそ唯一価値のある目的である。

 〈すべて〉はありふれた何かである。生活のなかに〈すべて〉とは別のものを、〈外〉を示唆するわずかな痕跡を見出すことさえ困難である。〈すべて〉はものごとが組織化されるその様式であり、かつ命令である。つまり「こうしろ」という命令であり、このようであれ」という命令である。〈すべて〉はありふれているが、すべてが命令され統制されているという意味においてであり、すべてが命令の履行であるという意味においてである。

 命令とは〈すべて〉であらねばならないという命令である。その結果、きみはすべてに失敗する。すべてを成し遂げるという途方もない目的に向けて、きみは果てしなくはたらきつづける。

 きみはけっしてその目的に到達しない。

 われわれはけっしてそこに到達しない。われわれはまだここにいる。いまだ命じられるままに行動し存在している。組織し、あれこれ命令されるままに。組織され、他人にあれこれ命令しながら。おそらくこれが〈すべて〉のすべてである。

 〈すべて〉はわれわれの話し方である。〈すべて〉はわれわれの寝食の仕方である。それは列に並ぶさいのみぶりであり、愛を告白するそのしぐさである。愛の行為のなかにさえ〈すべて〉はあり、われわれはそれを絶望的にしくじりつづける。もっとも初歩的なコミュニケーションさえうまくいかない(すれちがいざまに「やあhello」とつぶやくだけなのに)。多くの人々は挨拶さえあきらめてしまった。さもなければ、儀式化され、規制され、秩序づけられたあまり、何も言っていないにひとしい台詞を求めるようになった(だからこそ、それを聞くすべをわきまえた人々にとっては、すべてを意味するのだともいえる)。

 〈すべて〉は手配されている。誰もが〈すべて〉に仕えている。〈すべて〉は明らかで、可視的である。〈すべて〉はその他のすべてを背景として浮かび上がる。〈すべて〉は照明とカメラ、指図された活動、観光なき観光地で飽和している。〈すべて〉のなかでわれわれは混乱をおぼえる――そして暗闇を恐れるようになる。

 〈すべて〉において、多くの人々はある種の暗闇のなかにいる自分に気づく。孤独にさまよって誰かをもとめても、手は届かないし、どこにいるのかも分からない。フィルム映画のような、毎秒ごとにあらわれる無数のコマのぶれ、光と闇の交錯がわれわれを混乱させる。奥行きが曖昧になり、翳りやニュアンスをとらえる知覚が鈍くなる。視覚がまどわされ、五感が混濁してくる。

 ある夜、きみはふと大声をあげている自分に気づく。窓から身をのりだし、暗い裏通りに眼をこらして「誰かいる?Hello?」と声をかける。特定の誰かに向けてではない。奇妙なみぶりである。他人とのすれちがいざまに何か(〈すべて〉)をしなければならないと思ってつぶやかれた「やあhello」とは  ちがう。うんざりした友人へのうんざりした挨拶とはちがう。夜中にきみが発したのはある種の叫び、問いかけ=呼びかけである。問いかけ=呼びかけ=挨拶である。

 この経験がなければ、きみの挨拶はあいかわらず古めかしい意味のまま用いられていただろうし、古びた場所から挨拶するかのようだっただろう。つまり、いまや目にも見えず、音も聞こえない日常の空間から。われわれが過去から断絶したのは、たんなる時間の経過以上の何かによってである。かつては、通りで出会った人々と交わすふさわしい挨拶は「こんにちはGood day」だとか「こんばんはGood evening」だった。いまやわれわれが親しみをおぼえる「Hello」は森のなかで叫ばれる問いかけ=呼びかけ、誰かの家の玄関で発せられる問いかけ=呼びかけ=挨拶「こんにちは、誰かいますか?」である。電話の発明は日常生活への侵入でありその再編だったが、それによって状況は一変した。機械に向かって話しかけることはあまりに不自然だったから、人々は「こんにちは Good day」ではなく「もしもしHello?」と問いかけを発するようになった。現前は不確かとなり、機械の虚無に話しかけるには、問いがふさわしいと感じられたのである。ところで、そうした問いかけ=呼びかけこそ、われわれが知らず知らずのうちに受け継いだものにほかならない。

 以来、空虚への呼びかけは社会生活の全域に浸透することになった。その証拠に、本来は問いかけ=呼びかけであった「Hello」がいまやもっともありふれた挨拶となっており、キュートに「やあHi!」と略式化することさえできる。「もしもし=やあHello」は虚無への呼びかけであり、遠い現前(テレプレゼンス)の時代の挨拶、亡霊的な偽の現前(プスド・プレゼンス)の時代の挨拶である。凡庸な挨拶は命令に支配された生にこそふさわしい。誰もが他人とさみしさを分かち合って生きている。

 〈すべて〉は明白であり、そこでは大勢の人々が暗闇のなかにいる自分に気づく。われわれはそう述べた。だが真の問題は、暗闇とおそるべき可視性との相互作用である。多くの人々は空虚のなかにいる自分を発見するのだと言ったほうがよいかもしれない。さまよい、たどりつき、ほとんど無意識に叫びだす、それも夜だけではなく。たいていは何も起こらない。自分の声を自分で聞くだけである。ぞっとする。退屈する。ぞっとするほど退屈する。

 むろん、われわれはここで電話のことだけを述べているのではない。人々が自分の電話について長々とおしゃべりをする、そうした世界のことを述べている最中である。

 たいていきみは自分で自分の声を聞くだけである。しかし時には誰かが応答する。われわれは「Hello」と呼びかけた者であり、そのわれわれが応答する者を見出す。何を言っているかはよく分からないものの、それはとても重大な何かだと感じる。われわれの最初の問いかけ=呼びかけ=挨拶に応答する、不思議な叫び声。〈外〉の存在をしめす徴候としてわれわれが知りえている唯一のもの。われわれは交互に呼びかけあい、本気で叫び声をあげて、おたがいの距離を近づけていった。奥行きとニュアンスを感じられるほど近くに。

 これこそわれわれが「われわれ」と呼び合う条件である。

 われわれはともに〈すべて〉を拒絶し、空虚に向かって呼びかける。

 われわれは、ほかに誰かいるのか知りたいと思う。

 友情はすべて政治的であると誰かが言った。だが〈すべて〉のなかでは友情など不可能である。きみには500人の友達がいない。10人の友達さえいないのはほぼ確実である。おそらくはひとりもいないのだろう。恋人はいるかもしれない。しかし君が付き合っているのは恋人ではなく、ずっと閉じこもっていたいという情熱であるはずだ。友情は体験をともにすることではないし、何かを共有することでもない。友情はまれな瞬間にしか到来しないが、それが何かをあかしだてているわけではない。

 すべてを疑うこと。友情すら疑うこと。これはある種の希望の喪失をまねく。しかしわれわれはこの無希望から眼をそむけない。

 じっさい、われわれのプロジェクトは絶望におちいってしまうほどに困難である。しかしだからといって焦点がぼけたり、強度が失われたりはしない――その正反対であり、おかげでわれわれは機敏になれるはずである。出発するにせよ、立ち止まるにせよ、機敏さが必要である。まどわされることなく失敗を経験することこそわれわれに固有の才覚としなければならないのであり、そうなれば、動きつづけることも不動の状態にとどまることも自由自在である。次の一歩に希望などないのだから…。目的は達成可能なものであるがゆえに、無視すべきであり、さもなければ拒絶すべきである。目的が〈すべて〉によるセキュリティを反映している場合はなおさらだろう。

 無希望は、つかの間であると同時に差し迫っている。つねに現在であり、多大な忍耐を要求するものである。


命題
〈すべて〉に希望は存在しない。にもかかわらず、〈すべて〉は絶対的な希望があるかのような口ぶりで物語をかたりつづける。いかに〈すべて〉を変えられるか――そうした物語に依拠して多くの人々が同じことをくりかえす。物語をとりはらい、無希望を直視するとき、真の選択、真に重要な唯一の選択があらわれる。絶望にのたうちまわること、あるいはまったく別の生へと飛躍してみること。

 再開しよう。われわれにはいくつかの物語しかない。われわれに友達がいるかいないか、友達でありつづけることができているかどうか、そのために十分に醒めることができているのか、熱狂できているのか、そんなことは知ったことではない。〈すべて〉において、友情は不可能だとわれわれは言った。〈外〉が存在したとしても、そこにいたる道は混乱におおわれたままだと言った。いっさいが取りちらかっている。この乱雑のなかで、この危機のまっただなかで、ときにわれわれはあるサークルの人間となる。そこでは誰かが昼の会話も夜の会話もすべてを位置づけようとする。誰かが物語をかたりはじめる……。

 ときおり歴史を引き合いにだす者もいる。集団に話しかけ、集団が集団であることを想い起こさせる。ぎりぎりのところで相手にゆずり、寛容をしめすこと……。要するに、集団への帰属を説く。歴史が教育となる時間だ。われわれにとって、これはある種の劇場である。われわれが出会った最初の歴史は、純然たるナショナリズム的な教化であった。その後、われわれは集団の周縁にいた人々がその中心へと転じていくさまを目撃する。やつらは記念碑にはないことをかたりはじめる。たとえばわれわれのような者たちの歴史を。やつらが考えるわれわれのようなものたちの歴史だ。いずれにせよ、小さな集団の小さな歴史であり、おそらくは集団それ自体よりも多くの観客が参加する歴史である。おそらくはそのラディカルとされている意味においてはもとより、その教化において、歴史とはみずからを物語る〈すべて〉である。まさしくこの意味において歴史はペテンなのだ。

 認めよう。われわれにとって、あれらの心地よい(気分の悪い)歴史物語はやつらが言うほど重要ではない。われわれは、いま、今日、生きている。今日は昨日のようでもあるし明日のようでもある。時は過ぎ去る。歴史は過ぎ去るといわれるもののことである。

 これはすべてにあてはまる物語である。〈すべて〉が反復される。これは〈すべて〉の歴史である。〈すべて〉がみずからを再生産している。何も起こらない。
 われわれは、いま、生きている。われわれは、歴史が偽りであるという感覚をはらいのけることができない。われわれがしていることについてわれわれにかたりかける物語にたいして、歴史的真実というステイタスをもとめて競い合っているただの小咄としか思えない。たとえどんな状況にいようとも、それはわれわれをがっかりさせるものでしかない。われわれの多くが絶望へと駆り立てられる。無希望は力と抵抗をかたちづくる。無希望の行為としての怠惰、悲痛、そして恋愛の追求……。

 始めのうちは、われわれには二つの選択肢しかないように感じられる。ひとつは狂気としての絶望である。それは無気力というよりも、どうしようもなく無策で自動的な行為である。もうひとつは、絶望の偽りの克服である。希望に回帰することであり、自分自身の小さな物語を再承認することである。それはあたらしくもなければ大胆でもない行為であり、かつてうまくいっていたと信じる何ごとかの儀礼的な反復にすぎない。第一の選択肢は孤独へとつながるが、ときには逆上的な売名行為(パブリシティ)にいたることもある。第二の選択肢も同じく売名的(パブリック)であり、あいかわらずアクティビズムのスペクタクルの枠内にとどまる。だからこそわれわれは、希望をもたないことがおかしいことだとは思えないのである。多くの人々に希望などないはずなのに、やつらはそれを自分にも他人にも認めない

 希望と恐怖は、歴史へのおなじ帰属の異なる側面にほかならない。おなじ物語を聞かされても、ある者は幸福な結末に希望をいだくだろうし、ある者は悲劇に恐怖をおぼえるだろう。どちらも自由ではない。

 われわれは別のやり方をえらぶ。われわれは希望なしに行動するのをおそれない――ときにはいっさいの行動を拒否することになろうとも。すべてをなくしたと認めることは、あらたな瞬間ごとに、真に最高の何かをする可能性を有するようになることである。獲得すべき、おこなうべき何かに気づいていれば、どんな状況だろうとうまくやれる。きみだけの目的に向けて、きみのプロジェクトに向けて。

 ここで明察がひらかれる。無希望にはふたとおりの方向性がある。ひとつは、防衛的な解決法をつうじて、無希望であることの解消をはかるものである。PRキャンペーンや自助プログラムを想い起そう。こうした解決法は、恐怖にあおられた権力のシニシズムにほかならず、その裏面には、恐怖に支配された政治的主体の衝動がある。絶望にせよその偽りの克服(希望)にせよ、どちらもこのアプローチに属している。もうひとつはわれわれのアプローチである。それは、われわれに可能なことの限界を冷酷に見極め、その限界をつきやぶるというものだ。われわれはよろこびとともに、自分自身の身体とともに、さらには運がよければ友達とともに、これに取りかかるのである。

 例外こそが規則を明らかにする。

 このことは第一に、無希望や不可能性をかえりみないということであり、第二に、無希望を理解し、それを楽しみさえするということである。これがわれわれの力である

 われわれの無希望はおおいなる美徳をそなえている。それはおどろくべき効果をもたらす下剤である。無希望は、きみのうえに堆積したあらゆる地層、きみに覆いかぶさるすべてのものを洗いながし、歴史や物語としてきみの顔に貼りついたぶさいくな仮面のすべてを洗いおとす。とりわけ政治的なすべてを。危機や破滅にたいする政治的解決はつねに個人的なものであり、大衆的な方法でしめされたことはない。個人的なことがらをめぐって結晶化した専門的政治、つまりアイデンティティ・ポリティクスからすれば、無希望など肩をすくめて嘲笑う対象でしかない。やつらはきみにいうだろう、きみの敗北主義に幸運をいのる、と……。しかし、おそらくは一番強力でもっとも必要とされる下剤とは、自分がうそ偽りのない人間だと平気でのたまうきみの感覚をきれいさっぱり洗いながす下剤である。

 このまま続けることもできる。だが、一旦はっきりさせておこう。われわれがすべてに反対しているのであれば、そう述べるべきである。すべてに反対していると述べているのは、われわれだけだ。われわれはきみに夜には挨拶をおくり、真昼間には眼で合図をする。われわれはこの公然たる不信仰の告白にわれわれの生を賭けている……。われわれが匿名で、さまざまな仮面を利用してこれをおこなうのは、われわれが愚か者ではなく、魅惑的であることのあかしにすぎない。


命題
すべては命令であり組織であるのだから、現状、つまり〈すべて〉から離脱する方法を政治的命令や政治的組織に期待するのはばかげている。

 最近まで占拠のモメントが到来していた。それはわれわれの精神やメディアやいくつかの都市の広場に住みついていた。この政治的モメントは驚きだった。一連の解答を担うのではなく、ひとつの問いを示唆できたのだから。

 その真の意図が〈すべて〉のうちにあると判明するまでは――たとえ延々とつづく集会だろうと、市街戦だろうと、銀行とのある種の折衝だろうと、それはこの失われた10年でもっともさわやかな風だった。

 だが、ひとたび〈すべて〉が蜘蛛の巣状にはりめぐらされると、モメントの主役たちは罠にかかってしまった。政治的抗議という旧式のパターンにはまり、回避されていた権力との折衝に捕えられ、はるかかなたに押し流された挙句に〈すべて〉に漂着したのだった。ウェブ作成者の害悪は不可避的である。やつらは動員局面に夢中になって可視化をもたらす。ものごとを動員のロジックに押しこめ、フレームを縮小し、ついには主役たちをのみこんだ。

 このような「消化」の戦略はわれわれにはおなじみである。対話の欠如などと叫びたてて精神を無力化し、身体を手なずけようとする、まさしく政治的操作以外の何ものでもないあのやり方――われわれが知るほとんどすべてにおいて横行しているあのやり方である。政治を逃れるのは不可能である。だがそれはすばらしいものであるはずだ。月旅行や遊園地のアトラクションのように。近年の政治に抗する活動のほとんどは、重力を逃れようとする空想的指向が十分でなかったがゆえに、かわりばえのしない現実に叩きおとされたのである。その失墜のうちに反映されていたのは〈すべて〉についての真実というより、反政治それ自体の燃料についての真実だった。つまり、充分な腐食性を帯びるにはほどとおかったのである。

 政治の問いに戻ろう。すでに述べたように、われわれはできるだけ早く政治を捨ててしまいたいと考えているが、同時にわれわれははっきりと理解している。つまり、政治とは魂の病であり、一種の中毒症状にほかならないということを。われわれ自身にちょっとした問題があるのだ。今日は断ったとしても、明日には再開している。今週はやめていても、翌週には手を出してしまう。政治をおこなわないという否認のなかで政治をおこなってしまうのである。政治に回帰しつつ、政治を完全に捨て去ること、それは「ハロー」と言うためのもうひとつの方法であり、どこでもない場所からの挨拶を届かせるもうひとつの方法である。なぜなら、われわれが友情のみぶりをもとめて手をのばしたところで、結局のところは派閥・グループ・シーン・界・サブカルといったものに回収され、おなじみのいかがわしいやからが群がるあの共同体が出来あがってしまうのだから。

 ここには恐怖がある。われわれもまた、他人にとってはおなじみのいかがわしいやからでしかないと気づかされる恐怖。友情は不可能である。

 われわれは、代表制だろうと議会制だろうと民主主義政治だろうと、あらゆる参加を斥けることからはじめよう。われわれの誰もが〈すべて〉について語られるあれらの会議に骨がらみになっている。われわれの関心をとくに引くのは、とりわけ〈すべて〉がそうした政治自体に反対を主張するようなときに、すべてがそうしたたぐいの政治を反映することになるあのやりくちである。代表制の永劫回帰。つねに他人に代わって語るために用意されたありったけの名前。

 〈すべて〉がそうした政治自体に反対を主張するようなときに、と述べた。そのとき、議会外勢力のあらゆる議論がもつ射程の限界が明らかになる。つまり一方では、ほとんど議会のような委員会やコレクティブに参加しようと欲し、他方では、その場かぎりの刹那的な集団以外はいっさい拒否するという、ああした射程の限界である。そのスペクトルのなかでは「よいことをする」は「もっとうまくやる」と同義であり、いっそう拡張的な民衆部門のいっそう民主主義的な参加をめざしていっそうきまじめに努力をすることを意味する。このきまじめな宣誓のみぶりは、われわれが民衆として存在したいというひとつの信条にうながされている。規範的政治における透明性と説明責任の完全な欠如を、水でうすめた有毒物質の透明なスライムでおきかえたところで何になるというのだろう。結局のところ、〈すべて〉は透明性と説明責任をそなえた凡庸さからできているのである。

 社会を自分たちの手で創造したいという欲望は十分に理解できる。かつて生が満たしていた役割を果たすことのできる何かを創造したいのだ。歴史がいつもわれわれに喚起するのは、その昔共同体が可能だったということである。そして政治は、共同体という人工的な気晴らしを増産しつづける。多くの人々にとってそれは、自分が与していると信じる理念の消費にほかならず、歴史や物語によってふきこまれた帰属意識を見せかけの生へと拡張することにほかならない。遠隔的現前、亡霊的現前。われわれは自分たちが求める経験それ自体の創造に参与させられているのであり、われわれの欲望や期待にかなった理想的人民の創造に加わっているのである。スタイルをえらび、色をえらび、量をえらび、しかるべく分類された性格をえらんで購入ボタンをクリック。

 われわれはたがいを見出したと言ったが、〈外〉にいたる道についてはまだ何も分かっていない。われわれは破滅の只中、危機の只中にいる。それでもわれわれは理解している。すべてに敵対し、自分たちが〈すべて〉に反対する存在だと考え、そのような生き方をじっさいに選ぶとなると、あらゆる政治的形態にたいして最高度に腐食性のある懐疑主義を身につけなければならないことを。そうなった場合、社会からのつまはじき者であるわれわれは、その不満につけこまれて管理されることが大いにありうる(よりひどい場合、われわれは自分たちで自分たちの不満をマネジメントするようになる)。そこはラディカル・ポリティクスの領域と呼ばれるは  ずだ。

 政治はわれわれを不透明なやりくちですべてとの妥協へと連れ戻す。無希望は透明な反政治である。


命題
行為や存在にまつわる統制から離脱しよう。だが、善悪についてわれわれが信じているすべてを斥けないかぎり、われわれは闘争を開始する以前に敗北してしまうだろう。歴史をこえ、政治をこえ、〈すべて〉に内在する道徳主義をこえるために、われわれはコミットメントそれ自体にコミットしよう。

 〈すべて〉は道徳の色をまとい、たいていはこまかく陰影をほどこされ  ている。行為や存在にまつわる命令とは「正しく行為せよ」「正しく存在  せよ」という命令である。われわれが挨拶を呼びかけているのは、カル  チャーやサブカルチャーをめぐる〈すべて〉に刻印された残酷な道徳主義  を逸脱しはじめた者たちである。

 われわれの冷淡さや疚しさや怖れはすべて、あの途轍もない一神教に由来する。あの巨大な獲物に狙いを定めよう。今日、北アメリカに生きることに何かしらの意味があるとすれば、信仰よりも文化に根ざしたキリスト教に規定された空間に生きているということである。キリスト教の衰退とともに、キリスト教世界はむしろ強化されただろう――いずれにせよ、あらゆる場所に浸透したその影響をわれわれは道徳主義と呼ぼう。信じようと信じまいと、道徳主義こそ〈すべて〉の構造そのものである。道徳主義を監視の情動的形態とみなそう。それはきみの脳内の監視カメラである。

 きみの背後には天使も悪魔もいたためしがなかった。何が正しくて何が  悪いのかをさとす良心の声も、タブーをそそのかす蛇の誘惑も聞こえはし  なかった。聞こえてきていたのは、きみがその実在を疑わない任意の誰か  の分別だけだった。

 われわれはリーダー=司祭にむしばまれていると感じているが、それも当然である。ただし司祭のほうは少なくとも、彼らが自分の行為と考えているものについては隠し立てをしないという最低限の品性はそなえている。

 政治のうちにはたらく道徳主義を理解するためには、きみの目前でスピーチをしているリーダーに想像のなかで司祭服を着せてみよう。わたしはリーダーではないと言いつのるタイプのリーダーに出くわしたなら、街場をへめぐる宣教師だと思えばよい。逆に、道徳主義のうちで機能する政治を理解したいのであれば、あらゆるタイプのアドバイザーども、手を抜いてその飽くなき偽善を隠しているあのシニカルな連中を見ればいい。政治的リーダーや宗教的リーダーのものまねをしている者たち、つまりすべてにおいて嘘をつく嘘つきども。

 あらゆる類の人格が押し寄せ、われわれの生命力を減衰させる。やつらは快楽をマネジメントしてわれわれの肉体を衰弱させる。われわれは自分自身の身体のなかにあって自分自身を見失ってしまう。そのうえやつらはわれわれの魂を調教しようとする。だが、魂の救済やら贖罪やらを信じたところで、そのいずれにも手が届くことはない。

***

 〈すべて〉のなかで、共同体が意味するのは、われわれのふるまいがわれわれ自身のものではないということである。指導者気取りの連中に指図されただけの行為や信がわれわれ自身のものであるはずがない。じっさい〈すべて〉における行動も信も、ひとつの世俗文化を伝播させる匿名的エージェントによって命令されているのであり、そうした行動や信が拡散するにつれて世俗文化も拡大していく。〈すべて〉は宗教ではないが、宗教の仮面をまというるのであり、たいていの人々は〈すべて〉と宗教的な関係をもつ。これこそわれわれが「道徳主義」の名で意味するところのものである。われわれの大半はそれを自分の身体に刻みつける。われわれは傷に誇りをおぼえる。わたしはかくも苦しんだ――わたしはかくも正しい、というわけだ。

 道徳主義において機能する残酷を把握できるのは、そうした個人的かつ内面的な次元においてである。われわれは〈すべて〉であれと命じられ、そのたびに挫折するが、そうした命令が罪以前の罪、つまり罪悪感を生み出す。われわれの誰もが自分のふるまいのそれぞれに得体の知れない神を見出し、誰もがその神のまえで自分の生をさらけ出す。道徳主義とはそうした怪物的な約束事なのであり、その見返りに、苦痛を支払うことで罪が免責されるという物語が与えられる。大半の人々の自己理解というのはそうした物語を出発点としているが、共同体と呼ばれるものの大半も同様であり、そうした物語のヴァリエーションを延々とくりかえすようレールが敷かれている。やつらはそれを自分たちの歴史と呼ぶ。それを「ラディカル」と形容しようがしまいが同じである。

 苦痛による贖罪などという物語やそのヴァリエーション以外に、いかなる救済もありえない。誰もあなたを救わないし、あなたはあなた自身を救えない。

 他人に善良にふるまい、あやまちからの救済を求め、そうした目的にむかって努力する。〈すべて〉において、こうした悲壮な欲望が怪物的な儀式と化してしまうことは必定である。規定された欲望は儀式をはてしなくくりかえしながら物語や信を分泌する。たんなる物語が神話へと格上げされ、さも深刻そうに叙事が語られるとき、その苦痛と贖罪の物語に立脚して歴史がつくられる。

 ところで、信が問われるのは、われわれが何をするかという点である以上に、われわれが何者であるかという点においてである。

 すべてが機能するその仕方へのわれわれ自身の信をつうじて、〈すべて〉はわれわれを拘束する。すなわち〈すべて〉において、われわれにとっての可能事を決定するのはわれわれ自身の信である。実現可能性としての信であり、つまりは神や〈世界〉や〈すべて〉へのたわいない信である。ところで、われわれにとって信とはひとつの試練であり、「期待と恐怖」のマトリクスを突き抜けるためのひとつの問いにほかならない。〈すべて〉の〈外〉に突き抜けなければならないのである。

 だからわれわれはもはや何も信じない――つまりはすべてを信じない。こうしてわれわれは神であれ〈世界〉であれ〈すべて〉であれ、けっして信じたことなどなかったと気づくのである。われわれは知っている。昔ながらの可謬性によって、現代の危機の数々によって、あらゆる出口がふさがれていることを。その結果、手段と目的の関係をめぐる混同が際限なくくりかえされている。

 手段と目的の混同は、歴史や政治や道徳主義の形をとってくりかえされるだろう。だがわれわれは、より明晰に思考する方法をすでに手に入れたと感じている。より重要なことには、感情や情熱がわれわれ自身のものだと述べる術を得たと考えている。こうして、手段と目的の断絶はただちにその制約をほどかれる。われわれの遊動(ゲーム)とは、拘束をとかれた諸モメントを連鎖させることであり、方法が見出されるそのたびに手段と目的の分断を破壊することである。

 〈すべて〉はくりかえされ、何も起こらない。われわれはそう言った。ならば、何かが生じるにはどうすればよいか? 〈外〉の世界の徴候、その密やかな輝きが劣化した一巻のフィルムに穿たれた穴のように膨張していき、奥行きとニュアンスをおび、ついには全景化するだろう。これこそ、歴史を超えて何かが生起するということの意味だろう。すべての外へ。

 何かが生起するために必要なものを、われわれはコミットメントと呼ぶ。コミットメントはかなり以前から流行遅れである。それは忠誠心や自尊心と同様、〈すべて〉に組み込まれた結果その意味のほとんどが見失われた過去の価値観のひとつである。だがこのコミットメントこそ、〈すべて〉のうちで疎外されたさまざまな情熱や関係を選別するひとつの方法であったし、そうありつづけているはずである。道徳主義や政治を超えて、われわれが誰であり、何をもっているかを知るひとつの方法なのである。

 われわれがなすべきであり、思考すべきところのもの、それこそコミットメントにほかならない。そのためには〈すべて〉からの離脱が必要である。われわれの遊動とは拘束をとかれたモメントを連鎖させることだとすでに述べた。希望なきモメントの連鎖である。じっさい、われわれが求めているのはコミットメントへのコミットメントである。


命題
競争するように、卓越するように、自分自身であるように駆り立てるこの自己啓発的世界において、われわれはそれでもなおそうしたすべての〈外〉にある、ある種の「卓越のための競争」について話したい。〈すべて〉にもその対立物にも欠如しているもの、それがコミットメントである。この世界をいわばラディカルに斥けようとしても、コミットメントがなされなければ、結局は妥協やら悔悛やら降服の形をとって社会参加の巨大なふところに舞い戻るのがおちだろうし、〈すべて〉に抱擁され窒息させられるのは目に見えている。

 この世界には相対主義的な道徳や妥協がはびこっているが、だからといって人々の別様の信や価値や経験がそれだけ配慮されるようになったわけではないし、われわれがさまざまな感情や人口動態に神経をとがらせるようになったわけでもない。寛容の度合いが増すにつれ、われわれの不和は、たんなる反対意見表明のマナーの問題へと還元され、沈静化させられる。いっそう嘆かわしいのは、われわれの友情や恋愛への性向さえも鎮圧され、不可能にされてしまったことである。

 多くの場所で、すべては人々が善良であるかどうかにかかっている。〈すべて〉とは、一致団結して互いを窒息させ合うすべての人々のことである。万人が円陣を組み、万人が抱きしめ合う。誰もそれを逃れられない。

 多くの人々が窒息死するほどの抱擁を求めるが、それもより完璧な抱擁のための口実にすぎない。いつも誰かが君の話を熱心に聞こうと身構え、相槌のタイミングを見計らっている。多分いろいろな錠剤を渡されるが、最後にはただ死ぬのだろう。結局のところ、窒息こそが心地よく平穏に死ぬための方法なのである。

 われわれが挨拶を口にするとき――誰かそこにいる?――われわれは大量の身体にとりかこまれて、窒息させられそうになりながら呼びかけている。われわれの叫びが弱々しく聞こえるとすれば、叫びが〈すべて〉に圧殺されそうになっているからである。

 きみはすべてのひとと友達にはなれない。別であることに忠実であることは、集団全体の敵になることである。息のできる場所を見出し、明晰に思考し、孤独になり、沈黙するためには、空間をひらかなければならず、そのためには、空間を占拠しているものを破壊しなければならない。ただそのときにのみ、ひとりきりで、あるいは友達とともに、占拠すべき大事な何かが現れるのである。

 道徳主義をこえて掴まれた暴力は、愛やかなしみと同じく、媒介や社交の要求に窒息させられた基底的な情熱である。

***

 われわれに係わりのないあらゆる種類のコミットメントがある。あらゆる無価値な大義のまわりにコミットした人々が凝集している。テレビ番組、白痴的アイドル、ぱっとしないミュージシャン、凡庸な知識人。〈すべて〉においては社会的・文化的・政治的なゴミのそれぞれに信奉者が発生する。信奉者はその気まぐれなコミットメントにおいて消費活動を、自己規定的で自己主張的、ことによると解放的な行為だと勘違いしているのである。

 (だが、解放という理念が多くの人々をとらえるなどというナイーブな考えは捨てよう)

 どうしても集団的抱擁から抜け出したいのなら、コミットメントそれ自体によるコミットメントが必要である。一方でそれは配慮と注意深さを要求し、他方では腐食性の懐疑主義を要求する。われわれのプロジェクトは無希望なまでに困難だと述べた。また、すべては行為や存在をめぐる命令をはらんでいると述べた。さらにわれわれはこう付け加えるべきだろう。つまり、〈すべて〉はすべてをふたつの次元――思考の次元と生の次元――に区別するが、それらふたつの次元がこの社会で合法的に出会う唯一の地点とは、消費という表現活動だけであると。きみ自身をいい奴にしろというわけである。

 行為や存在をめぐる命令に背くとおそらく、悲惨や貧困や懲役刑に直面することとなる。

 だがこれこそ、われわれがリスクをおかしてコミットするものにほかならない。思考と生のつながりをいっそう強固にしたいと望むがゆえに。つまり、われわれが行なうと述べることと、われわれがじっさいに行なうことのつながりであり、われわれが述べるわれわれ自身のあり方と、われわれ自身のじっさいのあり方とのつながりである。コミットメントとはこのつながりであり、コミットメントにコミットメントするとは、そのつながりを強固にすることである。

 さらにいえば、われわれは思考と生の区別の消滅にコミットしているのである。ということはつまり、われわれが〈すべて〉の消滅にコミットしているということである。


命題
コミットメントへのコミットメントを求めるとき、われわれはひとつの組織形態について話している。それは退屈なクラブや疑似的な軍隊編成とはかけ離れたものである。その形態が強固であるかどうかは、誰かがそこに参与したとき、その参与自体がうまく覆い隠されるその強度にかかっている。勝つために真剣にゲームをしているという程度のことで、深刻な何ごとかをしていると考える必要はない。

 コミットメントへのコミットメントにとりかかる別の方法がある。なぜプロジェクトは失敗するのか、なぜ人々は裏切りや諦めをくりかえすのか、なぜ運動はメインストリームか崩壊かの二者択一におちいるのか、自問することである。

 これらの問いにわれわれはこう答える。つまり、〈すべて〉が約束をはたすことを不可能にするのだと。われわれがおこなうすべてには、ある種本来的にそなわる不正や偽善が含まれている。誰かが約束を守ろうとするとき、忠誠を誓い、友達とうそいつわりのない関係を保とうとするときまさに、〈すべて〉の秩序が介入してくるように思われる。宣誓をすることは、たとえば法廷や軍隊や結婚がそうであるように、制度への忠誠として理解されている。約束を守り、誠実であろうとすることは、道徳上の問題としてのみ理解されている。

 われわれの感覚では、宣誓において問われているのは、真実を述べなければならないといった道徳ではなく、真のよろこびであり、思考と生のあいだの脱自的な関係を生成させる無希望の可能性である。真の友情と言いかえてもいい。

 無希望という問い。

 誠実であることが関係をもつことであるならば、他者への誠実というあの古風な感覚さえもわれわれは要求するだろう。友情の強度は、高みからの指令のごとき何かとしてではなく、内在的な質として理解される。

 またしても友情について書いている。われわれはいまだに、おそらくは友情のことしか書いてはいない。われわれは切断について、「コミットメントへのコミットメント」へのコミットメントからの跳躍について書いている。それは私的に生じる何かでも公的に生じる何かでもない。〈すべて〉のなかで〈すべて〉として到来する何かではなく、ありふれた風景のなかに隠された何かである。きみがそれを正しくおこなうなら、きみときみの友達は〈すべて〉のなかで判読不可能な存在となるだろう。

 われわれの生活に到来した切断、あるいは到来しつづけている切断について、次の二点を述べておこう。一度それが生じると(われわれは空虚に向かって「ハロー?」と叫んだ)、それは際限なく反復される(それは誰かが暗闇のなかで返事をした時からはじまった)。すべての会話、われわれのすべての関係は、この最初の、起源の出来事の反復である。

 プロジェクトの挫折、さらなる裏切り、運動の内破にふれるたびに、われわれは、誰がいるか分からずに「ハロー?」と叫んだあの起源の空虚に立ち戻る。われわれが心理的距離を手放すことはないだろう。それは〈すべて〉がわれわれにもたらした最初の分離の自覚である。われわれは不可能性と親和的なのだ。

 切断という事実、その偶然性と、その偶然ならざる反復を享受するとき、ある明察がもたらされる。つまり、党や集団やチームや組へのきみの帰属意識は、いつのまにか〈すべて〉への帰属におちいるということである。万人がかくあるべしと認めた日常のものごとにふたたび身をまかせる安易な癒着ほど気楽で可能性にみちたものもない。何らかのアイデンティティを求めて何者かであろうとすることは、〈すべて〉のなかに割り当てられた場所を得ること以外の何ものでもない。

 〈外〉は内の外ではない。〈外〉は別の側面というべきである。偶然性と非=偶然性がともに連鎖する。それは注意の瞬間と情熱の瞬間のつらなり、われわれの可謬性が克服されたことを確信のないままに学びとられるレッスンのつらなりである。コミットメントへのコミットメントは、無希望のまま次のつながりをつくりだそうとする意志にほかならない。無数の活動に参加するのも自由だし、無数の活動から撤退するのも自由である。そこから真実の応答が引き出されるのであれば。


命題
捨てられた歴史をもつわれわれが、世界の終わりを所在なげに待つことなどない。われわれ自身が世界の破滅の元となること以外に、自分たちの生を生きることはできないとわれわれは理解したのである。結局のところ、期待すべきものなど何もないし、恐れるべきものなど何もない。さらにいえば、世界を破滅させるための世界のすべての時間をわれわれは有しているのである。

 欺かれることを望まず、ある種の覚醒を生の基準としたわれわれは、〈すべて〉が終焉を迎えることを知っている。あるいは少なくとも、ときおり理解する。時としてそれは、われわれの友達がいずれ死ぬだろうということ、われわれが友達のために死ぬだろうということを知るのと同じくらい簡単である。

 きみは死について知っている、死に取り囲まれているがゆえに。しかし、周囲の死を〈すべて〉が管理し秩序でぬりかためるとき、死は隠蔽される。そのはたらきは恒常的であるが、完全ではない。それが失敗するとき、きみは自分が死に囲繞されていることを悟るのである。

 われわれがいう無希望とは、すべてにたいする無関心だけではなく、死の確実性にたいする態度をも意味する。われわれがいう無恐怖とは、死など訪れないかのごとく存続するすべてからわれわれを区別するためのものである。つまりわれわれは、恐怖も希望もなしに、時間と死を相手にゲームをしているのだ。われわれが忠実でありつづけるであろうわれわれのプロジェクトもまた終わりを迎えるだろう。ゲームはさまざまに形を変えて到来する。われわれはそれを知るべきであり、幻想なしにコミットしつづけるべきである。

 コミットメントへのコミットメントとは、覚醒とゲームを通底させる方法を理解することである。「ハロー」と言うときわれわれが行なっているのはこれである。

***

 世界もまた終わるだろう。これは希望ではなく事実である。じっさい、無数の世界がすでに途絶えたのだし、いまこの瞬間にも途絶えつつある。

 われわれは〈すべて〉の消滅と世界の終わりにコミットしている。

 「たくさんの世界が可能だ」と誰かがいった。終わりつつある世界のいくつかを救えるといわんばかりに、伝統やら文化やら言語やらを復活させることで、すでに消滅した世界のすべてを再生しうるといわんばかりに。われわれは、それらの世界のうちに居住可能なものはひとつもないと考える。〈すべて〉こそ唯一であり、あらゆる従属的世界を秩序づけている巨大な〈場〉である。きみの私的世界やきみに固有の文化のための余地は〈すべて〉のなかに用意されている。密室や政治的空間でなされるコミットメントさえも。そこにコミットメントへのコミットメントのための余地はない。〈世界〉への信からわれわれが解き放たれる余地はない。

 〈世界〉の終わりはわれわれにかかっている。

 真の友情は〈世界〉の終わりであり、われわれの遊動の始まりである。

 共謀(シークレット)は終焉に始まる。

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