レッツ・ビカム・デンジャラス

炎上細胞共謀団FAI/IRF 収監メンバー細胞
「HAPAX」2号(20146月)より転載

黒いインターナショナルの拡散のために

手当りしだいに開始する――撒き散らされる主張


話をはじめるにあたって、まずはあなたたちと喜びを分ちあうことにしたい。こうして書きながら感じている喜び、いまだ壁のなかに捕らわれたままであるにもかかわらず、われわれが感じている喜びを分ちあいたいとおもうのだ。われわれのなかの幾人かは壁のなかから自由になり、こうしていままさにあなたたちと、社会という装置を構成する権威にむけられた、新しいサボタージュの方法を議論し、検討し、計画しようとしているわけだ。この喜びをわかちあおう。

もちろん、こうした状況に至るまでには、同志たちのかけがえのない貢献があった。かれらは新しいアナーキーをめぐる国際的な実験について、たえず情報を提供してくれたし、われわれのテクストをすすんで翻訳してもくれた。

以下につづく文章は、メキシコでおこなわれた国際集会のさいに、CCFの収監メンバー細胞のあいだで交わされた一連の議論から生まれたものである。

この集会をとおして共有したいとおもうのは、なにもわれわれの公式の見解といったようなものではない。アナルコニヒリストであるわれわれは、いかなるものであれ絶対的で客観的な真実など信じることはない。そんなことではなく、われわれとしてはただ、じぶんたちがどこから開始しようとしているのか、それを述べておきたいのだ。それはつまり、われわれじしんの思想にたいし、もう一度異議申し立てをおこなってみることであり、ひとつの実験であり、アナキストによる蜂起をより先鋭化するための開始地点を、あらためて設定することである。理論と実践をめぐるこうしたたえまない探求が、イデオロギー的な硬直化を避け、アナーキーに生気を吹きこみ、それを危険なものとするのである。

しかしそのまえに、ひとまずふたつのことを確認しておきたい。

第一に、以下につづく考察のなかには、そこで語られる思想と、そこからとられるべきだと考えられうる立場にかんしての不一致がみとめられることとおもう。われわれとしては、こういった不一致を隠しだてしてきたつもりはないし、これからもするつもりもない。かつて囚われの身であり、あるいはいまもそうであるわれわれの置かれている状況が、しかるべきコミュニケーションを阻んでおり、即座に得られて当然であるような情報を更新することもできていない以上、そうした不一致は、最近のアナキストの国際的な展開との関連のなかで勘案していただきたい。

第二に、言葉それじたいが目的ではないということに注意してほしい。重要なのはわれわれそれぞれが経験したことを伝える意味のほうである。ときには、文脈によって同じ言葉が異なった意味で使われることもあるだろう。

こうした事態をふまえたうえで望まれるのはおそらく、混乱を生じるようなうわべをとりさった、あたらしい言葉を発明することであろう。しかしともかくそれまでは、語源学にかんする評論を読むようにしていつまでも細部に「固執する」者は、そのなかに溺れ、意味を見失ってしまうだろうことに注意されたい。

愚問愚答


先端技術産業と手を組んだ全体主義、金融危機、略奪される自然、運動の弾圧、軍事行動、遍在するスペクタクルによるプロパガンダ等々、数えきれないほど多様な表情を見せながら、戦争はいまも猛威をふるいつづけている。

命令を叫ぶ声は喧しい……。

経済の窮状、貧困、社長連中の開きなおった搾取、銀行による独裁、大企業による支配、電化された治安維持、デジタルワールド、遺伝子実験、研究所が生みだす感染症、ナノテクノロジー、森林破壊、水や大気の汚染、生体解剖の名のもとにおこなわれる動物の虐殺、肥大化する肉食主義、増えつづける重警備刑務所、移民たちの収容キャンプ、アナキストにたいする拘禁措置、遍在化する警察、デモを鎮圧する軍隊、「人道的な」軍事行動に捧げられる大量の死者たち、原子力兵器、化学兵器、ジャーナリストによるプロパガンダ、広告による画一的な美意識、ゴミのような日用品で溢れかえる暮らし。

われわれの目の前には、こういったことのそれぞれを分析し、解決策を説くテクストが山のように積み重ねられている。権威にとりつかれた左翼の政治屋たちは空想をやめない。
社会福祉の拡充のために国会に働きかけよう、エコシフトによって経済成長が見込めるはずだ、貧困の救済のために経済的な支援を勝ちとろう、NGOの慈善活動にも活路が見出せるはずだ、警察を民主化していこう、法制度をより寛大なものに変えていこう、もうひとつの持続可能な生態系を目指すべきだ、刑務所の暮らしをよりよいものにしよう、等々……。

以上のようなより「フェア」で「人間的な」な考えをもった左派的な権威のための提案の背後に、市民的・議会主義的アナキストたちの一団が、ちょこまかと駆けずりまわっているすがたが見える。そこから漂ってくるのは、臆面もなく政府に手を差しのべ、議会に執心するアナーキーの改良主義的な雰囲気である。社会というものは、そういった野合のなかでだらだらと発展していくのだろう。党に属さない三文政治家、蜂起のなかでうまく立ちまわる脇役俳優、マルクス主義の亡霊から借りたままの古びた用語や解釈(生産手段の自主管理、自主学校、民衆議会、革命義勇軍、委員会制度等々)を手放すことのないまま、いつまでもおしゃべりをつづける理論家面したモグラども。

われわれが暮らすギリシャにおいては、こういった改良主義的な尻込みがなにを生みだしているかといえば、せいぜいが、反ファシスト戦線の形成、民衆議会、もろもろのデモ等のかたちをとってあらわれる、左翼たちと市民的アナキストたちのあいだの楽天的な協力関係なのである。

しかしわれわれにとっては、じぶんたちではよいことをしているとおもいこんでいるこうした市民的アナキストたちのすがたは、じぶんの尻尾を追いまわして回転する犬のようなものにしか見えない。連中にとっては意味のある分析にもとづいているつもりなのだろうが、われわれから見えれば、そもそも問いが正しいものではないのであり、したがって、それにたいする分析もやはり間違ったものでしかないのである。

権力に公認されるような言葉のベースになっているのは、たとえばあきらかな数字の詐術を含んだ失業率の統計など、あくまでも経済的な地図にもとづいた世界にたいする、社会的な解釈である。だとすればいったいいかなる理由でそんなことに寄与し、それにたいする解決策を考えなければならないというのだろうか。

いったいなぜ、社会をよくしようなどという死人のような無駄話で時間を無駄にしているのか。われわれが欲望しているのは文明の瓦解なのだ。亡霊のようなコミュニストの思い出話につきあって、攻撃の手を引っこめてしまうのはなぜなのか。奴らがつくりだそうとしているのは、こうすればこうなるといった政治の計算式でしかない。だが、われわれは違う。

われわれがつくりだすのは戦争である。


異議申し立てに異議を申し立てる
よってわれわれは、社会的な語り方のなかから生まれてくるような、出来合いの問いにたいして答えようとはおもわない。われわれはそんなところにはいないのだ。すでにある問いに答えるのではなく、問いを生みだすことに挑まなくてはならない。あらたな問い、われわれの生にとっての真の問いを生みだすことに挑むのである。権威というものが、与えられた問いにたいする答えの正しさに一喜一憂するものだとすれば、蜂起とは、問いをたてることを意味する。

したがってわれわれは、異議申し立てに異議を申し立てる。

それは、はてしない蜂起にむかう計画を生みだすための異議申し立てである。その計画は、精神と感覚を両立させ、氷のような戦略の冷徹さと炎のような実践の熱狂を両立させ、局地性と時間性を、緊張間と持続力を、社会装置の破壊という直接の目標と生の解放を両立させるものとなる。

これこそが、われわれの実存をふたたびとりもどすためのただ一つの方法である。もちろん口さがない者たちはいうであろう。「貧困問題はどうするんだ?なるほどおもいつきはよさそうだが、社会はげんに経済恐慌へとむかっている。貧困や飢えをまえにして、実験的な詩でも語ろうというのか?」

答えよう。イエスだ。われわれは貧しい者たちを「救済」するための政治的なプログラムなどもってはいないし、社会を救うためのレシピにも興味はない。病んだこの世界を癒すつもりなどわれわれにはない。われわれはただ、それを破壊するのだ。

経済危機に瀕している社会にたいする唯一の提案は、それを崖っぷちまで追いつめることである。

貧困による区別を撤廃するためには、経済そのものを破壊する以外にはありえない。そして経済とともに労働と産業的大量生産も破壊されなくてはならない。しかしいうまでもなく、魔法のボタンを押したからといって、われわれをつなぐ鎖のすべてが解かれるというわけではない。経済、生産、消費、商品、こういったあらゆるものが、奴隷とその主人のあいだにある表面的な社会関係を表現しているのはもちろんだが、しかし鞭と鎖は(往々にして)見えないままにとどまるものだ。

この点において、ただ貧しい者たちの腹を満たしてやろうとだけ述べているにすぎないコミュニストや、その「アナキスト的」な仲間たちの思考は、最初から不十分であり、貧しいものだといわざるをえない。

すみずみまで権威主義の浸透した社会的諸関係が、退屈なだけの経済理論などで解決へと至るはずもない。だからこそわれわれは、すべての規格化された関係を爆破し、人生、喜び、友情、愛、エゴイズム、幸せ等々にかんして提示されている、ありとあらゆる所与のあり方を転覆させてしまうことを望む。

スーパーの棚にならぶ商品の量ではなく、生きることの質について話をしよう。物質的な確かさをもとめるのではなく、詩のなかにはらまれる困難な問いにこそ目をむけるのだ。

問いの困難さをまえにして、左翼の語る人民の権力や、アナキストの語る労働者の自主管理という空想のなかに、安易な答えを探し出す者たちもいるだろう。しかしわれわれは、生きることをめぐる謎のただなかにとどまろう。

こんにちにおいてはもはや、生きることのなかに謎はなくなってしまった。内部がないのだ……。かつて謎をやどらせた生の内部は、数学の方程式を解くようにしてことごとく合理化されてしまった。あらゆる動きが予測可能なものとなり、あらゆる感情が計量化可能なものとなってしまっているのだ。

誰もが個別化され、じしんの住まいに閉じこめられている。納税申告やクレジットカードによって番号のもとに管理されている。まるですでに監獄に閉じこめられているようなものだ。

なるほど、われわれはナイーブで夢を見ているだけかもしれない。だが、われわれは確信しているのだ。生きることはマルクスやバクーニンの理論のなかにあるわけではないし、空疎な言葉の集積のなかにあるわけでもない。

生きることとは選択であり、行動である。選択や行動は街頭においてこそおこなわれる。理論などもうたくさんだ。われわれは一瞬一瞬にやどる緊張感を持続させよう。人生を冒険に転化するのだ。

理論から実践へ――中間的な社会的闘争にたいする批判

アナーキーを語りながらひとりのアナキストとして行動する方法を追及しようとしない者は誰であれ、じぶんが生きながらに死んでいることをふれてまわっているようなものである。たしかに、アナキスト的な行動にモデルがあるわけでも、ぜったいに失敗しない形式があるわけでもない。かといって、社会装置にたいして危険になるためのやり方は、無数に存在しているのだ。

アナキスト的な批判とは、ひとつの方法なのであり、じしんの思考を練りあげ、武器を研ぎ澄ますための方法なのである。

社会装置はしばしば、構造的な矛盾をさらけだし、社会的な緊張状態を生みだす。ストライキやデモ、局地的な闘争や警察とのストリートファイトといったかたちで表現されるそうした緊張状態は、スムーズな社会の統制をかき乱すことになる。

ときに暴力的な性格をとることにもなるこうした種々の闘争は、市民的アナキストにとっての参照点ともなる。その場合に問いとして提起されるのは次のようなものである。つまり、合法性の境界を越えていく社会的闘争のなかでは、合法性にもとづいた倫理も同時に乗り越えられてしまうものなのかどうか。

言葉を変えていえば、中間的な社会的闘争の結果として生まれる衝突や炎のただなかでの、極度に切迫した状況のなかに賭けられるべきは、あいかわらず単一の要求の獲得(賃上げ、教育改革等)であるのか、それとも、アナキスト的な、権威そのものの破壊であるのか、ということだ。

われわれの見るところ、広く受け入れられている中間的な社会的闘争が願っているのは、より「フェア」な権威であり、権威そのものの破壊ではない。さらに、中間的な社会的闘争はじしんの要求より以上にはけっして進もうとはしない。これらが何を意味するかといえば、けっきょくそうした闘争に参加する者たちは誰かに何かをお願いしているのだということである。連中は権威がじぶんたちを満足させてくれることを要求しているのであり、そうあればこそ権威に承認されることがもとめられることになる。こうした、権威による道徳的な承認への意志がひとたびはじまると、何が起きようと、たとえ石を投げるような局面においてさえ、かれ/かの女たちはけっしてその枠内を越え出ることがない。

かくして、賃上げ要求の闘争のなかで警察と衝突していた連中が、次の日には、同じ情熱をもって、警察のパトロール強化や不法入国する移民の収容キャンプを要求しだすことになるわけだ。

もちろんわれわれはこういったことを一般化しようというわけではないし、改良主義者や議会主義者たちには、どうかこれからも街頭に出て、中間的な社会的闘争に加わっていただきたいとおもっている。

じっさい、中間的な社会的闘争のなかではかならず、けっしてそれだけでは満足せず、システムにたいするみずから怒りを表現するためのやり方を追及している、反抗的な若者たちが存在している。こういった若者たちは、単一の要求を掲げる闘争にはけっしてフィットすることはないし、それに満足することもありえない少数派たちである。

われわれにとってのあたらしいアナーキーの同志たちは、こうした少数派たちが出会うところにこそ、かれ/かの女たちの破壊的なみぶりをとおしてこそ見つけ出される。民衆議会や闘争委員会にたいする不満はもうたくさんだろう、じぶんたちでやりたいようにやろうではないか。たとえそれが「社会的闘争」のなかにあらわれているのだとしても、規範など破壊してしまえばいい。

われわれは、じぶんたちがおかれている窮状を共同で表明しようとはおもわないし、なにかしらの敵にむけて要求を掲げようともおもわない。われわれは混沌と無秩序のウィルスである。パレードのようなデモに不満を感じる者たちのあいだに伝染し、影響を及ぼすのだ。

われわれは、警察や銀行、ジャーナリストへとむけられたヒット&ラン戦術のために、デモ隊のなかの大衆を利用することになんの道徳的問題もかんじることはない。かりにわれわれのこうした動きが、平和なデモにたいする弾圧や警察の襲撃をもたらすとしても、そんなことは知ったことではない。

異議申し立てとは、出来事を生みだすことを意味する。警察の暴力は状況を二極化する。傍観者はもうたくさんだ。われわれは戦争中なのであり、どちらかの極を選ばなくてはならない。アナルコサンディカリストや、連合を組んだ社会的戦線などというどっちつかずの連中のために残される余地は、いっさい存在しない。

中間的な社会的闘争のなかで起きるストリートファイトが、われわれのいうことを証明するはずだ。

ひじょうによく見られることなのだが、蜂起派の同志たちは、街頭において次に備えてただ待っているばかりで、その場でただちに効果を発揮する暴徒のためのインフラをつくりだすということがない。警察と衝突し、権威のシンボルとなるものを攻撃することで満足して、中間的な闘争のなかでお膳立てされた状況のなかにとどまり、争いのリアリティーをそのまま日常生活のなかにまで移すことがないのである。

だが、アナキスト的な都市ゲリラ戦が意味するのはまさにそうしたことなのだ。それはつまり、社会的な抗議の名をかりてじしんのすがたをカモフラージュすることなく、一人称現在形において攻撃を開始することなのである。

蜂起派たちの秘密裏の行動の裏では、アナキストぶった政治屋たちやピエロどもが、たまたま出くわしたストリートファイトの場に居合わせたことで自意識を満足させ、大衆による社会革命の妄想をたくましくしていることを忘れてはならない。つまり、アナキスト的な都市ゲリラ戦が時代遅れで自滅的な選択肢のようにおもわれているとしたら、そうおもわせている要因の一端は、社会闘争を隠れ家のようにして使う蜂起派たちにあるのだ。

われわれ炎上細胞共謀団にとっての賭け金は単純なものである。つまり、「社会的闘争」をとおして橋を架けたいとおもうのだ。それは、反抗的で、不満をかかえたままの少数派たちがそこを渡ってアナキスト都市ゲリラへと至るための橋であり、攻撃を継続するための橋である。

労働組合やなにかしらの委員会など、他の誰かによって選び出された時間と場所でおこなわれるデモのなかで蜂起のチャンスをうかがい、公認された闘争をただ待ち望んでいたのでは、けっきょくは継続するアナキスト蜂起の機会を逸してしまうことになる。だからこそ、橋を架け、攻撃を継続しなくてはならない。


頭文字FAI
――および「アナキストの銀河」における匿名性について

われわれの目下の関心は、社会装置にたいする憎しみを表現するためのあたらしい方法について、より危険な方法について議論し、それを見つけ出していくことにある。

どこから開始するのかをはっきりさせることからはじめるとしよう。われわれは、アナキストによる不定形の組織から開始する。

ⅰ)なぜ不定形であるのか。なぜならわれわれは、組織的な規則やあらかじめ役割が決められてしまうことからくる、もろもろの規範や状況を嫌うからである。聴衆をひとつにまとめる雄弁家という役割、泥棒という役割、爆弾による襲撃という役割、声明の作者という役割、放火の実行という役割、こうした役割による区別は、われわれの生や、われわれの可能性を浪費させてしまう。区別とはそもそも、われわれを取り締まる権威こそが手放すことのない信条である。アナキストのサークルのなかにしばしば見出すことのできる、役割による区別のあいまいな不定形な権威は、なしくずしにされた区別によって周囲にとけこみ、うまくそのすがたをカモフラージュすることができる。そうすることで得られる不可視性によって、おこりうる批判や攻撃から身をかわすことで、区別を前提にしたよくある権威のかたちにもとづいた集団よりも秘密裏にことを運ぶことができるのである。われわれは、あらゆるのひとにたいしてあらゆることをいう。われわれはみな、役割や専門性と袂を分かつことによって、かれ/かの女たちがもっている能力を発展させることができる。そしてまた、役割や専門性のくびきをはなれたあとで、同志としての関係をとおして、略奪や放火や爆破、実行することとテクストを書くこと、会話すること、あるいはまた、あたらしいアナーキーを推進するための、以上のこととはまったく別の表現の形式までもふくめて、あらゆることを試してみることができる。

ⅱ)なぜアナキストによるものであるのか。なぜならわれわれは、現にアナキストだからであり、リーダーを望むわけでも、フォロワーを望むわけでもないからだ。官僚的なピラミッド型のヒエラルキーにもとづく、委員会形式の権威に頼るつもりはない。われわれが創造するのは、嬉々として堂々巡りの議論に精を出す中央集権的な組織のモデルではなく、直接行動を志向する流動的な諸細胞をとおした、対等な者たちのあいだの共謀である。

ⅲ)なぜ組織である必要があるのか。なぜならわれわれは、継続的なアナキストによる蜂起を信じているからであり、権威に抗する戦争を信じているからだ。生のいちいちに口を出す指揮官どもにたいする戦争に、よりいっそうの強度をもたせようと望むなら、組織しなくてはならない。われわれが望むのは、攻撃的な細胞からなる不定形の国際的なネットワークである。このネットワークは、行動の計画やその実現のための具体的な調整を示唆しあいつつ、それぞれが自律的にふるまい、アナーキーの可能性を押し広げるために、互いに助け合いながら進化していくことになるだろう。

以上がわれわれからの提案であり、したがってわれわれは、全身全霊をかたむけてFAI-IRFネットワークを支持するものである。

もちろん、同志たちや括弧付きの「同志たち」のあいだで激しく交わされつづけている、FAIをめぐる論戦について知らないわけではない。しかしそうした議論は、ありもしないものをめぐって起きている、理論のうえでの泣き言であるようにしか見えない。一連の論戦において見るべきはむしろ、そのなかにはまた、直接行動を志向する細胞たちや不定形の連合において採用されている、「頭文字(アクロニウム)」の問いへと対話を開いていこうとする者たちが存在しているということである。

順を追って見ていくことにしよう。

数ヶ月前われわれは、政治的な匿名性について切迫した考えをもったあるアナキストによって書かれた、『Anonimato』(英訳では『匿名性(アノニミティ)』)と題されたテクストに出くわした。テクストのなかで展開されていたのは、CCFとFAIに向けられた、いっさいの仮借のない批判であった。『オデュッセイア』のなかの一つ目の巨人、サイクロプス族のポリュペモスの神話を引用することからはじめられるそのテクストの主張は、いたって明確なものである。要約すればそれは次のようになる。神話によれば、オデッセウスはサイクロプスにみずからの名を名乗るように迫られたとき、じぶんは「何者でもない(ノーバディ)のだと答える。そこでサイクロプスは、オデッセウスによって目を潰されると、みずからの同胞にむかって、じぶんは何者でもない者によって盲目にされたと叫んだ。目を潰されたサイクロプスの叫びは仲間たちのうちに混乱を生み、かれらはいったいなにが起こったのかを理解することがなかった。われわれを批判するために喚起されたこの神話は、著者の名前を明かさないことにかんする思想の核心を表現するものであり、グループの頭文字を署名として使うかわりに、完全な匿名をもってすることの利点を語るものである。このテクストの著者が強調していうところによれば、「ある行動のあとにつづいて声明を出すなど、冗談のいちいちを説明してやまないようなものだ」ということになるそうだ。なるほど、それならばこういおう。まず違っているのは、われわれは冗談をいってよろこんでいるほど愚かではないということだ。くだらないお喋りにうつつをぬかす者たちを尻目に、われわれは戦争のバリケードをみずからの住処とし、燃え上がる炎をじぶんたちの同志として選ぶ。さらにいっておこう。中途半端な知識は無知よりも始末が悪い。ポリュペモスの神話はそこで終わるわけではない。一つ目の巨人の島を離れる船上からオデッセウスは叫んだ。「このわたし、オデッセウスがお前の目を潰してやったのだ」……。

さあ、神話などもう充分だ。話をもどし、FAIとはなにかについて語ることにしよう。

FAI、黒いインターナショナル、CCFは無政府主義的個人主義者やアナルコニヒリストからなるアフィニティーグループであり、われわれがたえずそのなかに身をおくことをのぞむ共同体の名前である。しかし注意しておこう。グループや共同体というからといって、それを力の累積していく場のようなものとして理解したのではその本質を見誤ることになる。FAIは中央集権的な組織のモデルをとることはない。反対にそれは、組織が不定形なままにとどまることをうながすものであり、さまざまな細胞と個々人の単独性のあいだに生まれる親和力を高めようとするものである。われわれは、幾人かのメンバーによるものであれ、中央委員会によるものであれ、組織内での専政的な状況に反対する。そしてまた、両陣に分かれて相争う兵士たちの論理に従うことを拒否する。むしろわれわれは、狂喜にまみれた行動を生みだす、無数の主張を拡散していくことをうながすのだ。あるいはそうした主張のなかのいくつかは、国際的な協力関係のなかで動きだすこともあるだろうし、まったく単独の細胞、あるいはバラバラなままの個人によって表現が与えられることにもなるだろう。なにも難しく考えることはない。FAIとはつまり、この時代を叩きのめそうとするさまざまな欲望が出会う、不可視の共同体のことなのだ。こんなふうにしてわれわれは、あたらしいアナーキーの出現をうながし、来るべき黒いインターナショナルの創設に備えているのである。

「それにしても」とひとはいうだろう。「いったいなぜ、名前のついた細胞に執着し、グループの頭文字を使うことに固執するのか」。ならば答えよう。われわれにはなんの執着もないし、なにに固執しているわけでもない。われわれはただ、じぶんたちが誰なのかをはっきりさせたいという欲望を強く感じているのだ。

こんにちにおいてはとくに、声明や行動をつうじてじぶんたちの立場をあかすときに、「アナキスト」だと宣言しているだけでは不充分であり、事態の混乱をまねくことになる。左派的な草の根労働組合運動主義者、マルクス主義的な現状分析を手放さない者、貧困にもとづいた連合運動のプランナー、直接行動を誹謗してやまない者、労働者のコミューンというアイデアにとりつかれた空想家、地域の市民運動に参加していく活動家、アナーキーを社会にたいする治療の一種だと曲解するセラピスト。こんにちでは、こういった連中が一様に「アナキスト」だと名乗っている。こういった連中が名乗る意味での「アナキスト」なる称号から、じぶんたちの立場を分離しなくてはならない。

よって、それぞれの行動は、それに付随する声明をとおして、それをおこなったのが誰なのかをはっきりと告げるものでなくてはならない。そうすることで、われわれの行動と「アナキスト的」な抗議とのあいだに距離をとることができるのだ。じっさい、もしかりに、「アナキスト的」な抗議が銀行を炎上させることになるとしても、しばしばそれは、「貧しいひとのために、金融資本主義に抗して」など、すくなくとも何事かに対応するものとして考えられることになる。

だが、われわれの行動は違う。われわれは銀行を燃やす。しかしそれは、何事かへの抗議でもなければ、椅子に寝そべったまま何をするでもない「貧しい人たち」との友好や連帯のしるしでもない。それは「このわたし」を表現するための方法なのだ。「このわたし」こそが奴隷の群れから立ち上がろうとする者であり、誰にもまつろわぬ者であり、叛乱のために群衆を待ち望むことのない者なのである。「このわたし」は、じしんに固有の名前を主張し、じしんの「頭文字」をはっきりと書きつける。それが匿名性の陰に隠れてしまうことはない。叛乱をおこした「エゴ」が出会うときに生みだされる名前がある。その名前こそがFAIであり、それこそがわれわれにとっての「このわれわれ」を表現するものなのである。無数の「エゴ」からなる集合である「このわれわれ」は、みずからの敵にたいしてむけられたカミソリで武装している。

したがって、われわれはじぶんたちを特定可能なものとすることを選ぶ。架空のアナキスト運動が前提にしている匿名性のなかで、じぶんじしんを見失っている場合ではないのだ。

政治的な匿名性についてはしばしば次のようにいわれることがある。「声明文やグループの頭文字を公表してしまうことによって、行動に所有者が生まれてしまう」。しかし、じぶんが誰かをはっきりと告げることは、所有権をめぐって契約をむすぶことなどではない。そうではなくそれは、それじたいクラウド状の匿名性によってなりたっている社会装置にたいして攻撃の姿勢をとりつづけるための、われわれなりのやり方なのだ。監視の対象としてのポリス的なアイデンティティーなど捨てさり、火にくべてしまおう。じぶんじしんの名をはっきりと告げることにより、じぶんじしんがそうであろうと望むものになるのだ。

同志や細胞のあいだでの対話はこんなふうにしてはじめられる。権威とされるものに面とむきあい、その顔めがけて深くしるしをきざみこんでいくこと。そのことを起点として、そのなかで生まれる経験を共有し、問いかけや議論、反論、次の計画を分かちあっていくのだ。

いうまでもなく、FAIは排他的なものなどではない。それは、われわれの提案が、このままFAIの人数だけを拡大していくことなどではないことからもわかるはずだ。もしそう感じるなら、美学的な言葉づかいのいちいちに至るまでもふくめて、FAIに反対してもかまわない。われわれが提案しているのは、武装した細胞やアフィニティーグループを組織化することであり、実践を志向するアナキストによる、国際的なネットワークを形成することなのだ。直接行動とアナキストによるゲリラ闘争、われわれが提案しているのはただそれだけなのである。

われわれは、社会的なアナキズムが手放すことのない生気を失った考え方を放棄して、黒いインターナショナルをたちあげることを望んでいる。権威には中心があり、野獣には心臓があるといった、過去の亡霊のような考え方は乗り越えてしまわなくてはならない。権威とは、たんなる建物のことでも役職のことでも個人のことでもない。それは社会的関係のことなのだ。権威はそれに公認された寺院の数々(議会、多国籍企業、銀行、裁判所、内閣、警察署)からはじまって、日常生活のごく単純なみぶり(家族や恋愛関係、友人関係)のなかにまで手を伸ばしてくる。

権威はただひとつの点にだけ見つけだされるようなものではない。だからこそわれわれは、FAIが、別のアフィニティーグループとあたらしい地平で出会うことを望んでいる。銀行の爆破と広告会社の瓦解を同時進行すること。先端技術産業分野、自然や動物を搾取する企業、製薬産業、さらには、われわれを隷属化する文明そのものに至るまで、いっさい妥協することなく、敵対性を拡散すること。われわれは反文明的なアナキストのテンションを沸騰させ、生のあたらしいあり方を発明する。われわれが望むのは、理想化された原始共産制の幻想などとは無関係なままに、自然や動物や人間を搾取し、死にまでいたらしめる構築物を叩きつぶすことである。人間的な生の価値にたいするフェティシズムとは縁を切り、はっきりさせることとしよう。われわれがむかおうとしているのは、よりよい暮らしのための施設のようなものを手にすることでもなければ、それをよりよく管理する個々の人間を待ち望むことでもない。人間的な目標など、処刑にくだしてしまうことだ。

こうした方向にむかっていく以上、「アナキストの」銀河における理論家たちは、われわれの背後に置いていかれることになる。連中はいっさい手を汚すことなくいつまでも政治的匿名性についての御託を並べていくだろうが、われわれが望むのは、あくまで真実を語ることなのだ。政治的匿名性を説く態度のなかにはかならず、あれこれというその理論の裏側に、弾圧にたいする怖れが隠されている。だが、怖れと向きあわなくてどうするというのか。監獄も死も、継続するアナキストによる蜂起の一部である。以上のことが受けいれられないというのであれば、それは蜂起それじたいを受けいれられないということと同じであろう。しかし一方で、言葉ではなく行動をとおして政治的匿名性を擁護する者たちがいるのであれば、それが美学的な観点からなされるのであれ、かれ/かの女たちとわれわれとの違いは、けっして両者を隔ててしまうようなものではないはずだ。アナーキーとは賛成することではなく、問いを発し、疑義を呈することを知ることである。FAIのオルガ細胞に属していたわれわれの同志ニコラ・ゲイが書いていたように、「権威から自由な生の可能性の名にかけて、それが匿名的であろうとなかろうと、 同志たちのあいだにある愛と共謀が、攻撃の手をやすめることはない」のだ。



国際的な「フェニックス・プロジェクト」が証明しているとおり、われわれの行動のいっさいにコピーライトなど存在しないし、同じ名前の傘の下に特権的な協力関係があるわけでもない。これまでのところ、ギリシャ、インドネシア、ロシア、そしてチリで、8つの行動が起こされている。チリの同志たちは明確にFAIに属しているというわけではないが、「イリヤ・ロマノフよ永遠なれ」と名づけられた細胞を組織し、黒いインターナショナルへの親和性を表明している。打倒すべき特定の目標を掲げたものであれ、塀のなかに囚われたままでいる同志たちとの、実践をともなった連帯というかたちであれ、国際的な行動へとむかうあたらしいプロジェクトを創造し、協力していく機会は数かぎりなく存在する。この文章もそうした機会を生みだすために書かれた。

この世界のなかに自由など存在しない。
この世界のなかに存在するのは、自由のための闘争だけだ。
ところで、自由であるとはどういうことか。自由である者とは、
殺すことも死ぬことも怖れることのない者のことだ、
自由をかけた、この闘いのなかで。


ギリシャ - コリダロス刑務所(2013年、12月)

炎上細胞共謀団 FAI-IRF 収監メンバー細胞

“Let's Become Dangerous... for the diffusion of Black International”
(BLACK INTERNATIONAL editions, 2013)
炎上細胞共謀団(希:Συνωμοσία των Πυρήνων της Φωτιάς, 英:Conspiracy of Cells of Fire、あるいはConspiracy of Fire Nuclei)は、ギリシャを拠点とするラディカルなアナキスト組織。文中にもあるとおり、ここに訳出したのは、メキシコでの国際集会にさいして、一連の闘争のなかで収監されたCCFのメンバー で結成された細胞によって書かれた声明の英訳である。なお、署名および文中にあらわれる頭文字(アクロニム)FAI-IRFは、CCF をその細胞の ひとつとして含む、Federation of Informal Anarchists International Revolutionary Front(不定形アナキスト連合-国際アナキスト戦線)の略であり、BLACK INTERNATIONAL editionsのホームページでは、FAI-IRFによるコミュニケのいくつかを読むことができる。

人気の投稿