これがすべてを変える


NEZUMI
この夏も世界は気象異常に戦慄した。この「問題」に対する見解は江川隆男『アンチ・モラリア』第七章を超えるものはなく、われわれもこれに依拠する。江川がガタリをひいて書くように自然は生に対して戦争態勢にあったのであり、気候変動は国家装置にとって絶対的な外部的な形相としてある。自然の前に人間は徹底して無能力をあらわにする他ない。いうまでもなく人間も自然の一部であるが、人間は「自由意志」の誤謬によって自然を客体化することによって「文明」を形成してきたのだが、これらは自然という戦争機械の前にはなにほどのものでもない。自然が「自由意志」の結果を滅亡させたとして、これに「報復」や「罪」という人間的な効果を見ることは誤りを上塗りするだけである。この点において気候変動と原発は同一線上にある[1]
この事態が「アントロポセン」(新人世)と呼ばれていることに対して不可視委員会は人間中心主義の無惨な拡張を見た〔『われらの友へ』〕。われわれはこの批判を支持しながらも、同時にこの「アントロポセン」的状況自体に積極的な要素を見出したい。この気候変動はまず下層人民を直撃し、動物たちを絶滅の淵においやる。ここからナオミ・クラインは反資本主義の開始をよびかけて「これがすべてを変える」This Changes Everything というのだが、われわれが同じ事態を前に同じ言葉を発したとしたら、その方向はナオミ・クラインとは逆のものとならざるをえない。
江川はペストをめぐるルクレティウスとアルトーをひきながら、後者における実在的な「無能力」(気象的な「無能力」)こそわれわれの課題となることを明言している。これは江川の別の書(『死の哲学』)からひくなら「難民の思考」となるだろうし、これこそが下層の人民と(あえて書くのだが)動物たちの武器となるだろう。この「無能力」は「崇高」論の新たな転回を必要とする[2]。それは同時にバノン=ニック・ランド的な、またはIS的な加速主義的ファシズムの終末に対抗する方途をしめすはずだ。


[1]江川隆男「虚偽としての〈原発−意志〉『歴史としての3・11』(2012)。
[2]椹木野衣の『震美術論』(2017)はこの認識を基点にすえることで重要な示唆をふくんでいる。

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