世界心中の時代


NEZUMI
先にビフォにふれた際も書いたが粉川哲夫の現状分析は常に重要である。10月の乱射事件についてはこう書かれている。「かつてHM・エンツェンスベルガーは、冷戦以後の戦争が、外部からの攻撃と反撃ではなく、「内因性の過程」としての「内戦」になることを指摘した。その流れは確実に進んでいる。そして、トランプやバノンのように、いたずらに「戦い」や「闘い」を煽ることが、そうした動向に油を注ぐ。101日、ラスヴェガスで起こった事件は、まさに、この動向がいよいよ病膏肓に入りはじめたことをあらわにする。内戦が、国内や地域「内」においてだけでなく、個々人の意識と身体の「内」でも起こり、それが、集団のみならず国家や世界をも危機に追い込み、とどのつまりは、個人の末世的な行為が〝世界心中〟に陥るという事態である。」(「雑日記」)。116日のテキサスの乱射事件もこの分析を裏付けたが、「世界心中」という言葉はそれ以上に座間のおそるべき殺人を連想させる。しかし粉川が上記をしるしたのはそれがあきらかになる数週間前のことだ。そしていま世界心中的な様相はいくらでも見出すことができるが、これはポストヒューマニズムの陰画でもある。新人世が人々をひきつけるのも、これと関わってビッグヒストリーの流行や動物と人間の境界がまたしても問題になるのも、あるいは思弁的実在論やOOOの浮上もすべて同じ事態を多極的に表現しているのである。これは法的なレベルでは死刑の問題となるが、萱野稔人は最近、驚くべき死刑論を発表した。萱野は死刑を廃止するには終身刑を死刑以上に残虐にすればいいと提案する。これは死刑の基底には処罰感情があり、この処罰感情にこたえるための代案であるらしい。いうまでもなく真に残虐なのはこのような提案を行う萱野自身である(1)。これもまた世界心中的な内戦の発現でなくてなんだろう。世界心中は死刑そのものである。あらゆる死刑的思考と闘争することはわれわれからの内戦の最初の課題である。


(1)この提案自体はベッカリーアによるもので萱野はそれを反復したにすぎなかった。これについて不勉強をお詫びする。ただしそれを認めることは萱野の残虐さが控除されることではない。(11・26に追記)

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