加速主義について


MK

10号にインタビューを掲載したギリシャの同志たちによれば資本主義が実質的に崩壊したギリシャにおいては国家が剥き出しとなっており、これとの対決においてこそ「新しい反戦闘争」が構想されているという。資本主義の終焉のプロセスがいかに過酷だとしても、それ自体が解放の契機とは無縁であることはシュトレークも指摘している。この事態は加速主義が無効であることをあかす。加速主義の過誤はその主題を資本主義にしたこと自体にある。その加速主義者の論拠とされるドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』にそ傾向があることはたしかだ。しかしそこで登場した「原国家」論はさらに高度化されて『千のプラトー』では国家装置が敵対の対象となっていることは決定的に重要である。「国家が一定の生産様式を前提とするのではなく、国家が生産を様式とするのだ」。敵は資本なのか国家なのか。これを見きわめるために、20世紀の「共産主義」の歴史をふり返るまでもないだろう。そしてこの水準において加速主義の右派か左派など問題ではない。加速主義者による国家の回避は彼らの統治の野望の表現である。ニック・ランドもスルニチェクも、結局のところ、新たなレーニンの降臨を待ち望んでいるのだ。バディウやジジェクを片手にした空想的ボリシェビキやアナルコ・ファシストもこれに唱和することになるだろう。この傾向に全面的に対決することこそアナーキーの任務である。

ニック・ランド「死と遣る」(「現代思想」20191月)に対する反証は江川隆男『死の哲学』にある。スピノザに砂漠への神を見出し、アルトーを讃えながら、道徳こそがファシズムであるところを指摘するまでは江川と共振する。だがそこまでの類似はそのあとの離反の大きさのあかしでもある。ニック・ランドは彼が依拠する『アンチ・オイディプス』におけるドゥルーズ=ガタリの「死の欲動」と「死の本能」を区別せよという基本テーゼを無視することで「恥ずべき」誤読を公然と行う。もうひとつの意図的な誤読は資本主義が相対的な脱領土化でしかありえないのにもかかわらず「資本の極限は、超越的な同一性が頓挫する地点」であるとして、これを絶対的脱領土化としている点である。これらはドゥルーズ=ガタリの初心者でさえ指摘しうる過誤だが、それをあえて行うランドの政治性はあきらかであり、そこにおいてこそ江川は「不死」と「離接」を導入したのだ。そしてここから加速主義、およびそれが内在させるファシズムとの対決が開始されるだろう。

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