『ヴィータ』という戦争機械

BB
江川隆男は〈別の身体へ〉−〈叫び−気息〉–〈記号−微粒子〉による「戦争機械としての身体」の生成を論じている(「〈身体―戦争機械〉論について」)。この先駆をなすのがアルトーだが、ジョオア・ビールの『ヴィータ 遺棄された者たちの生』もそのあざやかな実例と言えるだろう。本書はブラジルの「遺棄された者たち」の施設「ヴィータ」で人類学者ビールが出会ったカタリアという女性の生涯をたどるドキュメントなのだが、そこでまずあきらかにされるのはブラジルのバザーリア(やおそらくはガタリ)らの影響を受けた反精神医療に始まる精神医療改革が新自由主義によって絡めとられ、それによってさらに病者をさらなる悲惨へと追いやっていく実態である。そうしてあらゆる生活圏から排除されていくカタリアの軌跡は絶句する他ないものなのだが、驚くべきなのはその過程でカタリアがまさにアルトーを思わせる叫びのような言葉の断片を綴り、ついには自らに「カニキチ」という別の名前を与えるにいたることだ。ビールは書いている。(カタリアにあって)「症状は極めて重要な義肢として作用する」。「カタリアは、自分の遺棄と狂気を変性させ、歴史性を主張し、あらゆる困難を乗り越え、自分に新しい名前をつけた」。こうして「現在が闘争のさなかにあり、未完であること」があきらかになる。このカタリアの身体こそ戦場であり、「未完」である。すなわち「戦争機械」である。『ヴィータ』は統治を反統治に転換させた新たな福音であり、難民化のただなかにあるわれわれの未来である。

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