老いの反統治

老いの反統治。シャルル・ペギーが歴史の女神クリオに語らしめたのはじつにそのことであった。老いと歴史は平行線をたどりつづける。老いは出来事の特異性それじたいである。だが、老いにそむいて未来へと執着する歴史は、そこにむかうための中継点として次世代を要請する。国家装置が(再)生産をまずもって捕獲するのはそれゆえである。異性愛主義と家父長制によって組織された(再)生産の軌跡は、やがてひとつの家系へと収斂していく。その極致がいうまでもなく天皇制であり、「高齢」化した天皇の意向を端緒とする代替わりの過程は、老いに怯える統治の弥縫策にほかならない。高齢と老いは異なる。ペギーにいわせれば老いは、イエスの出来事がそうであるように「決して歴史に作り替えられることがない」永久の不和である。他方で高齢とは歴史化された(再)生産の残滓であって、その意味で代替わりは、「老いなどない、あるのは高齢=歴史だけだ」、このように取り繕う無様な調停案でしかない。天皇は老いることができないのだ。だからといってわれわれは、リベラルたちのようにアキヒト個人に同情などいっさいしない。まして善き民主主義のための根拠として天皇制を奉じることなど断じてしない。天皇制はもちろん、民主主義もしょせんは「歴史を支配する制度」にすぎない。われわれを統治のかなたへと連れ出すのは、不可逆な老いの大河のなかに顕わされる根拠なき神秘/信念mystiqueただそれだけであり、それさえあればじゅうぶんである。

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