マニュエル・ヤン『黙示のエチュード』に寄せて


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“謎のアメリカ人”ことマニュエル・ヤンの第一論集『黙示のエチュード――歴史的想像力の再生のために』は、黙示を共有化する書である。その黙示は、たとえば加速主義者たちがいだく終末論的な想像力とは全く袂を分かっている。以下の一節でじゅうぶんだろう。「資本やテクノロジーを「現代の黙示録」とみなすのはそれらの力を物神化することと同義である」(108)。じっさい、プロレタリアートの大衆知性による永続的階級闘争へあくまで根ざす本書においては、現代の原発にまでおよぶコモンズの収奪=本源的蓄積過程でこの「神」がどれだけの屍を要求してきたかが、憎悪をもって繰り返し告発される。「人よ、神をお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(189)と。それとともに本書には、黙示的想像力をこの偽りの神への信仰から奪還し、革命の火として守り抜こうとする執拗な意志が底流している。「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない」(黙示録22:5)世界。マニュエル・ヤンは、無数の友たちとの出会いのなかで、すでにそれを見知っているのだ。味わってしまった以上、追い求めるほかない。いかにぶざまなすがたをさらすことになろうとも。われわれとの交流のなかで生まれた「トーキョー日記」が巻末に付されているが、そのなかでマニュエル・ヤンはしばしば酩酊し、疲労し、弛緩し、妄想する。それは、トーキョーに、いやこの世界に生きる者すべてに共通する体験でもあるだろう。われわれはしばしば酩酊し、疲労し、弛緩し、妄想する。ひとは神ではない。意のままには、ことは運ばない。それでもなお革命的=黙示録的想像力を支えるものがあるとすれば、それは愛である。愛はすべてを信じ、愛は決して滅びない(一コリント13:7-8)。本書のひとことひとことはその証しであり、差し出される愛そのものである。

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