香港蜂起の教え

KID
「私たちは、不可能性こそがあらゆる行動の条件であるかのような世界、不可能性が可能性の新たな創造一切の条件であるような世界に生きている。これこそ、行動の逆説である。ただ不可能性のみが行動させるのだ」(ラプジャード)。このブログで先に掲載した重要なレポートが描いた行動からひと月を経て、香港蜂起はより緊迫した事態を迎えている。ある段階でこの闘争は条件闘争であることを放棄したことはあきらかである。そのとき、この闘争からは勝利の可能性もまた捨て去られた。にもかかわらず(もしくは、だからこそ)少年少女たちがはあそこまで闘った。このことにこそ決定的な何かがある。不可能性において香港蜂起は新たな未来をつくり出した。ただしこの未来は、この日々の延長としての未来ではない。蜂起という生成のみが開く別の時間性である。だからこそ「世界は滅びてもいい」と参加した若者は語っていたのだ。このブログでは先にこの蜂起を都市の崩壊を前にした脱皮の運動と捉えた。さらにこう加えなければならない。この蜂起には世界の崩壊と脱皮が賭けられているのだと。いかなる悲劇的な結末もこの蜂起の栄光を消し去ることはできない。リーダーの不在が指揮系統の不在へ結果し、現場を混乱させると日本の新聞は書く。しかしリーダーや党の不在こそがこの闘争をここまで強靭にしたことにこそわれわれは学ばなくてはならない。しかしこの強さは鋼鉄の強さではない。BE WATERという言葉が示す、流れるさるものの強さなのだ。香港蜂起は水となってこの世界を逃走させたのである。

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