「厳粛な綱渡り」 中原昌也『パートタイム・デスライフ』
NEZUMI 「いまや自分は完全なる盲人であり、聴覚さえ奪われた。自分が暗闇の無音空間で、直立したままなのか、横になっているのかさえ判っていない始末。」(「存在」『パートタイム・デスライフ』)。 中原昌也が病に倒れ視力を失ったという報は、中平卓馬を連想させずにおかない。本誌1期 14 号で論じられたとおり(「 気象的コミュニズムのために ― 谷川雁、石牟礼道子、中平卓馬をめぐって」) 、中平は、自らが予告した『写真図鑑』を記憶喪失によって苛烈に実現したことで奇跡であった。同じように中原もまた自身の小説の主人公のように「悲惨すぎる家なき子」として、あるいは「名もなき孤児」のひとりとしての「ひとつの生」を体現したのである。類似はそれにとどまらない。ブレボケから最後の異様な作品に至る中平の写真が「断片化」に賭けられていたように、中原の作品もまた「断片化」の実践として異様な輝きを放ち続ける。 作家としての中原を考えるとき、今なお(もしくは今こそ)重要なのは清水アリカによる中原論である(「絶対的窮乏化時代の散文」、『昆虫の記憶による網膜貯蔵シェルター、及びアンテナ』、月曜社)。清水は中原の作品にドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に引かれた「気狂いベクトル」における「何かが成し遂げられたかでは必ずしもなく、無関係な事柄が、とにかく噛み合って協働している」原理を見出す。「気狂いベクトル」が生み出すのは清水によれば「ある種のリアリティ」である。この「気狂いベクトル」=離接性 / 分裂性は「絶対的窮乏化」と不可分である。ハイデガーにとってリルケが「乏しき時代の詩人」であったように。中原の「貧しさ」はかつての近代文学にあった相対的貧しさ=欠如ではなく、解消されることのない絶対的な貧しさである。清水はこの「絶対的窮乏化」が「革命につながるかどうかは別の話だ」とこの論を結んでいるが、それこそが「革命」だと答えることをわれわれはためらわない。 作家によるすぐれた作家論の多くがそうであるように、これはまた自らも「断片的」な作家であった清水アリカの自註でもある。その数年後、清水は死の床に伏しながら、「廃墟と化した身体の上で、なお生き延びるためには「戦争モデル」を放棄しなければならない」と書いた。そのとき、「肝心なのは、生か死かの二項ではなく、その両者の間を生き延びる「綱渡り」...