ウィルスの独白 LUNDIMATIN

LUNDIMATIN


以下はLUNDIMATINで3月21日に掲載された以下のテクストのHAPAXによる訳である。
https://lundi.am/Monologue-du-virus(なお同サイトでも日本語訳がアップされている。)
今回の事態をめぐって様々な言説が溢れているが、いまのところこのテクストがわれわれにとって最も重要に思える。「わたしが葬り去るのはみなさまではありません。一個の文明を葬り去るのです」。


親愛なる人類の皆様、笑止千万な我々への宣戦布告はおやめなさい。復讐心に満ちた目をわたしたちに向けないでください。わたしの名前を光輪のようにとりまいている恐怖を静めてください。わたしたちウィルスは、この世界に細菌が誕生して以来、地上における正真正銘の生の連続体でありました。わたしたちがいなかったならば、みなさまが日の目を見ることはなかったでしょうし、原始細胞でさえ生まれてくることはなかったでしょう。


 わたしたちはみなさまの祖先です。サルどころではありません。岩石や海藻と同じようにみなさまの祖先なのです。わたしたちはみなさまのいるところにはどこにでも存在していますし、みなさまのいないところにも存在しています。みなさまがこの世界にじぶんに似た同胞の姿しか認めないとすれば、みなさまにとって残念なことです。それはともかく、みなさまが死に瀕しているのはわたしのせいであるなどというようなことは控えてください。みなさまが死にいたるとしても、わたしがみなさまの身体組織におよぼす影響のせいではありません。みなさまの同胞が配慮を怠ったせいです。かつてみなさまはこの惑星に生きとし生けるすべてに対して貪欲な存在でありましたが、おたがいに対しても同じように貪欲ではなかったならば、いまでも十分な数のベッドや看護師や人工呼吸器を確保していたはずでしょうし、わたしがみなさまの肺を害するとしても生き延びることができるでしょう。みなさまが両親を老人ホームに閉じ込め、健康な人間をウサギ小屋のような鉄筋コンクリート建てのあばら家に寝かせておくようなことをしていなければ、事態はここまで悪化しなかったはずです。つい最近まで草木がのさばり混沌としていた広がりには、世界中の人々が、というよりもむしろさまざまな世界のさまざまな人々が暮らしていました。みなさまはその広がりをまるごと、一個の広大な砂漠に変えてしまい〈同じ〉と〈もっと〉が支配するモノカルチャーとして利用してきたのです。そのおかげでわたしはみなさまの喉を地球規模で征服し始めることができました。みなさまの大半が前世紀を通じて、その抑えがたくも唯一の生の形態を冗長な模造品に変えてしまうことがなければ、みなさまは甘美な文明のなかで砂糖水にうちやられたハエのように死んでゆく覚悟をする必要もなかったでしょう。みなさまのまわりの環境がこれほどからっぽで隠しだてせず、抽象化されてなかったとすれば、わたしが飛行機と同じスピードで移動することなんてなかった、そう思いませんか。わたしはただ制裁を加えにきたのです。それもみなさまがはるか以前からみなさま自身に言い渡してきた制裁を。お言葉を返すようですが、わたしの知るかぎり「人新世」という名を発明したのはみなさまであるはずです。みなさまは災厄というたいそうな名誉を手にしたのです。それが成就したあとになって放棄することはなりません。一部の誠実なかたはご存じでしょうが、わたしには共犯者があります。みなさまの社会組織、「大規模」という狂気と「大規模」経済の狂気、システムに対する狂信、これらに他なりません。とりわけシステムだけが「脆弱」であり、それ以外は生きて死んでゆきます。「脆弱性」とはコントロールを目的としてその拡大・改良をめざすものにとってのそれでしかありません。わたしのことをよくご覧いただければ、わたしが権勢をふるう死神の裏面でしかないことがわかるはずです。

 だからわたしのことを非難したり責めたてたり追いつめたりはしないでください。わたしに直面して痙攣を起こし身動きできなくなってもなりません。児戯にも等しいふるまいです。それよりも生には一個の知性が内在しているという点に目を向けてみてはどうでしょうか。記憶を想起したり戦略を練ったりするのに一個の主体である必要はありません。決断をくだすために主権者である必要はありません。細菌やウィルスでさえ天候を左右するほどの強大な力をもつことがあるのです。そこで、わたしのことを墓掘り人ではなくみなさまの救世主であると考えてみてはどうでしょうか。わたしの言うことを信じるも信じないもみなさま次第ですが、わたしはみなさまには歯止めの効かなくなった機械を停止させるためにやってきたのです。みなさまはその機械の働きのなかに人質にとられているため、わたしがその働きを中断させて、「正常」なるものが常軌を逸脱していることをはっきりさせなければなりませんでした。「じぶんたちの食料や防災、じぶんたちの生活環境をよりよくする能力を他人にゆだねるとは、馬鹿げたことでした。」……「予算に限度額はありません。健康に値段はつけようがないのですから。」見てごらんなさい。わたしのおかげでいかに支配者たちが言葉と精神を乖離させたことでしょう。そうした支配者たちが実際にはどれほどペテン師と同列の下劣な存在であり、そしてどれほど傲慢な連中であるかが明らかになったでしょうか。かれらは余計ものであるにとどまらず有害な連中であることが不意に露呈したのですから。みなさまは支配者たちにとってかれらのシステムを再生産するための支えに過ぎません。奴隷以下といえます。プランクトンでさえもっとまともにあしらわれているでしょう。だからといって、支配者たちに非難の言葉を浴びせたり、その機能不全を告発したりすることは控えてください。支配者たちに怠慢であると非難しても、かれらを必要以上に招き寄せることにしかならないでしょう。そんなことより、こう問いを立ててみてはいかがでしょうか。統治されることはなぜこんなに快適であると思われていたのだろうか、と。中国の採った選択のメリットを褒めたたえイギリスの選択に反対してみたり、帝国の法律家による解決法のメリットを褒めたたえダーウィニズム・自由主義的な手法に反対してみても、どちらの選択や解決法を理解したことにもならないし、どちらの恐ろしさを理解したことにもなりません。フランソワ・ケネー以降の「自由主義者」たちは、つねに中華帝国を羨望のまなざしで見つめてきました。いまもそれは続いています。両者はシャム双生児のように一心同体なのです。一方がみなさまのためを思ってみなさま自身を閉じ込めるとすれば、他方は「社会」の利益のためにみなさまを閉じ込めるのですが、いずれにせよニヒリストにならないための唯一のふるまいはかならず押しつぶされてしまいます。ニヒリズムに陥らないためには、自己に配慮しなければなりません。それから愛するものたちを配慮すること、見知らぬものたちの愛すべきところを配慮することです。みなさまを奈落の底に突き落としたにもかかわらず、そこから救出してあげるふりをする奴らを許してはいけません。連中のやることといえば、みなさまのためにより完成された地獄を、いっそう深い墓穴をしたためておくことでしかありません。技術的に可能になった暁には、奴らは死後の世界まで軍を送って平和維持活動にあたらせることでしょう。

 むしろわたしは感謝されてよいくらいです。わたしがいなければ、いったいいつまであらゆる事柄が問われることがないまま、必然のこととしてみなされていたことでしょうか。しかしその中断は、突然告げられました。グローバリゼーション、コンクール、航空交通、予算限度額、選挙、スポーツ競技のスペクタクル、ディズニーランド、フィットネスジム、大多数の商取引、国民議会、兵舎のような学校、大規模集会、ほとんどの会社員、こうした酩酊した社会生活とはモナドのような大都市の不安に駆られた孤独の裏面でしかありません。それゆえ、ひとたび緊急事態宣言が発令されるや必要性も必然性もないものになります。わたしに感謝してください。これから数週間のあいだに真理の試練がおこなわれるのですから。これからみなさまはみなさま自身の生に住まうことになるでしょう。みなさまはかぎりない数の逃げ道を使って、成功と失敗を繰り返しながらもおおむね抑えがたいものを維持することができていたかもしれませんが、そうした逃げ道はもうありません。みなさまはこの点を理解せずにいたため、みなさま自身の実存に身を置くことができないでいたのです。それで段ボール箱にかこまれて暮らしながら、そのことを知るよしもありませんでした。ですが、これからみなさまは隣人とともに生きることでしょう。みずからの家に住まい、死に向かう途上にあることをやめるでしょう。夫のことが嫌いになるかもしれませんし、子どもに対して吐き気を催すことがあるかもしれません。不意に日常生活という舞台装置にケリをつけたくなるかもしれません。本当のことをいうと、みなさまは分離の都市のなかでは世界に存在しないも同然なのです。みなさまの世界はたえず逃げ続けるという条件でしかどんな点からみても生きてゆける場所ではありませんでした。場所を変えてみたり娯楽によって気を紛らわさなければならないほど、醜悪さの存在感はいや増しておりました。存在者たちの頂点に幽霊的なものが君臨していたのです。すべてがあまりに効率的であるために、もはや意味をもったものはありませんでした。以上のことにかんして、わたしに感謝してください。そして、みなさまが地上にいらしたことを歓迎いたします。

 みなさまは、いつまでかははっきりしませんが、もう働かなくてもよくなりました。わたしのおかげです。みなさまの子どもも学校に行かなくてよいのです。ですが、バカンスとは正反対の事態です。バカンスとは、いずれ予定どおりに仕事に戻るまでのあいだ、どんな代価を払ってでも埋めなければならない空間のことでした。そんなバカンスとは違い、いまわたしのおかげでみなさまの目の前に開かれているのは、限定された空間などではなくて、広大無辺の亀裂なのです。みなさまに暇をさしあげます。こんなことをすれば以前までの世界の欠如が戻ってくるなどというひとはいないでしょう。利益をあげることだけを目的とした不条理のすべてはきっとおしまいになるでしょう。収入がないのだから家賃を払わないのは至極当然のことでしょう。どうしても働くことができないのに銀行で支払いをする理由があるでしょうか。庭も耕せないような土地で生きてゆくのは、あまりに自殺に等しいことではないですか。お金がなかったとしても食べてゆくことはやめられませんが、鉄さえあればパンは焼けます。感謝してください。わたしのおかげで、みなさまは経済をとるか生きるかという分岐点に立つことができました。この選択はみなさまの実存を暗黙のうちに構成していたわけですが、どちらかをとるか決めるのはみなさま次第です。歴史的な賭けになるでしょう。支配者たちがみなさまに例外状態を命じるか、それともみなさまがみずからの例外状態を発明するか。白日のもとに明らかになった真実にこだわるか、それとも断頭台に首を捧げるか。わたしがさしあげたばかりの時間を使って、目下の崩壊を教訓にこれからの世界を構想するか、それとも崩壊が猖獗を極めることになるか。災害が終息するのは経済が終わるときです。経済こそが荒廃なのです。先月以前には、これは命題にとどまっていました。しかしいまや、一個の事実なのです。誰の目にも明らかなことですが、警察や監視、プロパガンダ、ロジスティクス、テレワークが必要とされるのは、その事実を抑圧するためなのです。

 わたしのことを目の当たりにして、パニックに陥ったり現実を否認したりしないでください。生政治的なヒステリーに屈してもなりません。これからの数週間は恐ろしく、みなさまを圧倒し、残酷なものになるでしょう。死者の扉が大きく開かれることになります。わたしは生産という荒廃の産物でありながら、もっとも荒廃をもたらす産物なのです。ニヒリストたちを無に帰するためにやってきました。この世の不正はこれ以上ないというほど叫び声をあげています。わたしが葬り去るのはみなさまではありません。一個の文明を葬り去るのです。生きたいと思うなら、みなさまが習慣をあらためて、みずからにふさわしい習慣としなければなりません。わたしを凌ぐことで、習慣を発明しなおしそれを新たな隔たりの技法とするよい機会となるでしょう。挨拶を交わす技法はやがて、いかなる礼儀作法としても数えられることはなくなります。その技法に制度の形態を見てとったひともありましたが、それは見当違いです。挨拶の技法は存在者たちにサインを送ります。しかしそれは「他者」なるものや「住民」なるもの、あるいは「社会」なるもののためになされてはなりません。みなさまにとってのそれらのためになすべきです。みなさまの友人や愛するひとのことを配慮してください。かれらと一緒にみずからの権限でよく考えてみてください。正しき生の形態とは何かということを。良き生からなるクラスターをつくりあげ、広げてゆかなければなりません。べつに他意はありません。規律の大規模な回帰を訴えているわけではありません。むしろ気づかいこそが回帰すべきなのです。のんきさを捨てることではなく、あらゆる不注意が終わるべきであると訴えているのです。救済はみずからの一挙手一投足のなかにこそあるのだとみなさまに思い出していただくために、わたしにほかの方法は残されていませんでした。ささいな点にこそすべてがかかっているのです。

 人間は問わずにはいられない問いのみを問うことができる。わたしはこの自明の事柄にしたがうべくしてしたがったのです。
                                     (3月31日、一部を改訂した)

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