破綻を超えて:その後の可能性について、3つの沈思黙考 フランコ・ベラルディ(ビフォ)

以下は櫻田和也氏がノートで公開しているビフォのテクストの翻訳である。同氏の了解をえて、このブログに転載させていただく。これを先の「ウイルスの独白」への「人類」からの回答として読むこともできるだろう。「人類の歴史は終焉する」。ここからわれわれの「歴史」ではない何かがはじまる。そしてこれはもはや「非常事態」ではないのだ。 フランコ・ベラルディ(ビフォ) 櫻田和也訳 2020年4月2日
*初出 2020年4月1日
https://conversations.e-flux.com/t/beyond-the-breakdown-three-meditations-on-a-possible-aftermath-by-franco-bifo-berardi/9727


不意のことではあるが、わたしたちは過去50年に考えてきたことすべて一から再考せざるをえない。ありがたくも(神とはウイルスのことか?)旧態依然としたビジネスが営業を停止して、豊かな延長時間をもらえたのだ。
ここでは3つの異なるテーマについて考えたい。その1、人類史の終焉について。それはいま眼前で明白に展開されつつある。その2、現在進行形の資本制からの解放について。かつ・または同時に差し迫る技術全体主義の危険について。その3、近代における長い否定の末(ついに)哲学的言論の場へと回帰した死と、快楽としての身体の再生について。

1.クリッターズ

第一に、現下のウイルス黙示録を最もうまく予期した哲学者はダナ・ハラウェイである。
『Staying with the Trouble』で彼女は、進化の担い手すなわち歴史の主体が、もはや男=人間ではないことを示唆する。
このカオス的な過程のなかで人類はその中心性を失いつつある。そしてわたしたちは、近代的ヒューマニズムへの郷愁みたいに、そのことを絶望すべきではない。と同時にまた、現代のテクノ人道主義や技術マニアみたいに、技術的解決の幻想に安堵を求めるべきでもない。
人類の歴史は終焉する。歴史のあらたな担い手は、ハラウェイ用語でいえば「クリッターたち」だ。このクリッターとは小さなクリーチャー(訳注:生物とは限らない)のことを指している。おかしなことばかりして変異を誘発する小さく愉快なものたち。ウイルスのことだ、といってよい。
バロウズは変異の担い手としてウイルスを語る。生物学的な意味だけでなく文化的・言語学的にも。
クリッターたちは、個としては存在しない。かれらは増殖するプロセスとして、集合的に拡散する。
2020年は、人類史が雲散霧消した年と理解されなくてはならない。地球という惑星上から人類が消滅するのではなくとも、かれらの横柄につきあいきれぬ惑星としての地球が、その「権力への意思」を打ち砕くミクロな運動をたちあげたのだ。
地球そのものが世界に反逆している。惑星としての地球の担い手こそ、洪水であり火災であり何よりクリッターたちがそうだ。
それゆえ進化の担い手はもはや、意識的で攻撃的でつよい意思をもつ人類なのではなく、もっと分子的な、コントロール不能のクリッターたちで、かれらはミクロなフローで生産スペースと言論空間とを侵食し、ヒストリーをハー・ストーリーにすりかえていく。その時間(あらたな歴史)において目的論的な理性は、感受性ないし感性的なカオス的生成におきかえられる。
ヒューマニズムはかつて存在論的自由をその基盤においた。初期ルネサンス時代イタリアの哲学者たちは、そこに神学的な決定論の不在を見出したのである。神学的決定論は終焉し、こんどはウイルスが神学における神の地位についた。
歴史的過程の動力としての主体性の終わりは、わたしたちが大文字で呼んできた「歴史」の終焉を暗示し、意識的な目的論に複数形の増殖戦略が置換されていく過程のはじまりを示唆する。
増殖という分子的プロセスの拡散が、マクロなプロジェクトとしての歴史におきかわる。
思想、芸術そして政治は(ヘーゲルのTotalizierungの意味での)全体化のプロジェクトともはや見なすことはできず、むしろ全体性を欠いた増殖過程とみなくてはならない。

2.有用性について

過去40年におよぶ新自由主義の加速後、突如として金融資本制の競争は地に落ちて中断した。1、2、3ヶ月におよぶグローバルなロックダウン、長引く生産過程の停止とヒトとモノ(商品)の惑星大の循環の中止、長期化する隔離、パンデミックの悲劇…
これらのすべてが資本制のダイナミクスを、もしかすると治癒不可能かつ不可逆なかたちで破壊しつつある。グローバル資本を政治・金融の次元で運営する諸権力は、必死の形相で経済を救助しようと巨額の資金注入は何百億か何百兆になるか、数量の意味はもはやゼロになりつつある。
おもむろに貨幣の意味は無か、無に等しい些末なものとなる。
どうしてひとは死んだ肉体にカネを与えるだろうか? 貨幣を注入したらグローバル経済の身体は生き返らせることができるのとでも?
不可能だ。ポイントはここにある。供給と需要両サイドともに貨幣の刺激に対して耐性があるということ。この暴落は(2009年みたいな)金融上の理由によるものではなく、身体そのものの虚脱によるのだから。身体が金融の刺激に反応することはない。
わたしたちは、労働・貨幣・消費のサイクルを超える閾をまたごうとしている。
ある日いつか、隔離検疫の拘禁から解き放たれたら、問題は時間と労働と収入ないし負債と返済の貸借なんかではもはやなくなっているはずだ。EUは債務残高への強迫観念で分裂し弱体化してきたが、いまや人々は死にかけて病院では人工呼吸器が尽きて医者たちは疲労と不安と感染の恐怖に圧倒されている。これを即座に貨幣で解決できないのは、それがカネの問題ではないからだ。問題は、わたしたちの具体的なニーズが何なのかにある。人々の生活に、集合的に、治癒のために有用なものとは何だろうか?
使用価値、この経済の領分から長らく追放されてきたものの帰還。有用性こそがいま王になる。
貨幣では、まだないワクチンを購入することはできない。生産が停止したままでは防御マスクを買うこともできない。ヨーロッパにおける医療システムの新自由主義的改革でとり壊された集中治療室を買い戻すこともできない。存在しないものを貨幣と交換することはかなわない。ただ知力だけが、知的労働だけが存在しないものを生み出すことができる。
ゆえに貨幣はいま無力なのである。ただ社会的連帯と科学的知性だけが生きていて、政治的な力を形成しうる。だからこそグローバルな検疫の終了後、わたしたちはノーマルに戻るのではないと考えている。以前のふつうは二度と戻らない。その後に来るべき事態は何も決定されてはいないし、予期することはできない。
政治的にはふたつの可能性に直面している。暴力を手段として資本制経済を再起動する技術全体主義システムがひとつ。あるいは人間的活動の資本制の抽象化(搾取)からの解放による、有用性に依拠した分子的社会の創造。
中国政府は既に巨大なスケールで技術全体主義的資本制の実験をはじめている。この技術全体主義的解決は、個人的自由の暫定的廃止から既に予期されているし、最近の論争的テクストでアガンベンがただしくも指摘したように、来るべき時代の支配的システムとなりうる可能性がある。
しかしアガンベンがいうのは、ただ現在の緊急事態の明白な描写と未来の蓋然的な可能性に過ぎない。わたしには潜在性の方が興味深いので、ここでは確率的な可能性を超えて考えてみたい。そして潜在的な可能性は、抽象化の破綻と具体的なニーズの担い手としての物質的身体の劇的な回帰、これらの内に孕まれている。
使えるかどうかが、社会的な領野にかえってきた。資本制における抽象的価値化過程の下で長らく忘却され否定されてきた有用性が、いま舞台の王座につく。
検疫期間中、工場は閉鎖され自動車も動き回れないので天空は澄みわたり大気中の汚染粒子も消えた。わたしたちはノーマルな公害と搾取の経済に復帰すべきなのだろうか?
蓄積のための破壊と交換価値のための無意味な加速のいつもの狂乱をとりもどすべきなのだろうか?
まさか、そうではなく有用なものの生産を基盤としたひとつの社会をつくる方へと歩みを進めるべきなのだ。
ならば今わたしたちのニーズは何だろうか?
いま即座に必要なのは、病気に対するワクチンであり防御マスクであり集中治療設備だ。そして長期的には食料、そして慈しみと歓びとを求めている。あたらしい文化、やさしさと連帯とつつましさの。
資本制権力の残骸は、社会の支配に技術全体主義システムを強制しようとするに違いない、これは明白なことである。だが今ここにある可能性は経済成長と蓄積の脅迫から自由な、ひとつの社会なのだ。

3.よろこび

3点目にわたしが省察したいのは死ぬこと、その人生を規定する特質としての回帰である。資本制は死をのり超える幻想というべき試みをしてきた。蓄積とは価値の抽象化によって、市場における人工的な生の連続性に置換する死の代用品である。
工業生産から情報労働へのシフト、コミュニケーション圏における連結から接続へのシフトは、この資本制的進化の主軸をなす抽象化へのレースの終着点だ。
パンデミックのなかでは連結すること、住居に待機して友人の訪問もかなわず距離をとり身体に触れることが禁止された。オンラインで費やされる時間の厖大な拡張は不可避に進行中であり、あらゆる社会的諸関係すなわち仕事・生産・教育が、この連結を禁じた情報圏におきなおされている。オフラインの社会的交流はもはや不可能だ。数週間ないし数ヶ月これがつづいた後には、いったい何が起こるだろうか?
おそらく、すべてが接続されたライフスタイルが全体主義的な地獄へ突入するだろうと、アガンベンは予期する。だが異なるシナリオはありうるのではないか。
もしも接続過多が呪縛を解き放てばどうだろうか?
パンデミックがついに霧消したとき(それが起こりうると仮定して)オンラインを病いに等しいものとみなす、あるあらたな心理的同一化が生じうるのではないだろうか。わかい人々に孤独を思い知らせ恐怖の時間をもたらすスマホ画面などを切断するように、つつみこむような運動もまた想像・創造されなくてはならない。これはなにも産業資本制の身体的疲労に戻るべきだというのではない。むしろオートメーションが肉体的労働から解放した時間の豊かさを今こそ享受して、わたしたちの時間を身体的・精神的よろこびのために充てるべきだというのである。
パンデミックのなかで目撃している大量の死のひろがりは、時間というものを歓びの先延ばしではなく、もしかすると楽しみとしての時間感覚を再生するかもしれない。
パンデミックが終わり長期間の隔離の終了時、ただ人々は距離をとりつづけて技術全体主義的統合の、永久につづく仮想的接続の無のなかに沈みつづけるかも知れない。その可能性は、潜在的にも蓋然的にもありうる。だが可能性を確率の内に閉じ込めるのではなく、わたしたちは現在に隠された潜在性を見出さなくてはいけない。
恒常的なオンライン接続の数ヶ月が終了したあと人々は、結合を求めてかれらの住居からアパートから繰り出すことも考えられる。接続的独裁からの解放にむけて人々をみちびくような、連帯とやさしさの運動も起こりうる。
死が、風景の中心に帰ってきた。長きにわたり否定されてきた、死ぬこと。それが人を生かすものとなる。

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