「いのち」のコミュニズム

以下は先に公開した「谷川雁の「ふしあわせ」なコミュニズム」の続稿である

 NEZUMI

 

水俣病患者認定闘争を中心的に担っていた緒方正人は、1985年、自ら「認定申請」をとりさげその闘争から降り、やがて「チッソは私である」という覚醒にいたる。これについてわれわれは以下のように書いた「近代をもとめつつ近代の拒むという分裂の根源にむかったがゆえに緒方は発狂する。その果てに『いのち』が見出され、『チッソは私であった』と思い知る」(「HAPAX2号)。しかしこの要約では緒方の闘いをとらえきることはできない。緒方がおそれたのは「責任というのが、制度化されてしまう」(『チッソは私である』)ことであった。そのため、「『加害運動』に対して被害者の側から『救済』が要求され、それを支える『支援運動』があり、どうも『救済の権利』という捉え方に避け難く変化してきたのではないか」。緒方は「権利ということに対して疑問をもっていたんです。『権』というのが好かんとですよ、なんでは。これは自戒でもあっとですけど、人間はどうしても権化しやすい」とも語る。緒方が闘争を降りたのは闘いを放棄したのではなく、逆に「終わりのない道を選ぶ」ことであった。そこで狂気のときに見出されたのが「いのち」である。古賀徹は『理性の暴力』でこう論じた。「緒方は加害−被害という交渉の外部枠組みにしたがってかつては相対を位置づけていた。しかしながら川本(輝夫)との決別以降、被害の立場からチッソを糾弾する彼自身の枠組みが崩壊する。緒方はその崩壊経験を通じて、強制的かつ全面的に自分のうちに侵入してくる自然、つまり区別しようもない存在者の総体を発見したのだということができよう、こうして発見される自然との応答の次元に緒方は『いのち』ないしは『いのちの別名』としての『魂』を位置づける」。

山谷のある活動家は以下のように書きつける。コロナ第一波に対する行動の報告である。


こういった情勢で、私達は炊き出しをそれまでの週一回から週六回に増やした。もちろん これは世間の流れには逆行している。緊急事態宣言の下で、毎朝120人前後の野宿者かあつ まり飯を食う炊き出しを週6日間(土曜日たけは炊き出しナシ)続けるのというのは、なかなか議論を呼ふところだと思う。やはり人か集まるのはコロナウィルスの感染の危険を考えると危険だし、野宿の人は高齢で基礎疾患を持っている人も多い。 炊き出しを極端に増やした理由は、単純に野宿する人々を支えたいということなんだか、もっとはっきりいうと、野宿者か生活保護を受けることを防きたいということだ。誤解のないように急いて言うと、山谷およびその周辺では、再開発か進む中、役所は野宿者に生活保護をとらせて路上や公園から一掃しようとしており、とろうと思えは誰でも生活保護は取れる状況にある。逆にいうと、今、路上で生きている人たちは、一定の確信を持って野宿をしているということだ。「体か動くうちは自分の食い扶持くらいは自分で稼ぎたい」「役所の世話にはなりたくない」などなどいろいろな言葉で表現されるか(もちろん大部分の野宿者は表現なとしない)、そこには、原始的な反権力性というか、制度の中に組み込まれそのオコホレをもらうことを身体として拒絶するというのかある。(向井宏一郎「アナキズム」202010月)

 

これを書いたのは多くの労働者が野宿をしていた台東区と墨田区では当事者が路上から生活保護を申請することまで拒まれていたのに対し、これを認めさせた闘いをすすめてきて、現在も生活保護の集団申請をすすめる当の本人である。この発言は生活保護への行政と右派からの攻撃に加担するものとして「運動」からの非難にさらされるだろう。しかし生活保護において真に「保護」されなけばならないものもこの文章は照射しているのだ。ここにあるのは緒方と同様の「制度」と「責任」の回路が形成する公理系からの離脱をめぐる問いであり、「原始的な反権力性」において向井もまた「いのち」を見出したのである。これがコロナという生命と自然を問い返す事態の闘いから生み出されたことを注視しなければならない。ニューヨークの「底辺の底辺」ブロンクス、あるいがブルックリンのブッシュウィックではコロナ以降、相互扶助が組織され、これがジョージ・フロイド虐殺への反攻=蜂起の基礎となっていることが報告されている。その規模と衝撃では比較すべくもないが、山谷の闘いは北米のジョージ・フロイド反乱と同期している。

「近代法の中に刑法があるかぎり、死につつある患者たちの呪殺のイメージは、刑法学の心情を貫いて、バビロニアあたりの同態復讐法へ先祖返りするのもいなめない。/自然死ではない死を遂げる場合、下層民たちの大部分の死はなぶり殺しであって、「法の下の平等」どころか、法の見捨てるところにおいて平等であるという歴史的実感をえて、これをひきづりながら、第一次水俣病患者たちは訴訟に踏みきったのである。」(石牟礼道子「復讐法の倫理」)。臼井隆一郎はバッハオーフェンの母権制論を召喚しながらこの同態復讐が古代的な血の論理であることをあきらかにした(『「苦海浄土」論』)。臼井によれば水俣闘争とはこの同態復讐による狂気の闘いであった。向井が現場とする山谷の今日にいたる闘争の起点である山谷現場闘争委は「やられたらやりかえせ」をスローガンとしてきた。下層労働者にとっても「大部分の死はなぶり殺し」であり「法の見捨てるところにおいて平等である」から、この共通性は歴然としている。そしてこの同態復讐(「やられたらやりかえせ」)こそつねに「反攻」としての政治の基本だった。そしてこの同態復讐は「近代法」の中の「刑法」とはまったく次元を異にする。

ドゥルーズは「裁きと訣別するため」で法=裁きに正義を対置した。正義とはまずなにより残酷のシステムである。「そこに裁き=判断力に対立する一つの正義が存在し、その正義によってさまざまな身体がたがいに刻印をしるし、一つのテリトリーの内部で循環する有限なブロックにしたがって、負債は身体にじかに書き込まれるのだ」。ドゥルーズによれば裁きはこの負債が無限に繰り延べされることから力をえる。臼井のように同態復讐に法の根源を見るのではなく、同態復讐は法以前への遡行ととらえることができる。もしくは同態復讐は法の起原であると同時に反起原である。「神話的暴力は犠牲を要求し、神的暴力は犠牲を受け入れる」(ベンヤミン)。谷川雁は石牟礼を神話的であると批判したが、石牟礼の闘いは病いをなきものにするための闘いではなく、病いを刻印するための、身体を肯定するための闘いであり、そうであるなら「犠牲を受け入れる」ための闘いであり、「神的」である。同態復讐は決して成就することはないだろうが、その闘争それ自体によって正義である。だからこそ緒方は「こちらが最初から勝っとった」というのである。これは石牟礼や緒方の闘争についてだけ言われるのではない。「犠牲」とともにはじまるあらゆる闘争の原理である。

「われわれは公理レベルでも闘争は重要ではないといっているのではない。反対にそれは決定的なものだ。…またこれらの闘争が、同時に存在するもう一つの闘争の指標であることを示す兆しも存在するのだ。要求がいかに些細であれ…その要求は公理系が許容できない一点を提示している」(ドゥルーズ=ガタリ)。これは公理系の側からとらえるなら、数えられる集合は必ず数えられない集合を生み出すということであり、これは「決定不可能命題」と呼ばれた。この公理系が許容できない」「決定不可能」なものこそ緒方が「いのち」と名づけたものであり、われわれが「コミュニズム」と呼ぶなにものかなのだ。ドゥルーズ=ガタリはふたつの闘争、もしくは闘争の二重性を論じるが、公理レベルの闘争が「もうひとつの闘争」を抑圧することもある。緒方が、あるいは向井が逢着したのはこの事態に他ならない。90年代以降のNPO化がしめすのは闘争における公理化の制覇であった。そして現在の闘争は資本や警察との攻防より前にこの公理系をめぐる闘争として立ち現われているのである。釜のセンター前の攻防にあたって左派組合とそのNPOが立ちはだかったのはその端的なあらわれである。

コロナ禍の直前に刊行された12号においてわれわれはファシズムを「文明の死」と並行する「人間の死」への反動として論じた。ファシズムとはニヒリズムの極限を「人間」の絶滅=ジェノサイドへの欲動として表現したものに他ならない[1]。コロナ禍という「文明の死」の前景化とそれにともなう生政治の変容がトランプ、安倍たちのジェノサイド路線を無効化した。この過程でトランプ、安倍、維新の会といったファシストたちがいったんは退場していったが、これがリベラルの再興を意味するものではないこともまたあきらかである。かわってあらわれるのはアガンベンが「共産主義的資本主義」と名付ける中国的な管理社会である。最悪の共産主義と最悪の資本主義の結合が生み出す「幸福な監視社会」。これも生を封じ込めて絞殺するという点でジェノサイドの別の姿なのである。

それらを予言するかのように谷川雁は1964年、「わが組織空間」で資本主義の極限にあらゆる抵抗もすべてのみ込む世界統一権力を構想した。これは「帝国」であり、同時に「装置」である。この先にあるのはたとえばハラリが『ホモ・デウス』で予見するような世界と同じものだ。だが「世界統一権力」のプロセスはそのまま「文明の死」のプロセスでもある。石牟礼道子たちが予感したのはこれである。『苦海浄土』の連載が開始されたのは「わが組織空間」が書かれた翌年だった。石牟礼や緒方の問い、あるいは山谷をはじめあらゆる場で試みられている反制度的な闘争は「文明の死」と「人間の死」以降の生を、そして法ではない正義=「いのち」を到来させているのである。



[1]現在のファシズムを考察する上で最近上梓された杉田俊介の『人志とたけし』は重要な示唆を与える。これはなによりファシズム論として、ニヒリズム論として読まれるべきである。杉田によればそもそも芸人という存在がこの社会を象徴する役割を担うこと自体が、現在のスペクタクル化の端的な特徴なのだ。ここに孤独に君臨する松本とたけしはともにある種の「超人」である。タナトスに憑かれたたけし、無能でありながらその空虚さによって権力を肥大させる松本、このふたりは「日本のニヒリズム」の双面である。とりわけ徹底した空虚に居直りつづける松本のニヒリズムをえぐる杉田の論述は感動的ですらある。「松本人志にとっての笑いとは「私は神だ」と宣言するための笑いであり、悪意と嘲弄に満ちた無邪気な神々であることを偽装し続けるための笑い、自称天才が下々の愚かな民ども=うんこちゃんを翻弄しつづけるための笑いなのである」。松本こそ、この国の無底の鏡像である。杉田の議論を拡張するなら、松本は「絶滅」を、たけしは「消滅」を体現、もしくは予示しているのだ。

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