中平卓馬、記憶喪失のコミュニズム 江澤健一郎『中平卓馬論』に寄せて

NEZUMI

                                                       

中平の軌跡は以下のように要約される。「ブレボケ」写真によって衝撃を与えた写真家は73年「なぜ、植物図鑑か」というテクストで「ブレボケ」を自己批判して、「植物図鑑」の視線で写真をとることを宣言、その数年後に記憶喪失にたおれたが、復活して「伝説」と化した、と。江澤は『中平卓馬論 来るべき写真の極限を求めて』(水声社)においてこの中平を論じながら、「来るべき民衆」、すなわちコミュニズムを探求した。本稿はこの書に潜在するコミュニズムをつかみだし現在のためにそれを拡張する試みである。

中平の軌跡は1968年の蜂起が発した問いに同期して、これを誰よりも苛烈に引きうけた者のそれであり、それゆえそこには1968の極限が賭けられている。では68の問いとは何か。「1968年は起こらなかった」でドゥルーズはこう書いた。「重要なことは、六八年五月に、ある透視力が出現したこと、この現象である。つまり、ひとつの社会がそこに含まれている何か耐えがたいことを突如として見いだし、さらにはそれとは別の可能性をも見いだしたということである」。これは『シネマ2』における「時間イメージ」への転換、すなわち「感覚運動図式の崩壊」である。ドゥルーズはこれを第二次大戦における転換として描いたが、その基底には68の経験があったことは疑いがない。「何か耐えがたいことを突如として見いだし、さらにはそれとは別の可能性をも見いだした」こととは「出来事」そのものであり、これは切断であった。ガタリはこの革命的状態を「機械が構造にさきだつ」事態であると定義した。「ダイアグラムとともに、分裂革命的な構築主義が得られることになる。内側から穴を開けられたイコンを土台とした新しいエクリチュール。すなわち破棄の欲望」。「すべてはダイアグラム的生産によってベクトル化されるだろう」(ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』)。機械とはダイアグラムでもある。ダイグラムは「権力を構成する力関係の表出」としてあらわれる。言表と可視性の作動配列が権力の配置を、もしくは配置としての権力を規定する。68は例外状態を出現させて統治そのものをゆるがし、そこでダイアグラムを露呈させたのである。図式の崩壊は図表(ダイアグラム)をあらわにする。この断絶が68のすべてである。

中平卓馬の「ブレボケ」写真とはこの断絶であり、写真集が『来るべき言葉のために』と題されたことにしめされるように中平はダイアグラムがあらわす事態、すなわち言葉と見えるものの分裂、そしてそれを実現しそれによってあらわになる力に対してきわめて自覚的であった。「だから1枚の写真はもはや表現ではない。それはすべての形容詞を拒絶してぼくたちに問いを発し続ける一つの疑問形の現実なのだ」(中平)。江澤によれば「彼にとっての記録とは、自己の外部世界の記録であると同時に、カメラをかまえる自己の記録、生の記録なのだ」。この記録自体がコミュニズムである。「それらの写真は、撮影者が主体性を喪失して、一人称を剥奪され、非人称化して無名化していく過程の記録」であり、「(写真を見る人々も)複数の他者たちの集団性、共同性へと開かれていく。こうして招来されるのは、来るべき民衆である」からだ。

このブレボケの地平において中平は永山則夫の見た風景を撮る足立正生・松田政男の『略称連続射殺魔』とともに出現した風景論にコミットした。「中平さんをはじめとして、松田政男などとわれわれは風景論を語った。この柔構造社会の反映として、限りなくたちはだかって来る情況の風景について、われわれが革命兵士たろうとすれば、その風景を「海」として「魚」のように溶け込み、風景のなかを泳ごうと言った。その風景のなかから立ち上がってくる生命の言葉を中平さんは語った。松田政男は、権力の風景について、国家の反映した姿としての『風景の死滅』を求めて闘争宣言してきた。そして、われわれはその風景論について語ることすら、エピソード化されないためにメディア論を確立すべきだと考えつづけた」(「メディア論への解体プラン」)。足立正生が1974年に中平にこう語るように風景論は定義することが困難であり、それゆえにいまだに重要である。この理路を革命の問いとして描いた平沢剛の論考(「風景論の現在」)がしめすとおり中心的な論者である松田政男においてさえ風景論が示すものは変容しつづけたが、これは風景そのものに由来する。その初期、松田は「全空間は敵によって占拠されている」と書くシチュアシオシストに同期するように「国家=権力論」としての風景を論じた。しかし左派の主題が「何処にも無い場所としてのユートピア」への志向にかわって「何処にでもある場所としての〈風景〉」に対する反攻への移行として論じられる時、「風景」は資本主義論をこえて「存在」以前をさししめしているように見える。つまるところ「風景」とはそれらすべてにおいてダイアグラムである。「都市は「風景」そのものなのだ。…そして夜、都市はあらゆる夾雑物をぬぐい去り、ほとんど完璧な美を獲得する。…だが、まさしくそれ故に、この敵対する「風景」にはぼく自身の手によって火が放たれなければならないだろう」(中平「風景への叛乱」)。

1968的な「犯罪」として足立正生、松田政男らは金嬉老の寸又峡の「計画的な蜂起」ではなく、永山則夫による連続射殺魔を選んだ。金嬉老の蜂起の第三世界革命的な先駆性はあきらかであり、それゆえサルトル主義者でありファノンの翻訳者である鈴木道彦らがその支援に加わった。しかし足立たちにとっては永山の無意識が重要だった。「私は、彼の悪の唯一性を受けとめるべく、私の唯一性と通底し得る映像=風景を選びとった」(足立正生「〈連続射殺魔〉への架空の質問」)。この映画において人間もまた風景であり、風景とは断層であり断絶である。そしてこの断絶=裂け目はプロレタリアとプロレタリア化されない下層民にとっての境界でもあり、フーコーによればこれこそが統治の基礎をなしていた。すなわちこの裂け目は資本と法=権力の双方にとっての境界である。永山則夫はこの裂け目=境界を彷徨し、これに銃弾を放ったのである。永山則夫をモデルにしたもうひとつの映画『裸の一九歳』を批判して平岡正明はこう書いた。「新藤兼人が少年の反抗の理由を、なにごとかの因果関係をば誠実に、粘り強く追求している点が倒錯であるとわたしには思われた」。永山の孤独にはその幼少期の苦境があり、そこをつかまえる足立や松田は第三世界論的な「因果」はあきらかであった。しかし犯罪はそこからの「断絶」でもある。「風景とは根源的なものなのだ。…いまにもおそろしい風景がおそろしいわけではない。絶対値・風景が無条件におそろしい」(平岡「風景のある風景」)。「風景」とは絶対値、すなわち「強度ゼロ」である。江澤によれば「中平の写真は、その風景を不鮮明化して、不安定化し、微粒子化していく」。

中平はこの裂け目をブレボケ写真において発見しながら、これを苛烈に自己批判して、「植物図鑑」へと写真を転換させることを宣言する。この転換は68の命運そのものが賭けられていた。1972年から73年にかけて68的なすべてに転換が問われた。それを悲劇的に象徴したのは連合赤軍の内部粛清と銃撃戦である。この衝撃を受けて国内の赤軍派は諸派に分裂したが、そのほとんどがこの悲劇を急進主義の敗北として古典的なプロレタリア革命路線へと回帰していった。転換したのは赤軍諸派だけではない。連合赤軍事件を境に政治闘争は後景化し社会運動が「革命的」意義を担わされていった。かわりに政治は「内ゲバ」と呼ばれる党派闘争によって代補されることになる。しかしここで起こっていたのは本質的には政治闘争から社会運動への転換にとどまるものではない。世界を壊乱したことで68が「ある透視力」を与えたとしたら、それはそれまでの勝利/敗北そのものを破棄し、政治そのものを定義し直すことであったはずだ。これをドゥルーズは「統一」にかわる「分裂」への移行として論じた。「もはやプロレタリアートによる、団結し、統一された民衆による権力の奪取がないだろう。第三世界の最良の映画作家たちは、ほんの一瞬それを信じることができた。……しかしこのような側面において、これらの作家たちはまだ古典的な発想を共有していて、移行過程は実に緩慢で、知覚しがたく、まったく特定するのが難しいのだ。意識化というものに弔鐘を鳴らしたのは、まさに民衆は存在せず、いくつかの民衆が、無数の民衆が存在し、それらが統一されないままであり、問題が変化するためには、統一されてはならないということの意識化なのである。…現代の政治的映画は、この断片化、この分裂の上に構築された」(『シネマ2』)。これは世界的な革命の前線がベトナムからパレスチナへと移行したことにもかかわる。前線の地理上の移動ではない。前線は領土から土地なきゲリラ戦へと移行した。パレスチナとは「永遠の移民の時間的分裂症がその後を継いだ空間的分裂症」(ヴィリリオ)の闘いだからだ。これらはすべて中平の転換にかかわる。だがブレボケはすでにダイアグラム的であり、「統一」などとうに捨てられていた。しかしなおその移行はまだ「思いつきであるにすぎ」ず、「明確化するに至らなかった」。それゆえ「私による世界の所有を強引に敢行しようとしていた」と中平は総括する。風景を撮るのではなく、風景そのものになることが68的な問いに対する中平の回答であった。このとき、「世界は解体した断片として、まさしく裸形でわれわれを襲う」。江澤によればこの移行は「風景から物質へ」の転換でもある(注)

「分裂」は中平にとって「図鑑」として表現された。江澤によれば「図鑑的写真は、唯一無二の特異性を提示する」。同時に「図鑑性」は「複数性」を意味する。「中平が図鑑的な複数性として写真に要請する」のは「等価な並列」であり、「それらのあいだには時系列性も、説話性も、位階性も介在しない」。「その断片的多数性は、閉じた全体を形成することなく、際限なく再編成される開かれた全体、終わることなき未完の全体を生じさせる」(江澤)。これは離接的総合、そして分裂的総合そのものであり、無限判断がそこに開かれる。「図鑑」が新たなダイアグラム(図表)をしめす。「図表は、単に地層化の二つの形式を外在的に関係づけるだけではなく、図式論がもつ受容性に対する自発性の優越性を解体しつつ、両者間の新たな関係を逆-図式的に創出するという意味で実に価値転換的である」(江川隆男「ディアグラムと身体」)。「自発性」を解体し「受容性」に視線を委ねることこそ以降の中平にとっての主題である。中平にとって主語は私ではなく「世界」となる。「ブレボケ」はダイアグラムを発見させたが、ダイアグラム自体が図式の転換を要請した。これは権力との抵抗の戦略そのものの、そしてコミュニズムの転換を意味する。この転換の格闘は『決闘写真論』に凝縮されている。「とりあえず私は、写真を意識とそれを乗り超える世界との拮抗にかかわるものとして捉えている。意識を挑発し、攪乱する者としての写真。一本の樹、一枚の石壁へのクーデター。一本の樹、一枚の壁から私へのクーデター。」「写真家にできることは、世界に、現実に、問いを発し続けることだけである。「なぜ?」しかし写真家は決してその問いにみずから答えることはできないだろう。答えはわれわれではなく、世界の側が持っているのだから。その時、現実、ものはまったく異なる光の中でものの言葉で語り始めるのではないか…現実の数々は自己自身を炸裂させるだろう」。江澤によれば「そのとき、既知の遠近法は崩れ去り、見る「私」の主体性は解体される。中平は、この本でそのような主体の崩壊による「受容性」「受動性」を苛烈に要求していた」。江川のいう「逆-図式」を中平は倫理として引きうけた。「風景への叛乱」は「風景からの叛乱」にかわる。

この「決闘写真論」の刊行とほぼ同時に中平は酩酊の末、昏睡状態に陥り、記憶を失う。江澤は中平がブレボケの時代にレネの『かくも長き不在』にふれて記憶喪失を写真家のモデルとして論じていたことに着眼した。「(記憶喪失において)写真は…複数の他者たちの集団性、共同性へと開かれていく」。それを実現するように中平が記憶を喪ったとしても「彼の病を特権化」してはならないが、「主体の崩壊による「受容性」「受動性」」の「苛烈」な要求に中平の身体が応えたことはたしかである。中平の軌跡は「病」とは何かをも根底から問いかける。「だが彼はじつは写真を撮るたびに記憶喪失者に「なって」いたのではないだろうか」。中平は記憶喪失者へと生成した。「記憶喪失への生成」、それはなにより徹底した無能力への生成である。これ以降、中平はマイノリティへの生成変化を「撮影行為」として実践する。「非人間的な知覚」をしめすものとしての「写真」の極限がきわめられる。被写体は第三世界としての「子供たち」へ、そして「動物たち」、「睡眠」する人、「路上生活者たち」へと移行する。それだけでない。「被写体をクローズアップしながら、裁ち落としのフレーミングによって大胆に切断して、断片化する。…「これ」は…「これならざるもの」になるのである」(江澤)。「タケノコ」は「そのタケノコ」が存在する場そのものを断片として提示する」ことになる。「「A+B=C」というよりも「AB=?」という不可思議さへと地滑りを起こし、読解可能な知の営みは、無効化されて崩壊せざるをえない」。「事物の視線」はもはや問題にはならない。すべての事物は身体であり、インゴルドにならっていえば事物=対象なき世界が開かれるからだ。インゴルドはこれを気象と呼んだ。中平が記憶をとどめるための日録は天気の記述にあふれる。記憶なき写真において「私」は消失し、これを見るものもまた「記憶喪失」へと生成する。この二重の生成変化においてこそ「来るべき民衆」が到来する。「大地のコミュニズム」の果てのない抗争から断絶された「大気のコミュニズム」。これが新たな政治のはじまりである。そしてこれは68が発した問いへの身を賭した回答であり、さらなる問いでもある。これを実践的に再定義することがわれわれの課題となるだろう。

もう一度、江川隆男を参照しよう。江川は旧来の「大地」にはじまる思考を気象的に「大気」からはじめる思考へと転換すべきことを提起している。それにあたって江川は気象哲学が三つの時間の総合からなると論じた。ひとつは終末論的な時間であり、第二は〈雲−カオス〉の脱地層的にしてルクレティウス的時間、そして第三は原子なきクリナメンの時間である。この三つの時間は中平の三つの次元に対応する。大地からの逃走としてのコミュニズムがあり、次に分裂的な「図鑑」のコミュニズムがあり、最後に非-戦闘としての大気のコミュニズムがある。これらは風景、事物、気象である。すべてを規定するのはこの三つめの時間であり、「来るべき民衆」はこの気象的コミュニズムにおいてこそ招来される。これは「自然に内在し直す」ことでもあるのだが、この「自然」とは非共可能的なもの、分裂的なものである。これらすべては記憶喪失以降の中平の写真が生成させているものだが、それを導いたのは中平の苛烈な問いである。江澤の書はこれらをあきらかにした。

 

(注)

ゴダールは68年、ジガヴェルトフ集団を結成し、70年、パレスチナへ向かう。しかしPLOとの共同製作による『勝利の日まで』は完成させることができなかった。足立正生によれば、70年におこったパレスチナ人虐殺事件「黒い九月」へのアラブ諸国およびPLOの政治のためである(「ゴダールの書かなかった遺書『こことよそ』を見る」「文藝別冊 ゴダール」)。そしてこれは75年に『こことよそ』として再編されて完成させられる。「こことよそ」、離接による「人民の不在」を発見することがゴダールにとっての68の総括である。79年に商業映画に復帰したゴダールはこの「こことよそ」を今に至るまで反復する。足立正生は71年、「風景論」の展開として『世界戦争宣言』をつくり、赤バス隊で全国上映運動を行った後、日本赤軍へ合流した。そして77年、日本赤軍はダッカ空港でのハイジャックによって政治犯とともにいわゆる一般刑事犯を奪還する。これが『略称連続射殺魔』への総括である。これらの軌跡は中平という線とあざやかに並行している。足立の作品もまた中平との並行において論じることができるはずだ。以上の論点、および本文はHAPAXの鼠研究会のテクストからの参照を含んでいる。これらは誌面での掲載時に詳細な注とともに加筆される。

 

 

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