江川隆男『残酷と無能力』をめぐって  アルトー的闘争のために

鼠研究会

 

精神を発明したのは存在たち、極微動物だが物体ではない存在たちだ、なぜなら精神はそいつらにそっくりだったから。(「カイエ」)

 

創造といったものについては/私ではなく、精神どもがでっち上げた欲求なのであって、/存在たちは私をうんざりさせる (同)

 

アルトーの「カイエ」や「手先と責苦」にはこのような「存在」への敵意が満ち溢れている。カトリックへの特異な帰依とそこからの壮絶な離脱を経てアルトーには「存在」が敵としてせりあがってきた。「思考の不可能性」が主題化されていた前期アルトーと後期アルトーの際立った違いはそこにこそある。

では敵たる「存在」とは何か。同一化であり、根拠であり、すべての有機性である。そして「裁き」である。存在とは全体化であり、これと敵対することは断片化であり、非全体化、非同一化である。これは文体と構成の変容としてもあらわれた。「ヘリオガバルス」の古典的な構成と文体は放棄され、すべては断片化して非論理をきわめる。書くこと自体が有機性へのたえざる「訣別」である。これに対する闘争こそが「政治」であり、「存在以前の政治」なのだ。では何が「存在」との闘争を強いるのか。「身体」である。

 

いいや、事物は、無から発して厚みを帯び、存在にまで寄り集められる無限小の精神に由来するのではない。/それらは存在する身体に由来するのであり、その身体は何から何まで

虚無そのものから引っぱり出すのだ/その息吹でもって/その身体が手でこしらえた、いくつもの身体や物体や事物を。(「カイエ」)

 

アルトーが「器官なき身体」という一言を発したのはただ一度だけだが、身体の底にある「虚無」については幾度も書き記した。

 

すなわち身体が反乱を起こし、/生命の(緊張の)/より強い/炎に向かって/激化する/きらめきが/戻ってくる。/すべての奥底に/虚無。(「手先と責苦」)

 

最後のアルトーは「空間」「時間」「存在」などのすべてを連祷のようにあげて、「こういったものは私にとってなにものでもない」と記した。ただ「ひとつの身体」がある。

 

2 

江川隆男の全哲学はこのアルトーと共振するただ一つの比類なき思考であり、「身体の反乱」である。『死の哲学』は「反実現」の哲学としての『存在と差異』をふまえた最初のアルトー的闘争である。「『死の哲学』の問題は、こうした人間の本質とその存在との総合を、すなわち本質の変形とその存在の仕方との間の共立不可能な関係として離接的に描き出すことにあった」(「残酷と無能力」)。アルトーにおける「存在」との敵対は、江川にあって「存在」と「本質」の「共立不可能性」とされる。これを導くのが「無能力」であり、これに対応する情動としての「残酷」である。まず「存在」と「本質」の分裂があり、その底に「器官なき身体」が発見される。「器官なき身体」とは強度ゼロであり、すべては強度ゼロへの落下=「死への生成」である。「身体」は分裂­=「同一性障害」において、「死のモデル」なのだ。江川(ドゥルーズ=ガタリ)の「身体」は現象学的な「生きられた身体」などあらゆる身体と絶縁している。「死の哲学は、こうした消滅、死、落下、減少過程を思考の対象性にしなければならない」。そしてこの「身体」はアルトー的に「不死」である。「同一性障害」とは「不死にいたる病」の症例であり、「別な身体」への移行=身体の生成変化において、身体は死ぬことはできないからだ。

 

「器官なき身体は産出の原理であるが、〔…〕それ自体は純粋強度、あるいは〈強度ゼロ〉である」。『アンチ・モラリア』において「器官なき身体」は産出の原理となった。「分裂的総合は、それゆえ自己の存在と本質についての徹底的な異和の感覚に内在しつつ、その〈存在の仕方〉と〈本質の変形〉とを総合しようとする努力である」。『死の哲学』で見出された存在と本質の「分裂的総合」は『アンチ・モラリア』で高次の「分裂的総合」へと変異する。「新たな観点から考察された非共可能性と実在的区別との内的総合をここではとくに〈分裂的総合〉として論じることにする」。器官なき身体は非共可能的なものの集合を、それに実在的に対応するものとしての実在的区別へと生成させる。非共可能性はそれ自体で永遠回帰を表現するが、これは身体の逆行的過程によって実在的区別へと移行されるのだ。『アンチ・モラリア』は並行論/様態論によって厳密にこの道筋を描き出す。スピノザにあって属性間の区別としての実在的区別は与えられたものであったが、江川はこれをドゥルーズ=ガタリを深化させて産出されるべきものとした。スピノザの「切断」に対する、江川(ドゥルーズ=ガタリ)の「切断/結合」。ここにおいて、実在的区別とは「一方のものが他方のものの助けなしに考えられ、また他方のものの助けなしに存在するものの間の区別であり、さらには、結びつきの不在のもののあいだで結びついているものの間の区別である」。これは機械である。アルトーは「髪の毛一本にいたるまですべては炸裂する秩序に整えられなくてはならない」と書いた。『アンチ・モラリア』とは江川による「炸裂する秩序」に他ならない。そしてこの実在的区別をうみだすこと=「切断」と「結合」とはそれ自体、「別の身体」への移行である。

この『アンチ・モラリア』のいくつかの主題は二〇一九年の『すべてはつねに別のものである』では「副言論」として展開された。しかしそれは前著の部分的更新ではない。『アンチ・モラリア』を戦争機械として高次化する闘争である。「副言」の非論理において「共立不可能性」は「存在」と「否-存在」に抗する「分子的に非共可能的な〈部分-生成〉からなるような〈非-存在〉」(「現前と外部性」)の生成の様相として更新される。〈部分-生成〉としての〈非-存在〉は同書で新たに発見される「決定不可能」に対応する。「決定」「不可能」の外部にあって「決定不可能」はシステムから逃れる無媒介性であり、「切断」である。「決定不可能性なものはとりわけ革命的決定因の萌芽や場である」。このドゥルーズ=ガタリのテーゼはここで決定的な位置を与えられる。システムは必ずシステムを逃れるものを生みだす。これは存在と本質の分裂による同一性障害からの帰結である。『死の哲学』ではこう宣言された。「われわれは〈破砕〉しなければならない」。破砕とはなにか。同一性に亀裂を入れて分裂させることであり、断片化することである。「〈部分-生成〉からなるような〈非-存在〉」とは断片化である。断片化は切片化の対極にある。破砕は「存在」と「本質」の切断である。そこにあらわれる「結びつきの不在による結びつき」、これが江川による機械の定義であり、そこで身体はダイアグラムとなる。これらもまたアルトーの闘争であった。

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生成の哲学は生成/消滅の哲学でなければならないと江川は語った。『残酷と無能力』において『死の哲学』は「死の系譜学」「残酷と無能力」、そしてこれをめぐるテクスト群とともに生成/消滅の哲学として回帰してきた。そしてこの時、「死の哲学」は気象と感染の哲学へと再生させられる。

江川の哲学は「自然哲学」である。「物の自然は、つねに〈脱全体性〉、〈非-存在〉、〈反-同一性〉、〈無-様相〉である」(「論理学を消尽すること」)。このように「自然」を描いたものが誰ひとりとしていなかったとしても、これが「自然」なのであり、アルトーも江川も「自然に内在する」以外のなにものも要求していない。そして「自然哲学」とは同時に「気象哲学」でもある。江川は『アンチ・モラリア』で気象を三つの時間として論じた。ひとつは終末論的な時間であり、第二は〈雲カオス〉の脱地層的にしてルクレティウス的な時間、そして第三は原子なきクリナメンの時間である。この三つの時間は「未来としての身体」の時間に対応する。気象とは未来である。気候変動(江川によれば「地球高温化」)は第一の時間の開示としての破局であるが、同時に、第二、第三の時間を開く。その過程もまた落下なのだ。『すべてはつねに別のもの』においては非存在への生成は気象的と同義である。気象とは〈脱-全体性〉、〈非-存在〉、〈反-同一性〉、〈無-様相〉であり、様態であることのモデルなのだ。『残酷と無能力』では「大地」に対する「大気」となる。気象的であることは「存在」としての大地を放棄することである。だが実際には大地も震え変成する。ゴッホの描いた大地は海のようではないか。そして身体そのものの気象性は〈身体気象〉として見出される。

この気象性は感染性でもある。「生殖性ではなく、感染性を積極的に問題化すべきである。これは、本質を棚上げし続けるような生殖ではなく、本質の変形を可能にする存在の様態をいかにして或る伝染病によって群生化するのかを問題にすることである」(『死の哲学』)。生殖の系統発生性に対する感染の群生性を讃えることは『千のプラトー』の潜在的な主題でもあり、『死の哲学』はすでにこれをあきらかにしていた。「感染の群生性」とは何か。「群れ」は「群衆」(集合)と区別される。「数えられる〈群衆〉は(略)、固定化された対称的な反対命題についての証明のようなものである。〈副‐言〉は、こうした反対命題の対称性の楔から解き放たれた、末梢的な生成の言表からなる。〔…〕〈非‐存在〉の群れは、本性的には非‐加算的な生成であり、またそれらの言表からなる。〔…〕〈群れ〉はむしろ蜂起の様態の多定立であり、〈副‐言〉はそれらの言表の様相となる」(「現前と外部性」)。「群れ」となることは絶対的孤独にいたることである。「感染」とは非共可能的な〈部分-生成〉であり、「機械状」な増殖である。すなわち「感染」とは「気象」的であり、「副言」なのである。

 

革命は、力や能力の問題の発揮ではなく、むしろ無力や無能力における問いの構成である」。江川哲学にこそわれわれは「政治」を見出す。もはや「存在以前の政治」があるというだけでは不充分なのだ。政治は存在との闘争であり、存在以前にしかないからだ。すべてはマイノリティへの生成であり、そもそもマイノリティと生成は同義なのだ。闘争は非-戦闘とも呼ばれ、非-存在への生成を内包した気象的なものとなる。大地には条理空間の分割をめぐる戦争があり、これは敵が強いる対称性として闘争を侵しつづけてきた。戦争は歴史と同義であるが、闘争は歴史の外に向かう。したがって闘争が歴史に残るのはその微かな影においてのみである。しかし文明の崩壊は闘争の気象性をあらわにさせている。香港蜂起のスローガンがBE WATERであったように。そして気候運動においてこそ大地と大気の抗争は決定的になる。気象が主題である以上、これは必然である。大地のための気候運動は戦争の変種であり、それゆえ国家を不可避とする。しかしわれわれは破砕する。問われているのは種の存続ではなく、差異の肯定なのだ。闘争は実在的区別を「コミュニズム」として実現する。ハイナー・ミュラーがコミュニズムとは絶対的孤独を導くものであると定義したように。コミュニズムとは〈別の身体〉への移行なのである。残酷と無能力がそれを導くだろう。

人間の身体を/自然の光のなかに連れ出すことだ/自然の微光のなかに/生身のまま浸すことだ/そこで太陽は身体と結ばれるだろう/ついに。(アルトー「カイエ」)

 

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