マテリアルな霊性、あるいは聖なるものたちのコミュニズム
彫真悟
悪を自己の外に撒きちらす傾向、わたしにはまだそれがある。いまだわたしにとって、人びとや事物が十分に聖なるものになっていない。たとえこの身が泥の塊になりはてようと、なにひとつ穢さずにいたい。思考のなかでさえも、なにひとつ穢さずにいたい[1]。
はじめに
「二〇五〇年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」する――現在国家が打ち出しているこの「ムーンショット目標」[2]は、「科学技術・イノベーション」に関わるものとされながら、ある意味ではきわめて霊的〔スピリチュアル〕なのではないだろうか。なるほど、ムーンショット目標の達成にあたり用いられるのは、ロボットや3D映像、身体能力や認知能力の拡張技術をも含んだ最新のサイバネティック・アバターである。これによって身体の限界を突破し「社会通念を踏まえた新しい生活様式」へと移行するのだ、と。
しかし、きらびやかな謳い文句に反して、ここにはなんら新奇なものは見当たらない。その見立ては、霊と肉という古典的提題をそのままに反復しているように思われる。すなわち「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。(…)あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(ローマ八章一三-一五節)。もちろん、パウロにおける肉〔サルクス〕は今日にいう身体〔ソーマ〕を必ずしも意味しない――肉はむしろ罪を意味する――というのはつとに指摘されているが、キリスト教史上、そこにしばしば混同があったのもまた事実である[3]。肉と霊の二元論の含意は身体と霊魂・精神という二元論へと滑落し、「肉体に閉じ込められていることの恥」がキリスト教の信仰を形成する重要な機能を果たしてきた[4]。そしてこのことは、近代科学の粋が結集されるであろうムーンショット目標においても、いささかも変わっていないというべきである。そこでは肉体は、われわれを閉じ込める限界にほかならない。この状況に恥を覚えよ、自由とは限界がないことなのだから――そのように唆す統治を食い止めることは、まずもってわれわれの務めである。
かつて若きシモーヌ・ヴェイユは『自由と社会的抑圧』において、マルクスを批判して次のように述べていた。「自然とおなじく社会においても、物質的な変革なしにはなにひとつ実現しない。これこそマルクスの偉大な観念である。(…)唯物論的な方法というマルクスが遺してくれた道具は、いまだ使われたことのない道具である」[5]。唯物論に霊性を対置するのではなく、十分に唯物論的ではないことを批判する。それはヴェイユにとって、十分に霊的でもないということであるだろう。のちにヴェイユが、『工場日記』で知られる過酷な物質的労働実践をつうじて「労働の霊性」を感得したことはよく知られている。自身がどこまでも必然性に従属した物質そのものであることを知らしめる労働は翻って、精神の自由が肉体の限界と一致し、神的な「宇宙の秩序」へと同意を捧げる契機ともなる。やがて『根をもつこと』で展開されることになる、その同意を礎とした新しい文明の内実をいまは問わない。たしかなのは、霊性を排した物質性、物質性を排した霊性ではなく、物質性においてこそ発動する霊性があるということだ。霊と肉、そのアレンジメントを問題にせねばならない。
ここで試みるのは、シモーヌ・ヴェイユとともに霊と肉をもういちど結び合わせること、すなわち物質的〔マテリアル〕な霊性を素描することである。フィリップ・シェルドレイクが論じるように、いつしか分離されてきた霊性と物質性は、ヴェイユら近代のキリスト教思想家によって再び独自の仕方で結び合わされた[6]。とはいえ、それを確認することは務めの半分にも満たない。ヴェイユは次のように述べていたのではなかったか。「企業と企業を掌握する人びとにたいする労働者の完全なる従属は、工場の構造にもとづくのであって、私的所有の体制にもとづくのではない」[7]。生産手段を万人にアクセス可能なものにすれば、事が丸く収まるわけではない。現に物質的に存立する工場、その構造にこそ、今日の宿痾はある。この点、万人が複数のアバターを所有し操作することで、脳の限界を超えた高度な情報処理が可能となる、すなわち物質性から解放されるとするムーンショット目標も、じっさいにはあくまで物質――ロボットもICTも結局は物質である――に依拠して履行されざるをえない。これは物質的なものの再編成と領有、近年の言葉でいえば装置とそれを介した「採取」[8]を伴う。先取りしていうならば、霊と肉を引き剥がし、後者を我有化し奴隷化することが、そこでは目論まれているのだ。物質的〔マテリアル〕な霊性は、これに介入するものでなくてはならない。霊の解放は肉からの解放ではなく、肉の解放でなければならない[9]。
1. シモーヌ・ヴェイユの霊性
1-1. 神の超越性――カール・バルト
シモーヌ・ヴェイユの神観は、ある面できわめて正統的なものであるように思われる。二〇世紀最大の神学者ともいわれるカール・バルトは、ナチスドイツによる神権政治とも見紛うばかりの統治が席巻しつつあるなかで自らの神学を打ち立てた。新正統主義というその二つ名が示すとおり、その最大の特色は神を絶対他者として位置づけたことにある。バルトにいわせれば、神は人間とのあいだに無限の差異を有する超越的な主体であるが、にもかかわらずイエス・キリストの出来事において、自ら世に降って十字架にかかるという一方的な恵みを人間へと与えたもうた。この逆説的な恩寵にたいするキリスト者の責任ある応答という弁証法的な発想が、バルトの神学を隅々まで彩っている。「神の御言葉に対する私たちの信頼と、イエス・キリストに対する私たちの認識とに対して、このように公共的に応答する責任。これこそ、キリスト教的意味において、信仰を告白する行為、信仰告白と呼ばれるべきものの一般概念です」[10]。
ロバート・コールズは、超越的にして意志的な神を第一義的なものとするバルトの伝統的な発想は、ヴェイユのテクストにも共通するとみる[11]。なるほど、たとえばヴェイユが「神は世界を創造し、世界の存続をたえまなく欲する」[12]と述べるとき、ここにはバルト同様の正統的神観が維持されているかのようにも読める。しかし、ミクロス・ヴェトーが指摘するように、ヴェイユにおける神と人間の関係を弁証法のうちに回収してはならない[13]。ヴェイユの神観には、啓示神学や弁証法神学とは異質な霊感〔インスピレーション〕が作用しているのだ。
1-2. 神の内在性――スピノザ
神は「絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」[14]である。スピノザは『エチカ』においてそのように定義した。先行する原因から産み出されるのではなく自己産出する神、その神が限りない属性を備えて変状し、無数の様態をとっているのがこの世界の自然にほかならない。いいかえれば、それ自身においてのみあるという必然性と、外部に起源を有さない内在性、そこになおも潜在する無限の変状こそがスピノザのいう神である。
いうまでもなく、こうしたスピノザの議論はバルトと著しい対比をなしている。バルトにとって、神の啓示はあくまでキリストの啓示という一回的な出来事であった。それはキリスト教会という特権的なトポスにおいて象徴的に再演されねばならない。したがって、バルトは神との直接的接触がわれわれにも起こりうるといった神秘主義のいっさいを退ける。どこまでもわれわれと隔絶した神の意志にたいして、教会を媒介とした絶えざる応答を意志する。それがバルトの、まさに正統というべき神学的構造である。
ではヴェイユにおいてはどうか。冨原眞弓が指摘するように、プラトニズムを経由してキリスト教を考えるヴェイユにとって神はそれ自体が真・善・美であって、この世界を超越した地点に存するそれらへとむかう思考や認識を機能させる原因である[15]。端的にいえば、神はこの世界にはいない。このことをまずは確認したうえで、たとえば次の言葉は、さらにそうした神学的構造を逸脱し、スピノザの示した内在性の領野へと踏み入っているように思われる。
わたしは万象である。しかるにこの〈われ〉は神だ。一介の個人にすぎぬ〈われ〉ではない。/悪は区別をもちこみ、神が万象にひとしくなるのを妨げる。/わたしを〈われ〉ならしめるものは、わたしの悲惨〔ミゼール〕である。ある意味で神を〈われ〉(すなわち人格〔ペルノナ〕)たらしめるものは、宇宙の悲惨である[16]。
ヴェイユにとって創造とは、神がその権能を行使した結果として、万象を自らの支配下に置くような仕方でなされたわけではない。まったく逆に、神は愛ゆえにその権能を放棄することで、つまりその座から立ち退いて万象のために場所を空け、自らの神性を傷つけることで創造をおこなった。これが、神はこの世界にはいないということの意味である。しかし、そうして創造された万象は、神から無限に隔てられているわけではない。目的を有さず、ただそのものとしてあらわれる美を見よ。なんら選別せず、いかなるものをも等しく照らす太陽を見よ。その美は、スピノザが述べていた必然の様相を帯びている。まったく受動的かつ機械的に必然性へと服する物質はすぐれて神に等しく、その美において神への愛を惜しみなくあらわしているのだ。それは定義上、神は神自らを愛するということである。神の愛は、超越的な主体から対象に与えられるといった通常思い描かれる機制をとらない。与えるものの属する次元が与えられるものの内にある、すなわちただ与えるという運動だけがある――神の愛は、そうした内在性において理解されねばならない。
だが人間はどうか。想像力――あるいはより端的に力――を行使し、種々の表象によって自らの世界を区別する。すると、「恣意を受けつけぬ世界の存在などほぼ完全に意識から消え去り、自身の命令じたいに神秘的な効能が含まれていると思えてくる」[17]。ただし、それはたんに対象化や客体化ということではなく、むしろ適切な距離をとらないことを意味している。自らこそは物質的な必然性と内在性から逃れ、世界を意のままに我有化し飲み込みうる超越的なものだと思い込むのである。〈われ〉とは我有化と同一化の機制そのものの謂いであり、こうした〈われ〉と貼り合わされているところに、神の愛を堰き止める「わたしの悲惨」がある。そればかりか、こうした我有化が連鎖し膨れあがるなかからは、表象上の区別こそあれど実在的な差異が消滅した「神の唯一の代替物」[18]たる集団、巨獣が生まれでてくることだろう。
ゆえにヴェイユにとっては、人間が〈われ〉を放棄し、万象と変わりなく必然性へと服従した一個の物質となること――脱創造〔デクレアシオン〕――が、神の神性を回復させるためになされるべきつとめとなる。それは、自ら退くという仕方でおこなわれた創造の模倣=反復であり、ここにはバルトが述べたような主体的・公共的責任が入り込む余地はない。神との弁証法的関係に入るのではなく、力が脱落していくなかで剥き出しになる実在にじっと目を凝らすこと。「不幸になるかもしれないことを愛さなければならない」[19]。受け入れがたく無目的にしか思えない必然性の背後で、神はわれわれを待っているのだから。
1-3. 物質の霊性――聖なるもの
このようにみてきたとき、シモーヌ・ヴェイユはあるアポリアを伴っているように思われる。一方で絶対他者としての神を説きつつ、スピノザ的な内在性を導入する、それははたして成功しているといえるのか。神は結局、超越しているのか、内在しているのか[20]。
ふりかえってみれば、カール・バルトは、神をしばしば王権や主権として語っていた。神はこの世界にたいして、どこまでも越権的に力をふるいうる高位に坐すという確信が、バルトの神学を支えている。そうした確信は畢竟、神に接触するのにかなった特権的媒介を要請するだろう。まさにこの地点にあらわれるのが教会である。バルトにとって、聖餐の聖礼典〔サクラメント〕によってイエスの出来事を象徴的に再演する教会は、その限りにおいてキリストの神秘体であり「聖なる公同の教会」であった。超越的なものは、教会という媒介によってこそ内在しうるというのである。ここには、超越的な地位から諸事物を我有化せんとする〈われ〉と同じ悲惨がある。
だが、ヴェイユにとってはそうではない。「わたしにとって聖なるものとは、その人の人格でもなければ、その人の個性でもない。それはその人である。その人のすべてである」[21]。聖なるものとは、いかなる表象によっても言い尽くされない物質的生、身体そのものである。それは、創造、受肉、そして十字架といった出来事が一回性のものではなく、いまこのときも「その人」において模倣=反復されていることを意味している。ここで、ジェイムズ・コーンからオサジェフォ・ウフル・セイクウにいたるまでの黒人神学者らが、統治権力への反逆者として十字架にかけられ虐殺されたキリストとは黒人であったと喝破していることが思い出される。それは、たんなる歴史考証ではない。いまこのときも虐殺され続けている黒人の身体に起こっているのは十字架の模倣=反復であり、しかるにその身体は必ずや蘇ってわれわれと再会するという約束が想起〔アナムネーシス〕されている[22]。こうした直観は黒人神学に限ったものではなく、フェミニスト神学などさまざまな「解放の神学系」[23]へと分け持たれているといってよい。これらの神学が共通して描き出したのは、いわば「後の者が先になる」(マタイ二〇章一六節)、すなわち通常備えるべき権利や人格から排除されたマイナーな生にこそ、神はまずもって顕現するということであった。別言すれば、〈われ〉を引き剥がされ、〈われ〉に蹂躙される者たちこそが、もっとも聖性を顕わしている。じつにヴェイユと解放の神学者たちは時空の厚みを超えて同一の認識へと達していたのであり、そこで見出されたのは、神の模倣=反復は何ものにも囲い込まれないということ、神はこの世界に無媒介的に内在しているということであった。聖礼典も聖変化も必要ではない。いっさいはまったきそのものにおいて、聖なるものである。それは、内在するものはすべて超越的なものであり、超越性は内在性の対蹠物ではないということを意味する。〈われ〉からまったくの物質性へと降下する、それに同意することで、自らの内に宿りながらもその輪郭を超え出る愛を開通させねばならない。この内在性の領野においてこそ、超越的なものは十全に超越的なもの――現下の人の自然的身体に宿りながら、美を見出し真理に接触し善をなす、超自然的かつ非人格的なもの――でありうるのである。
ヴェイユはいっていた。「この世界の想像上の王権を我が身から剥ぎとらねばならない。時空において自己の占める一点へと身を切り詰めるべく。絶対的な孤独。そのとき世界の真理に触れる」[24]。〈われ〉に依り頼もうとも、教会の肢体の一部となろうとも、神にはたどり着かない。王に謁見するときのようにふるまえば、神に触れることができるのか。いや、神とはその程度のものではない。だが、〈われ〉から解放された絶対的な孤独、事物間の距たりのうちに残された極小の物質に、神は入ってくる。神が意味するのは、われわれは自らの物質的生、実在性において等しく聖なるものだということである。絶対的孤独という不等性にあってこそ、描かれる等号があり、もたらされる出会いがある。このときに遂げられる転回は決定的である。霊性とは、肉体なき幽世を生きる力能ではない。霊性とは、聖なるものという物質性〔マテリアリティ〕を生きる力能である。物質の聖性を毀損するものいっさいを、放棄し廃絶する力能である。
2.放棄と蜂起
2-1. 無になること〔ケノーシス〕の無力?
振り返ってみればムーンショット目標にあらわなのは、「身体的能力、認知能力および知覚能力を拡張できる技術」によって物質的必然性から逃れでようという欲望であった。めざすところは自らを超越したものと思いなす〈われ〉の末期であり、そこで形成される社会とは巨獣と呼ぶにふさわしい。よってここでは、たんに疎外論的な批判をおこないたいわけではない。それはまさに「人間中心」[25]であって、だからこそ受け入れがたい。
いうまでもなく、ヴェイユそしてわれわれの霊性は、この欲望とはけっして交わらない。だが、交わらないだけで済ませることはできない。巨獣は解体されねばならないのであって、そのために介入することはわれわれの務めである。
エコフェミニスト神学者のサリー・マクフェイグは生前最後の著作『ケノーシス』において、シモーヌ・ヴェイユを導きの糸としながら「超越的内在性」[26]という概念を提示している。これは、すでに述べた解放の神学系にも共通する、内在性と超越性の排他的ではない結びつきを意味する。すなわち、キリストが受肉するさいにおこなわれた神性の放棄――「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ二章七節)――であるケノーシスは一回的な起源ではなく、諸事物が相互に依存しあいながら生成と崩壊のサイクルを営む自然界において持続する運動である。われわれの実在とはこの様態であり、またケノーシスの模倣=反復――脱創造――はわれわれの倫理的な責務なのであって、それをなすならばわれわれは「神の愛が他者に流れるための開かれた水路になる」[27]だろう。しかし、それ自体は悪くないこの見立てに続けてマクフェイグが次のように述べるときに、どうか。
私たちの生活においてこうしたことを実践するうえで必要なレベルが三つある。個人と職業と公共のレベルである。個人レベルでは、自発的貧困は極貧の生活を送るようにとの招きではない。求められているのは、他者が公正な分け前にあずかれるよう、物質的な快適さの指標を捨て、自制した質素な暮らしを営むことだ。(…)職業レベルでは、車の製造であろうが、小さい子どもの教育であろうが、野菜の栽培であろうが、医学、法律、子育てであろうが、受けてきた教育に基づき、自分にふさわしい仕事をやり続けることである。(…)最後に公共のレベルでは、私たちの影響力や資財を活用して、地域レベル、国家レベル、国際レベルで構造改革を生み出す法律を制定し、エコロジーに配慮する政治家を選出することだ[28]。
けっして難解なことがいわれているわけではない。マクフェイグの見立てによれば、現在生じているのは「消費者の欲望」対「生存するための必要物」[29]という二択だという。このうち前者が市場資本主義の動因となっているのだから、必要なのは欲望を節制する「自発的貧困」である。そうすれば自ずと、市場資本主義は脱臼し、大量生産・消費のサイクルは断ち切られ、気候変動をはじめとするエコロジー危機は解消されるのだ、と。
デヴィッド・グレーバーにいわせるならば、ここでマクフェイグが主張しているのはたんなる「モラル」にすぎないだろう。グレーバーはいう。「リサイクルをめぐっては、いつもモラルの問題が持ち出されるわけですが(…)かりに世界中の人間があらゆるゴミをリサイクルに回し一切のゴミ出しさえもやめたとしましょう。削減されるのは建設廃棄物の半分以下にも満たない。まだ利用できる建物を再利用に回さず、やたらと取り壊しては建てまくる流れに歯止めをかけないかぎり、さしたる変化は起きない」[30]。
今日のエコロジー危機の重大な要因となっている巨大建築物群の建造は、まずもってグローバルな投機の誘因となることをその役割としており、生産・消費という通常想定されるサイクルから独立している。建設に伴う地価の上昇や、転売によるレントの取得を狙って「現実にはだれも望んでいないインフラストラクチャーという狂気の産物」[31]をつくりだす「とち狂った建設〔バットシット・コンストラクション〕」である。グレーバーの言葉でいえばこれは、じっさいには何も生産していないにもかかわらず官僚制的な諸規則と長時間労働で労働者を磨耗させていく「クソどうでもいい仕事〔ブルシット・ジョブ〕」と表裏一体をなしながら、金融、保険、不動産からなるFIRE部門というネオリベラリズムの代表的勢力を構成している[32]。端的な事実として、モラルなき「消費者の欲望」が危機をもたらしているわけではない。危機を積極的に推し進める権勢が、現に働いている。それらは、いったい何をおこなっているのか。
2-2. 物質性からの自由、物質性への自由
グレーバーにとってネオリベラリズムとは、たんに経済的自由を至上価値とするイデオロギーといった以上の意味をもっていた。それは、市場競争の論理を社会全域へと貫徹させ、障壁となりうるものを強制力をもって除去する統治プロジェクトである。一九六〇年代の広範な闘争にたいする反動をひとつの淵源とするこのプロジェクトは、資本の運動にたいする反動を抑え込むこと、「従属的な社会秩序」[33]の維持を今日まで第一の使命としている。
あるいはそこに、カール・シュミットのいう権威主義的国家とその影響下で提唱されたフリードリヒ・ハイエクの経済的リベラリズムの接合、すなわち権威主義的リベラリズムについての酒井隆史の分析を付け加えてもよいだろう。その系譜上に立つネオリベラリズムは「競争の形式的構造が作用可能となるような具体的な現実空間を実際に整備すること」[34]をめざす。その唱導者らにとってこのことは、あるべき社会とその構成員を、物質的かつ心的につくりだすひとつの実験をおこなうことを意味している。ネオリベラリズムの教義において、社会は、人間は自然に存在するものではなく、積極的な介入によって構築されなければならない。
この際に作用するものは、しばしば装置と呼ばれてきた。言説、物質、情動などといった異質なものの複合体にして、その戦略的な配置によって権力のエコノミーをとりしきるもの、それが装置であるとすれば、今日の装置はいかに「具体的な現実空間」に配備され、空間そのものを構築しているのか。やや長くなるが、以下の示唆的な一節を引用しておく。
いかなる装置であれ、たとえばパリの地下鉄の自動改札機のような装置を目の当たりにしたときに発せられる誤った問いとは「これは何の役に立つのだろう」であり、誤った答えとは「不正行為を防ぐため」である。それにたいして、正確な問い、唯物論的な問い、それゆえ批判形而上学としての問いは「この装置はいったい何をするのか、この装置はいかなる操作を実現するのか」である。答えはこうなる。「装置は、不正行為をはたらく身体にたいして、いくつかの容易に検出できる動作(改札を飛び越える、「正規の利用者」の背後にすべり込む)をしいることで、それらの身体を「利用者」という漠然とした総体から分離して特異なものにしたてあげる。こうして装置は「不正行為者」という述語を存在させる。要するに、装置は不正行為者として規定された身体を実在させるのである。(…)装置は特定の身体をきわめて物質的につくりだすが、それは装置の望むように述語をあたえられた主語としてである[35]。
のちに不可視委員会の名で全面展開されるテクノロジー/サイバネティクスへの批判を、すでに視野に入れているであろうここでのティクーンの議論は、装置がじっさいに何をおこなうのかを詳らかにする。ムーンショット目標がそうであるように、装置はしばしば身体的・物質的制約を低減させ、究極的にはそれを乗り越えることを謳う。すでにみたとおり、そこでいわれているのは肉と霊の誤った二元論なのだが、そうした言表がじっさいに促しているのはたんなる身体からの離脱ではないとしたら、どうか。ティクーンは反対に、装置は物質的身体をある述語によって実在させるのだと主張する。装置が身体に加えるのは、メジャーなものとマイナーなもの、主体と棄却された残余、そのどちらとして現前するかをめぐる恫喝である[36]。「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」するという呼びかけは、このように身体そのものに作用し、秩序にかなう物質、奴隷として我有化する行為遂行的〔パフォーマティブ〕な効果を有している。
仮想空間と現実空間の融合、あらゆるモノとテクノロジーの常時接続による経済発展をめざすSociety5.0や、産業と技術革新の基盤の構築を掲げるSDGs(持続可能な開発目標)など今日のテクノロジーによる統治はみな、同様の方向へとむかっているといってよい。そこでは「人間中心」[37]であること、「人間の安全保障の理念を反映し「誰一人取り残さない」」[38]ことが口を揃えて騙られる。しかし、ここでいわれる人間とは、有限な物質的存在としての人間とは違う。「その人のすべて」、まったくのその人自身とは違う。それは、存在することが、装置に捕獲され繋留されていることと同義となった人間である。この人間にとっては、装置それ自体が存在論的な基盤となる。さまざまな述語を割り当てられることで存在する、もはや孤独ならざる身体において、廃絶の力能は望むべくもない。物質性からの自由をめぐる言表は、行為の水準では物質性を標的とし、これを自由につくりかえる。われわれが拒否してきた意味での超越性――物質的内在性の外部に設定され、そこから世界を見下ろすような視点――に準拠してこそ可能になるその機能にあらわなのは、秩序の紊乱を、奴隷の蜂起を未然に防ぐことへの欲望である。
2-3. 脱創造のヴァンダリズム
ひとつたしかにいえるのは、マクフェイグにしたがって自発的貧困のモラルを会得したところで――建設に伴う貧者の立ち退きにさらされたり、あるいは解雇されたりするかもしれないが――「さしたる変化は起きない」ということだ。それは、「生存するための必要物」はおろか「消費者の欲望」ともすでに関係がないのだから。人びとの欲望ではなく、人びとにたいする欲望が、今日の統治の権勢を衝き動かしている。
したがって、「なにもしないことの言い訳などもうありえない」[39]。アンドレアス・マルムは、グレーバーも関与していた絶滅への反抗〔エクスティンクション・リベリオン〕をはじめラディカルな気候運動にたいして、なおもそのように釘を刺す。マルムにいわせれば、それらの運動における「非暴力」の理念には「宗教的」な響きがある。非暴力に徹し道徳的な優位性を保持していれば、やがて敵手は改心し事態は好転しうるはずだというが、それはたんに宗教的な祈願か自己正当化にすぎないのではないのか。「非暴力」の名のもとで甘受される巨大な暴力、それをこそわれわれは止めようとしているのではないのか、と。マクフェイグのケノーシス論にもそのまま妥当するであろうこの問題提起に重ねて、マルムは次のようにいう。
問題は、気候運動の戦闘的な部分によるサボタージュさえあれば危機が解決できるかではなく――それは明らかに夢物語だ――、「ビジネス・アズ・ユージュアル」を揺さぶり、脱線させるのに必要な破壊的な騒動がそれなしに起こりうるかどうかである。サボタージュなどありえないと固く信じて平時の戦術に固執するのは無謀だろう。現状がいかに悲観的かを思えば、運動を抗議から抵抗へと決定的なかたちでシフトさせる時が来ているのだ[40]。
暴力がすべてを解決するわけではなく、またその代償としてふりかかる危険を顧みないヒロイズムが説かれているわけではけっしてない。そうではなくて、現下の危機をもたらしている財物にたいする妨害=破壊活動〔サボタージュ〕ないし破壊行動〔ヴァンダリズム〕を、選択肢から除外しないこと。たとえばベトナム戦争時に徴兵書類に火を放ち、冷戦末期には核弾頭をハンマーで破壊したダニエル&フィリップ・ベリガンは、マルムにとってひとつの範となる。そして、この兄弟の行動を可能にしたのは、正義に基づく財物破壊は非暴力の範疇にあるとするカトリック労働者の伝統だった[41]。われわれをその物質性において奴隷化する装置を端的に破壊することは、超自然的な徳に、正義に属する。それをヴェイユの次の言葉と結びつけることは、おそらくそう的外れではないだろう。
破壊。神は世界を創造し、世界の存続をたえまなく欲する。したがって破壊は悪である。ただし被創造を非創造の領域に移行させるのはその限りではない。破壊はこの移行の悪しき模倣(代替物〔エルザッツ〕)である。人間はおのれを弑〔しい〕するとき、おのれを神に似たものとするが、それは悪しき類似である[42]。
被造物を破壊するのはよくない。悪である。ただし、創られたものを創られていないものの領域、すなわち必然性と内在性の領域へと返還してやることは、その限りではない。そこには質的な異なりがあるのだ。『重力と恩寵』の脱創造について論じたこのくだりは、自らの権能を放棄し、まったき物質として神の充溢のうちに消滅することを奨めるものとしてまずは読まれうる。しかし、そのようにわれわれが消えさることを妨げているものがあるとしたら、どうか。ヴェイユにとって資本主義社会とは、かつて自然が人間に必然として振るった猛威を征服し、それに代わって別の猛威を振るうようになった集団=巨獣の貌にほかならなかった[43]。この巨獣は、われわれを征服し、奴隷化して逃さない。グレゴワール・シャマユーの言葉でいえば「狩猟権力」による「人間狩り」が遂行されてきたのであり、そこでは「全員死んでも構わない。損失があれば、いつでも狩猟権力は外に別の資源を探しにいくのである。狩猟権力はいかなる保存の要請にも従うことはない。結果として狩猟権力には、誰それの生き死にに関しておこなうべき選択など存在せず、いかなる犠牲の問題系も存在しないのである」[44]。巨獣はわれわれから神への同意の契機を奪い、まるで自らこそが必然的な法則にして崇拝の対象であるかのようにふるまうだろう。そうして無際限かつ気ままに、惑星的な規模でエコロジーを破壊していく悪をなすだろう。この集団を破壊すること、創られていないものへと遡行させることは、けっして悪ではないはずである。
マルムはいう。「資本の歴史的勝利と地球の破壊は一体不可分だ。この袋小路から抜け出すためにこそ、人類が地球に住み始めてから最も不運と思われる今この時に、闘い方があらためて学び直されねばならないのである」[45]。いまこのときに、世界は絶滅の危機に頻している。「世界の存続をたえまなく欲する」のであれば、脱創造のサボタージュとヴァンダリズムを、蜂起を躊躇ってはならない。その欲望こそは神の欲望であり、したがってわれわれの欲望であるのだから。
3. 聖なるものたちのコミュニズム
3-1. 連帯の呼びかけ
とはいえ、社会のなかに居住し、権利や人格といった相対的な善を頼みにして生きるわれわれにとって、〈われ〉を放棄し超自然的な善のために身を差し出すことは、苦悩をともなう。それは、自らが架けられる十字架を背負ってゴルゴタへと歩いたイエスの苦悩であり、死をその最終形態とするような苦悩である。認容することがおよそ不可能といってもよいほどの苦悩である。
だが、断じて取り違えてはならない。自己放棄の不可能性は、蜂起の不可能性を意味するのではない。神のもとへと遡行することと現下の統治の諸装置を廃絶することのあいだで、前者は後者を必然的に要求するし、後者なしに前者が果たされることはありえないだろう。しかし、それは前者と後者が同じであるということではない。にもかかわらず、前者の不可能性を後者の不可能性へと取り違えてしまうのだとしたら、それはわれわれが、知らずかな巨獣への偶像崇拝に陥っていることの証であろう。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(ルカ一八章二五節)のだ。
じっさい、後者を成し遂げるための実験は、すでにいくつも、何度もおこなわれている。北部シリアのクルド人を中心とした自治区、ロジャヴァはその最たる例であろう。そこには、シモーヌ・ヴェイユがいうところのわれわれの「真の敵」[46]、警察を容れない自治がある。そればかりではなく、家父長制や国民国家、資本主義といった文明全体を覆すような実験が、日々積み重ねられている。これを他者化することは許されない。とはいえ、たんに理想化すればよいものでもない。いずれの姿勢も、ロジャヴァがまさに葬り去ろうとしているはずの植民地主義的なまなざしと表象を、再び蘇らせることにしかならない。ISISとの戦闘によって破壊されたコバニの再建に携わるクルド人研究者・詩人のハウズィン・アズィーズは、警察と監獄の廃絶主義〔アボリショニズム〕を掲げるアメリカのブラック・ライヴズ・マターの闘争にむけて、次のように呼びかける。
わたしたちを拘束する鎖は一見異なってみえるが、クルド人とアメリカ黒人は、わたしたちを殺害しつづけ、無数の暴力をわたしたちに浴びせかけている、おなじ抑圧的なシステムと対決している。ロジャヴァで、わたしたちはもうひとつの世界が可能であることを提示しようとしている。これからは、連帯こそが、わたしたちをむすびつける架け橋にならなければならない[47]。
もちろん、警察や監獄といった装置には領土に応じた種別があり、そのもとで交差的な差別がどのように生産され経験されるかは異なっていよう。だが、それら諸装置はじっさいには同じ鎖、同じ抑圧的なシステムを形成しているのだとアズィーズは語る。ここで、この言葉の宛先はBLMであって、われわれが同一の鎖に拘束されているなどということは、彼我の懸隔を軽視することではないのか、という一見まっとうな問いがありうるだろう。しかし、まず認識するべきは、この言葉はたんに事実確認的〔コンスタティブ〕なものであるというよりも、まさにそうした懸隔を乗り越えんとする行為遂行的〔パフォーマティブ〕な発話として送り届けられているということだ。同じ鎖につながれた奴隷としての自己認識から、その鎖をともに断ち切る奴隷の蜂起へ。それが不発に終わるのか、「おなじ抑圧的なシステム」を暴露し廃絶する「連帯」へと接続されていくのかは、まさにわれわれの身ぶりへと賭けられているといわねばならない。
しかし、その連帯とはシモーヌ・ヴェイユがあれだけ忌避していた集団とどこが違うのか。巨獣を生みだすのではなく廃絶するような連帯とは、どのようなものでなくてはならないのだろうか。この問いをめぐり参照されるべきは、阿部小涼による「連帯の脱植民地化」[48]の主張であろう。いま、脱植民地化の闘争において連帯とは何を意味するか。それがもしも軍事主義インフラの存在をある程度認めたり、既存の国家政治の枠組のなかで思考したり[49]、家父長制を相対化しないものであったりするならば、何よりも脱植民地化されるべきは「連帯」の概念そのものである。パレスチナの闘争を参照しながらプエルトリコの独立闘争を繰り返し語り直すという領土を跳躍した営みに目をむけ、「友情は、ひととひととのあいだの距離をなくすものではなく、生かすものである」というヴァルター・ベンヤミンの言葉を引きながら、阿部はいう。「「友情」を「連帯」に置き換えて読めば、それは脱植民地化された連帯の倫理となる。連帯もまた、それがあれば離れていても生き生きとするような関係に宛てられた名前なのだから」[50]。巨獣が要請するような同一性にもとづいて仕立てられるのが、連帯ではない。それは、物質的=霊的に等しくあろうとするような聖なるものたちの関係へと宛てられる名である。装置に捕獲される限りで、同じ仕方で存在するのではない。複数の別な存在の仕方が等しく聖なるものであることを認めさせる、そのような実践〔プラクシス〕こそが連帯なのだ。そしてそれは不可能事ではけっしてなく、時空の厚みを横切って錬成され続けている。
3-2. すべてを共有化する
連帯の経路〔ルーツ〕をたどって、われわれの起源〔ルーツ〕へと還ろう。紀元一世紀、十字架と復活の出来事を語り継がんとする、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった」(黙示録七章九節)初期キリスト教共同体の運動へ、である。スーザン=バック・モースは『紀元一世紀』において、パトモスのヨハネ――ヨハネの黙示録の著者――のテキストを次のように読む。「黙示録は、現在の存在を非自然化する。世界は、日常性とは別の方法でヨハネを振り返る。別の世界ではなく、この世界が別の形で認識されるのだ。彼は聴衆の経験、すなわち彼らのポリス、歌、集会、礼拝、冠、生きた木や水を修正する。目に見えるものと見えないものが相互に影響し合い、日常生活の内在性の中で超越性が経験されるのである。神々や皇帝のイメージで飽和している都市の文脈において、ポリスの日常生活は変容しているように見え、表現できない神は、石で切り取られたイメージが人間の形で聞くものを取り囲む皇帝の礼拝像よりも現実的に見える」[51]。
紀元一世紀、ローマ帝国の統治が確立したのは、さまざまな宗教神話をたんに抑圧するのではなく包摂した、神権的な皇帝崇拝の時空間とハビトゥスだった。皇帝の統治は神々による永遠の統治と不可分であり、その権威は巨大な神殿や石像、ひいては硬貨までの物質的な諸装置においてあらわされる[52]。こうした世界において、生きて存在するための慣習は、そのまま皇帝崇拝を表現するものとなった。
だが、黙示録は、世界はそのような場所ではないと語りかける。「目に見えるものと見えないものが相互に影響し合い、日常生活の内在性の中で超越性が経験される」この世界とは、われわれの言葉でいえば聖なるものである。その世界を生きる経験こそが、初期キリスト教共同体を開かれた仕方で縁取っている。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ三章二八節)とあるように、この共同体にとって、装置が与えるもろもろの主述は問題にならない。世界の万象が聖なるものであるという経験が、統治されているのとは別様の仕方で生きて存在し、関係しあうことを、すなわち連帯を可能にする。ロマン・A・モンテロは、先に引いたガラテヤの信徒への手紙の箇所について、次のようにいう。
ここで基礎となっている考え方は、地上の諸国民はその子孫にいたるまで祝福されるというアブラハムの約束が、イエスにおいて成就されたというものだ。それゆえ、いかなる国の民にも、キリストを通じて神と和解する可能性がある。神の民へと加わる(そしてキリストが宣べ伝えたように、安息日と大赦〔ジュピリー〕の律法にもとづく約束によって神の王国に参与する)ことができるのである。ここに見出されるのは、キリスト教共同体のメンバーシップやそれに伴う一切はエスニシティや階級やジェンダーによって制限されないという、パウロの普遍主義の神学的な基礎である[53]。
資本主義とコミュニズムをめぐるグレーバーの成果を参照しつつモンテロは、紀元一世紀前後のローマ帝国の統治を、人びとを今日の資本主義にも通じる継続的な本源的蓄積と地代〔レント〕経済へと追いやるものと分析する。共有地から切り離された人びとは、生産手段をもたない小作人や都市労働者として生き、地代の支払いによって負債を抱え込むことを余儀なくされていた。そうした状況下に、いや、そうした状況から離脱するべくして存在した初期キリスト教共同体がおこなっていたのは、民族的・宗教的アイデンティティのような同質性を基礎としないコミュニズムであったとモンテロはいう。なんらかの共通項にある者同士で相互扶助的な実践がおこなわれることは、珍しいことではない。だが、イエス、パウロ、そしてその言葉を語り継ぎ実践していった者たちのコミュニズムはそうではない。それは、装置によって与えられた存在の仕方をまさに脱創造し「キリスト・イエスにおいて一つ」になる運動の連帯、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの言葉でいえば「生成変化のブロック」「同盟のブロック」[54]と不可分なコミュニズムだといえる。
事実パウロは、男と女、自由市民と奴隷、ギリシャ人とユダヤ人、メジャー性とマイナー性の不平等な対立関係によって形成された秩序にたいして、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになり(…)ユダヤ人を得る」(コリント1九章二〇節、強調引用者)こと、「弱い人に対しては、弱い人のようになり(…)弱い人を得る」(二二節、強調同上)ことを試みた。そのようにして成り立つ初期キリスト教共同体とは、「キリスト教」という代替的なメジャー性を立ち上げ、それによってただ装置を奪取しようというものではない。硬貨の柄が皇帝からイエスに変わったとしても、抑圧は続くだろう。そうではなく、何ものでもあり何ものでもないこと、主述を問わず共にあり「すべてのものを共有コモン化する」(使徒二章四四-四五節)ことを、その共同体は欲した。そこにあるのは、定められた存在の仕方を脱ぎ捨てて肉と霊における絶対的な平等を希求する、聖なるものたちのコミュニズムであるだろう。
3-3. 大赦の労働
したがって、われわれの霊性は「安息日と大赦〔ジュピリー〕の律法にもとづく約束」の履行を欲し、要求する。この「安息の年」と「ヨベルの年」について、レビ記には以下のように書かれている。まず、「六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。(…)安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女や奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」(レビ二五章三-七節)。七年に一度、土地をあらゆる私有と蓄積の過程から解放し、そこに生じるもののすべてを、あらゆる者たちのあいだで共有せねばならない。そうした「安息の年」を七度繰り返したあとの五〇年目に、ヨベルの年が到来する。「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(一〇節)。人びとは、奴隷や小作人としての労役、課された負債から解放され、奪われた土地やそこでの生活が取り戻される。安息の年が秩序化された時間〔クロノス〕を切断する時間〔カイロス〕であったとすれば、ヨベルの年はその秩序の完全なる清算、大赦〔ジュピリー〕にして、二つの時間がひとつに収束した新しい時のはじまりである[55]。
この約束は現在時にあって、「とち狂った建設〔バットシット・コンストラクション〕」「クソどうでもいい仕事〔ブルシット・ジョブ〕」への従事からわれわれを解放し、それによって推し進められてきた破壊からこの惑星を解放するものとなるだろう。ピーター・ラインボーは「ジュビリーの実践、あるいは大西洋労働者階級が聖書の『ヨベルの年』を資本主義に抗うためにどのように用い、ある程度の成功を収めたか」[56]において、現代における大赦の革命的意味を描写する。アルゼンチンのグティエレス、パレスチナのナイム・アティークといった解放神学者たちは、レビ記の同箇所を参照することをつうじて自らの反植民地主義闘争の原理を練り上げた[57]。そればかりではなく、一八世紀イングランドで地主・貴族階級やかれらによる土地の私有の廃止を訴えたトマス・スペンス、その影響を受けて政府閣僚殺害を計画し処刑されたジャマイカ出身のウィリアム・ダヴィッドソンといった人物の生きざまにも大赦〔ジュピリー〕の伝統は息づいている。ラインボーがいうところ、「一八二〇年までにはジュビリーはインターナショナルで汎-倫理的なものにすらなっていた。それは労働者の自律的な活動の一部であり、蜂起の預言と行動に関係するものだった」[58]。
意義深いのは、マニュエル・ヤンも述べているように、ラインボーがここで用いているのは名詞のジュビリーJubileeではなく動詞のjubilateだという点だ[59]。大赦は、肉と霊において現実に実践〔プラクシス〕されてきた[60]。この実践を、ヴェイユならば「労働」と呼ぶだろう。もちろんそれは、装置に捕獲された奴隷としての労働とは違う。そこでは――
太陽と植物の樹液は、畑のなかに世界でもっとも偉大なものがあることを絶え間なく語りかけてくる。わたしたちは太陽エネルギーによってのみ生きることができる。(…)だが、太陽エネルギーが絶え間なくわたしたちを満たしても、わたしたちは太陽エネルギーをつかみ取ることはできない。植物の葉緑素の原理だけがわたしたちのために太陽エネルギーをつかみ取り、それをわたしたちの糧にすることができる。わたしたちの努力によって大地がそれにふさわしくなるように整えられねばならない。こうして、葉緑素によって太陽エネルギーは形をもった物となり、わたしたちのうちにパンとして、ワインとして、油として、果実として入ってくる。農民の労働はすべて、キリストの完璧なイメージであるこの植物の特性を育成し、提供するということにある[61]。
天から注がれる太陽エネルギーを、自らの身体において世界のための糧へと変換する植物の特性は、自らの血と肉を食物として供したキリストの姿を完璧に反映している。これは、植物が他のものよりも高位にあるという意味ではない。超越性は「畑のなかに」、この世界のいたるところに内在して万象を生かしている。それを体現する植物とは、聖なるものの謂いにほかならない。われわれの労働とは、そのような植物にふさわしく大地を整えることにある。太陽エネルギーの供給と共有を妨げる装置のいっさいを破壊し、すべてを共有化する安息と大赦を現実に開始するべく、われわれは召されているのだ。インフラの建設、装置の配備を中止させ、誰のものでもない土地で植物が育つままにせねばならない。巨獣の死せる身体を、分解されるがままに土に還さねばならない。やがて実るものすべてを私有から解放し、共有のものとせねばならない。脱創造と連帯をもってその召命にこたえるとき、聖なるものたちのコミュニズムはこの世界そのもののありようと一致する。先のものがすでに過ぎ去り、天と地の隔てが消え去った新しい天地は、このようにして開始されるはずである。
[1] シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波書店、二〇一七年、一八頁。
[2] ムーンショット目標については内閣府の以下のウェブサイトを参照。「ムーンショット目標1 2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」(https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html)
[3] A・リチャードソン、J・ボウデン『キリスト教神学事典』古谷安雄監修、佐柳文男訳、教文館、一九九五年、一一六頁。
[4] エリザベート・ゴスマン他編『女性の視点によるキリスト教神学事典』エリザベート・ゴスマン、岡野治子、荒井献監修、日本基督教団出版局、一九九八年、一七一頁。
[5] シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』冨原眞弓訳、岩波書店、二〇〇五年、二二-二三頁。
[6] P・シェルドレイク『キリスト教霊性の歴史』木寺廉太訳、教文館、二〇一〇年。
[7] シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、一六頁。
[8] 採取の含意については『思想』二〇二一年二月号特集「採掘-採取 ロジスティクス」(岩波書店)の各論考を参照。
[9] ここでは、一九五〇年代以降のラテンアメリカで生起した解放の神学と同様の重みをもって、解放という言葉を使う。解放の神学は、のちにチリのピノチェト政権で全面展開されることになるネオリベラリズムの前駆的形態ともいうべき金融資本と開発独裁を神学的に批判し、神学的批判と実践プラクシスをつうじてそこから全人的に――霊的かつ身体的に――解放されることを求めた。なお、解放の神学の重要な担い手グスタポ・グティエレスとシモーヌ・ヴェイユの比較研究としてAlexander Nava, The Mystical and Prophetic Thought of Simone Weil and Gustavo Gutirrez: Reflections on the Mystery and Hiddenness of God, State University of New York Press, 2001がある。
[10] カール・バルト『教義学要綱』天野有・宮田光雄訳、新教出版社、二〇二〇年、五七頁。
[11] ロバート・コールズ『シモーヌ・ヴェイユ入門』福井美津子訳、平凡社、一九九七年、七六頁。
[12] シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、六三頁。
[13] ミクロス・ヴェトー『シモーヌ・ヴェイユの哲学――その形而上学的転回』今村純子訳、慶應義塾大学出版会、二〇〇六年、七五頁。
[14] スピノザ 『エチカ(上)』畠中尚志訳、岩波書店、一九五一年、四二頁。
[15] 冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』青土社、二〇〇〇年、一一八、一三三頁。ここで冨原は、ヴェイユの神がキリスト教の伝統的な人格神と異なるものであることを指摘している。
[16] シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、六一頁。
[17] シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、一〇〇頁。
[18] シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、二七三頁。
[19] シモーヌ・ヴェイユ「神への愛と不幸」『シモーヌ・ヴェイユアンソロジー』今村純子編訳、河出書房新社、二〇一八年、二七四頁。
[20] ミクロス・ヴェトーも認めるように、じっさいヴェイユはここに曖昧さを残している。「神は真理の源泉ないし原型であって、真理の主人ではないので、神と諸本質の網の目との連続性という考えは、曖昧なままであっても、何ら神を侮辱するものではないのである」(『シモーヌ・ヴェイユの哲学』三二頁』、強調引用者)。
[21] シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」『シモーヌ・ヴェイユアンソロジー』今村純子訳、河出書房新社、二千十八年、三一一頁。
[22] この点については、山下壮起・二木信編『ヒップホップ・アナムネーシス――ラップ・ミュージックの救済』新教出版社、二〇二一年。とりわけ山下の論考「サグ・アナムネーシス」と、オサジェフォ・ウフル・セイクウの説教「ファーガソンの前線より」を参照。
[23] 芦名定道『現代神学の冒険――新しい海図を求めて』新教出版社、二〇二〇年。
[24] シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、三二頁。
[25] 国立研究開発法人科学技術振興機構ムーンショット型研究開発事業ウェブサイト(https://www.jst.go.jp/moonshot/program/goal1/index.html)。
[26] サリー・マクフェイグ『ケノーシス――大量消費時代と気候変動危機における祝福された生き方』山下章子訳、新教出版社、二〇二〇年、三三九頁。
[27] サリー・マクフェイグ『ケノーシス――大量消費時代と気候変動危機における祝福された生き方』山下章子訳、新教出版社、二〇二〇年、一一八頁。
[28] サリー・マクフェイグ『ケノーシス』、三五七-三五八頁。
[29] サリー・マクフェイグ『ケノーシス』、三六〇頁。
[30] デヴィッド・グレーバー「バットシット・コンストラクション――とち狂った建設について」芳賀達彦訳、『福音と世界』二〇二二年一月号、新教出版社、三五頁。
[31] デヴィッド・グレーバー「バットシット・コンストラクション」、三三頁。
[32] 現に建てあげられた高層建築物をみてみれば、低層階には観葉植物が植えられ、目も眩むような商業空間が広がっているかもしれないが、その上層に積み重なるのは往々にしてオフィス空間――空室だらけのマンションかもしれないが――である。それは、レント取得にまつわる規則や手続きを慌ただしくも単調に処理し続けるだけで、じっさいには何も生産しない空間である。と同時に、種々のICTによって構成され、諸身体を資本循環へと切れ目なく綜合する管理統制の空間である。すなわち、硬直した規則に人びとの創造性を従属させる官僚制的規律と、つねに柔軟に自らの身体の商品価値を提示せよと要求するポストフォーディズム的規律が重合する空間である。そしてこの空間をつくりだすのは、ほかでもない「とち狂った建設」であるだろう。
[33] デヴィッド・グレーバー「バットシット・コンストラクション」、四一頁。
[34] 酒井隆史『完全版 自由論』河出書房新社、二〇一九年、五二五頁(強調は引用者による)。また『HAPAX』一二号(夜光社、二〇二〇年)に収録された同氏のインタビュー「ネオリベラリズムと反復の地獄――ノンセクト的戦争機械のために」も合わせて参照されたい。
[35] 『来たるべき蜂起』翻訳委員会+ティクーン『反-装置論――新しいラッダイト的直観の到来』以文社、二〇一二年、一一三-一一四頁。
[36] もっとも、身体がいずれとして現前しようとも、装置には問題でない。というのも、否定性を刻印された残余にたいして排除なり包摂なりで対処することによって、装置はさらに強化されていくからだ。「〈やつら〉があなたに述語をもたらし、主体化し、指定するとき、反発してはならず、とりわけ否定してはならない。そうすることで〈やつら〉があなたから引き出すであろう反主体化は、つねに最悪の脱出困難な監獄である」(『来たるべき蜂起』翻訳委員会+ティクーン『反-装置論――新しいラッダイト的直観の到来』、一二八頁)。
[37] 内閣府の以下のウェブサイトを参照。「Society 5.0」(https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/)
[38] 外務省の以下のウェブサイトを参照。「持続可能な開発のための2030アジェンダ」(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/pdf/000270935.pdf)
[39] アンドレアス・マルム『パイプライン爆破法――燃える地球でいかに闘うか』箱田徹訳、月曜社、二〇二一年、五頁。
[40] アンドレアス・マルム『パイプライン爆破法』、九一頁。
[41] アンドレアス・マルム『パイプライン爆破法』、一二六頁。
[42] シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、六三頁。
[43] シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、七五頁。
[44] グレゴワール・シャマユー『人間狩り――狩猟権力の歴史と哲学』平田周・吉澤英樹・中山俊訳、明石書店、二〇二一年、二八-二九頁。
[45] アンドレアス・マルム『パイプライン爆破法』、七三頁。
[46] シモーヌ・ヴェイユ「戦争にかんする考察」『シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅰ 戦争と革命への省察』伊藤晃訳、春秋社、一九六八年、一三二頁。
[47] ハウズィン・アズィーズ「警察廃絶をはじめとするロジャヴァからの革命的教訓」酒井隆史訳、『福音と世界』二〇二二年二月号、新教出版社、四〇頁。
[48] 阿部小涼「軍事主義インフラに抗する、連帯の脱植民地化に向けて」『福音と世界』二〇二二年一月号、新教出版社、二九-三三頁。
[49]ヴェイユのいう「政党の廃止」はこの点に対応するものだろう。シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』山崎庸一郎訳、春秋社、一九六七年、頁。
[50] 阿部小涼「軍事主義インフラに抗する、連帯の脱植民地化に向けて」、三三頁。
[51] スーザン=バック・モース『紀元一世紀――「理性」と「信仰」の分断を問い直す』森夏樹訳、青土社、二〇二一年、二一七頁。
[52] この点については以下も参照。ジャック・エリュール『アナキズムとキリスト教』新教出版社編集部訳、新教出版社、二〇二一年。
[53] Roman A. Montero, All Things in Common: The Economic Practices of the Early Christians, Resource Publication, 2017, 114.
[54] ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー――資本主義と分裂症』宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出書房新社、一九九四年、三三五頁。
[55] 黙示録からスーザン=バック・モースが引き出した、クロノスとカイロスがたんに対立するのではなくともに収束する新しい時間性については『紀元一世紀』、二二一-二二二頁を参照。マニュエル・ヤンが「「ジュビリーの実践」から聞こえてくるのは(…)黙示的で土着的で多様な表現形式が躍動する革命的至福千年の預言を肯定する音調だ」(マニュエル・ヤン『黙示のエチュード――歴史的想像力の再生のために』新評論、二〇一九年、二一頁)と述べるように、その時間性は大赦にも十分に接続しうるものだろう。
[56] Peter Linebaugh, “Jubilating; Or, How the Atlantic Working Class Used the Biblical Jubilee Against Capitalism, with Some Success,” The New Enclosures: Midnight Notes 10: 84-98.
[57] ラインボーが参照する両者の著作は以下である。グスタボ・グティエレス『解放の神学』関望・山田経三訳、岩波書店、一九八五年。ナイム・アティーク『サビールの祈り――パレスチナ解放の神学』岩城聰訳、教文館、二〇一九年。
[58] Peter Linebaugh, “Jubilating; Or, How the Atlantic Working Class Used the Biblical Jubilee Against Capitalism, with Some Success,” 92.
[59] マニュエル・ヤン『黙示のエチュード』、二〇頁。
[60] グレーバーは、そうした労働からの解放の処方箋として普遍的ベーシック・インカムに言及するが、それを要求することは今日における「ジュビリーの実践」たりうるかもしれない。じっさいグレーバーは、『負債論――貨幣と暴力の五〇〇〇年』(酒井隆史・高祖岩三郎・佐々木夏子訳、以文社、二〇一六年)やデモクラシー・ナウのインタビュー(https://www.democracynow.org/2011/9/19/david_graeber_the_debt_of_the)でたびたび大赦に言及している。
[61] シモーヌ・ヴェイユ「奴隷的でない労働の第一条件」『シモーヌ・ヴェイユアンソロジー』今村純子訳、河出書房新社、二〇一八年、二一六-二一七頁。