唯物論宣言(Materialist Manifesto)千の唯物論のために 李珍景

 影本剛訳

 

 

 わたしたちは「千の唯物論」という文句を一つの巨大な旗に記す。唯物論とは物質性に対する信のために無数の事物を一つの確固たる固体的本性の中に閉じこめる単一な思想ではなく、むしろ諸事物が「道具」の位置にあるときすら、それらが自身の生存理由を充分に果たす時まで、それらに対する友情を果たそうとする幾多の思想であることを表明するために。諸事物の死んでいる無力な被動性をあざ笑う生命中心主義の純真な誇りと、「事物化」という言葉に深奥な理論を付けくわえ(Lukács,1999)、「犬野郎」や「植物人間」よりもひどい哲学的な悪口として使おうとするヒューマニズムの単純な自尊心と決別するために。人間たちの変わりやすい要求に文句ひとつなしに忠実に従ってやり、あっさり捨てられる時すら悔恨の感情なしに去っていく諸事物の聖者のような忠実性に尊敬の思いを繰りかえし表示するために。最大値の暴力のために最小値の素粒子を搾取しようとする人間たちの意志に反し、科学的真理の最大値を動員してもどうしようのない不可能性を露わにした諸事物の言葉無き抵抗を繰りかえし尊重するために。確固たる「根拠」の表象を提供する堅強な大地の下に隠れて誰かが「ウッドワイドウェブ」と命名した巨大な連結網をつくりだし(Simard et al. 1997; Read 1997)、生命の深淵に深さを付けくわえもし、「自由」の表象を提供する空っぽの虚空のなかに隠れ、人間がつくるグローバルな連結網を停止させて生命の外部を拡張しもする見えない生命体の力にその時ごとに敬意を表現するために。「飼育する」「生産する」のような言葉に含まれた文法の幻想によって忘却されている、自分の体を餌として投げだしてやり、飼育されるやり方で飼育するものたちを飼育する逆説的な共同体の創造者たちに対して今更ながら敬意を表示するために。自分と出会うものたちによって使用されるやり方でその者たちの能力を高めてやり、その者たちに無い新しい能力の部分になってやるという、わたしたちの外からやってくるあらゆるものの謙遜な産出能力(Bennett,2020)に相異なるやり方で愛情を表するために。「道具」という恥辱的な拘束服に閉じこめられたまま近づいてきて、自分を呼ぶ人間たちの感覚と意識のなかに強力な変換のベクトルをこっそりほどいておくその者たちの陰険な能力と多様なやり方で共謀するために。オイコスが消えた時代にも依然としてオイコスに閉じこめられている「もの」たちを、資格なきものたち(demos)の政治(Rancière,2015)のなかへと再び呼びこむために。労働せずには「人間」にもなれない世の中で、労働の機会すら失った者たちを多彩な非労働の世界へと誘惑するために。

 唯物論とは意識以前の物質の実在性に対する一つの強迫的信念ではない。それはわたしたちの理解方法から抜けでた無数のものを、科学が提供する明確な法則や理念が提供する単純な原理で簡単に説明したり打ちたてたりする「愚鈍な博識」ではなく、千という言葉でも足りないほど至極多様な思考に開かれた「博識な無知」だ(Cusanus,2011)。それはまた「真理」の名で保護される常套的な答えの集合に確固とした根拠を提供する自明な原理ではなく、そのような根拠や諸原理を疑問の海の中へ浸水させてしまう問いかけと問題の多様体(Deleuze,2004)だ。物理的な力の世界から身体と生命はもちろん、わたしたちを囲んでいる大気、流動していく欲望、わたしたちの肉体と感覚に交じりこむ動物や植物、居場所を失ったまま虚空をただよう虚構と精霊たち、大気と大地はもちろん、事物の表面や有機体の身体のなかなど、どこにでも存在する数えることのできない微生物、そしてどこに存在するのか推測すらできない無数の顔の幽霊たちこそ、わたしたちの思惟を唯物論へと引きこむアトラクターだ。また思惟すべきであるが思惟できない何らかのものとの強蜜な出会い、わたしが知っていると信じていたものがわたしの目と耳、手と頭から抜けでてしまう事態、わたしの思いのままにならないものとの出会いこそ、わたしたちの思惟が唯物論の敷居を越えられるようにしてくれる恋人たちである。したがって「千の唯物論」はそれ自体としてわたしたちの声を集めて叫ぶ一つのスローガンだ。「わたしたち皆唯物論者になろう!」

 唯物論者になることはいかなることなのか? それは階級化された世界やある事態の階級性についての誰でも知っているような主張を「分析」だと強弁することではなく、皆がそうであると信じる確実な現象すら、見知らぬあるものとして新鮮な再誕生をするように解釈することだ。真理に対する常套的忠実性を証明してくれる確固とした哲学的地盤を別のものたちと共有することではなく、自分の知識と信によって逃すことになる見知らぬものの前で、自分が信じ自分が知っていたものを下ろすことだ。またそれは労働しない者たちに労働を勧める善意の蔑視の視線で、労働者の確固たる人間性を礼賛することではなく、労働の宿命からすら追いだされた無産者の真っ黒な顔に炭を上塗りし、人間を越えた者のこっけいな肖像画を描くことだ。合目的性や理性、意識を必然と対比し、退屈な自由意志の賛歌を伴奏する旧弊的な労働の人間学を暗誦することではなく、意識や理性すらも作りだした人間ならぬものたちの能力を、識別し作用する能力を、細やかに見つめることだ。諸事物の目で人間の身体と意識を見つめることだ。諸事物の足で人間の生のなかに入ってみることだ。諸事物の手で人間の理性をかきまわしてみることだ。

 唯物論者になることとはいかなることなのか? それは理解できない諸事態や偶然割りこんだ諸要因、そして予測や期待を無力化させる突発的諸事件を、必然性と法則のためになんとか消すことではなく、反復される失敗すら「さあ、もう一度!」と、偶発性の空に向かって押しあげていくことをもって、「結局」の確率から解放させることだ。わたしが選択しない現在を喜ばしい肯定の地帯へと変換させることをもって、「なければよかった」過去の事故すら「あってよかった」出来事にすることだ(Deleuze,1999)。それゆえ、それはまた自分を突っぱねたり自分から目をそらしたりする現実に対する悲しみ、自分を破壊するかのように覆いかぶさってくる諸事態に対する恐怖と不安、正しいと確信する自分の考えを逆なでするものたちに対する反感、友と信じてきたものたちの思いもよらぬ行動に対する怒り、自分の感覚が簡単に受けいれることのできないものに対する嫌悪など、自分の思いどおりにならないあらゆるものに対するルサンチマンと対決し、自分の考えや意志の外にあるものたちを受けいれることだ(Nietzsche,2002)。そのように考えすらできなかった方向へと流れていく波に乗るために、その波をつくる力を注視することだ。知らぬ間にわたしを捕えているいくつもの力を知ることだ。

 唯物論が「千」という言葉で表示するように無数に多様なのは、そのようにわたしたちの考えから抜けでたものたち、わたしたちの思いどおりにならないものたちがかくも多いからだ。わたしたち自身さえも、いつのまにか捉えて変えてしまう力が、かくも多いからだ。それゆえただ唯物論者になるのだという決断だけでは、ただ一つの唯物論的立場を固守しようとする信念だけでは、その力を正確に見ることができず、常に異なるものとしてやってくるその諸事態に適切に対処できない。わたしたちは皆、千の唯物論者にならねばなならない。数千数万の唯物論者にならねばならない。その時ごとに呼びださねばならない無数の唯物論の連帯なしに唯物論者になるのは、充分でない。「あらゆる」唯物論の間の柔軟で適切な連帯を要求するわたしたちのこのスローガンは、マルクスの有名なスローガンを(Marx,2016)ちょっと借りてきて書きなおしても良いだろう。「万国の唯物論者よ、団結せよ!」

 わたしたちは千の唯物論のあいだを行ききし、この唯物論からあの唯物論へと行ったり来たりして、唯物論者にならねばならない。行ききすると述べたが、ただ「唯物論」という表示がありさえすればどこであれドアを開いて入っていくのではなく、その時ごとに有効な唯物論を調べ、探しだして入っていかねばならない。一つの唯物論に定着してはならないが、「どこであろうが唯物論ならばよい」というのは唯物論の草原を遊牧する方法になりえないのだ。それゆえ壮大に展開された唯物論の「高原〔プラトー〕」を行き来する者にとって、まさに緊要なのは常に忘れてはならない一つの問いだ。「それはいかなる唯物論なのか?」

 唯物論者になるということは、この問いを抱え、あらゆる唯物論へ向かっていくことだ。あらゆる唯物論が存在する唯物論の平面に向かっていくことだ。しかしいかなる唯物論もただ一つの唯物論になりえないように、いかなる唯物論者もあらゆる唯物論者になることはできない。あらゆる唯物論の平面に向かっていくということは、あれこれの唯物論を一つに集めることではなく、可能なあらゆる唯物論のあいだを周遊することだ。唯物論的遊牧の唯物論的方法は、いま当面している問題に適合するものはいかなる唯物論なのかを問い、そこにある唯物論がそのような唯物論なのかを問うことだ。なんでもいいから唯物論者になるのではなく「いかなる唯物論者になるべきなのか?」をその時ごとに問うことだ。「いまここでは、いかなる唯物論が必要なのか?」を問うことだ。「いかなる唯物論を創案すべきか?」を繰りかえし問うことだ。

 無数の唯物論の地図が必要なのはこれゆえだ。いかなる唯物論があるのか、この唯物論はあの唯物論といかに繋がっているのか、あれやこれやの唯物論の発生因は何なのか、その唯物論の発想法はいかなるものなのか、その唯物論を使うためにはいかなる諸概念で訓練されねばならないのか、などなどを表示する位相学的地図が。それはあらゆる唯物論を込めることはできないが、あらゆる唯物論に向かって開かれた地図であり、絶えず新しい唯物論が追加されることによって変形される地図だ。まさにそれこそわたしたちが「千の唯物論」という名前で描こうとするものだ。

 

 

 唯物論とは実在性に対する愛着が分泌する神経伝達物質の産物ではないし、わたしたちが飲み食いしたり使用する諸物質が身体のなかで作りだした思惟の空間のようなものでもない。人間なき諸事物の実在性が人間の知識と生を支える確固たる根拠になるであろうという信は、不安定な世界に対する不安を耐えられない軟弱な精神の裏面であるのみだ。唯物論者は確固たりえないものに分厚くペンキを塗ることで自分の安全を確保したと信じる盲目の信念の断固さではなく、いかなる不安定な状況もあるがままに受けいれ、前が見えない闇すら目を閉じずに受けいれる勇気を友にする(Blanchot,2010)。結局は失敗に帰着するかもしれないが、もう一度自分が知っていることの外へと敢えて出ていく毅然とした勇気を友にする。

 したがって唯物論者が注目するのは、堅強で重々しい物質の実在性ではなく、むしろ人間の意志と欲望に対する諸事物の抵抗であり(Latour,2012)、人間の意識や思考を動かす身体の力であり(Spinoza,2007)、人間の予測を抜けだして展開する生命の力だ(Bergson,2005Deleuze,2007)。唯物論者の同志は、あらゆる所に真理の旗を掲げようとする強力な理性ではなく、強力な理性でもどうにもできない理性の外部だ。あらゆるもののうち「八割」は、既に答えを提供してやる普遍的原理ではなく、普遍的原理の力が故障した(Latour,2012)時に発生する問題であり、その諸問題に向かって投げかける問いだ(Deleuze,2004)。階級や性、人種や種、植民主義などをめぐる戦争においてすら、唯物論者になることとは、相手側の悪を理由に怨恨の感情で満たされた怒りの否定性を正当化してやったり、味方の善を理由に何らかの主張の真理性を先験的に確保してやる立場に立つことでもない。その反対に、唯物論とは充分な理由がある怒りや恨みに対しても怨恨の感情に捕えられているのではないかと省みる術を知る落ちついた視線だ。「怪物と闘う時は怪物と似ないように注意せねばならない。」(Nietzsche,2002)皆が正しいと言う判断に対しても熟考のために相手の立場に立つ術を知る果敢な履行能力だ。「立派な君主になろうとするなら人民の立場に立つ術を知らねばならず、立派な人民になろうとすれば君主の立場になる術を知らねばならない。」(Machiavelli, 2015Althusser, 1997

 唯物論とはわたしたちに近づいてくるあらゆるもの、わたしたちを取りかこむあらゆるものとわたしたちが出会うやり方であり、その出会いを通してわたしたちの身体へと押しはいってきたものに対する首肯であり、そのように押しはいってきたものとわたしたちの身体をかき混ぜてつくられる情動と感覚の生産であり、そのように生産されたものたちを通して「わたし」と呼ばれるものを揺るがし、その境界を変える作用だ。同時にそれはそのように絶えずかく乱され、変化され、構成される「霊魂」を通して、世の中へと入りこむ執拗な作用であり、既存の世界から離脱する小さな部分を反復して作りだす喜ばしい生産であり、強力な普遍性の網のなかに存在する無数の穴を笑いながら行ききする愉快な首肯であり、そのようにしてわたしたちが出会ったもののなかへと吹きこむ自分の息の音が見知らぬものになったことを感じる、驚くべき感覚方式だ。

 端的にいって、わたしたちにとって唯物論とは外部による思惟だ(李珍景、2009)。思いもよらぬ外部との出会い方であり、その外部によって事態を思惟する方法であり、そのように外部を通してわたしたちの身体と観念を取りかえる感覚だ。またそれはそのように異なった思惟と感覚を通して外部に作用する方法であり、そのような作用を通して支配的な世界のなかに外部を作りだすやり方だ。そのようにわたしたちは外部によって絶えず穴が掘られていくメンガーのスポンジであり(李珍景、2002)、そのようにわたしたちは世界に繰りかえし穴を掘っていくしぶといもぐらだ。自我はそのようにその穴によって絶えず空になっていき再出現する世界であり、世界はその穴によって絶えず軽くなり消失していく自我だ。

 唯物論者はいかなるものも関係によって異なるものになることを知っている。いかなるものも不変の本性を持たない。それゆえいかなるものも無数の本性を持つ。隣りあう外部によって異なっていくいくつもの本性を。あらゆるものは自分が出会う隣りあうものに規定性を付与する原因であると同時に、その隣りあうものによって規定性を得る結果だ。内部の奥深くに隠れた不変の本性のようなものはない。堅強に閉じられた内部とは、超越性の思惟が胚胎される空間であるが、それすらもじっさいはなんらかの出会いによって織りこまれた外部だ。したがって唯物論者はあるものの内部においても、その内部を超過し、内部性を瓦解させる外部を見る(Deleuze,2003)。たとえば速度と加速度のような強度は、時間や空間、質量のような確固たる概念すらも内部から変えてしまい、ある有機体の発生を規定する強度的総合は、遺伝子と種別性を連ねる分化の線を超過すること(Deleuze,2004)をわたしたちは知っている。「ラング」や貨幣のように超越的権力を行使するものを内部から変えてしまう強度的諸変異(Deleuze·Guattari,1980)が存在することをわたしたちは知っている。諸原子の個体的形象を内部から蚕食し、液体的な流れへと変えてしまうクリナメンがあることを(Epicurus, 1998Lucretius, 2012Marx, 2001)、「オートポイエーシス」の境界のなかには既に掘りはいっていった共生と共‐産(sympoiesis)の(Haraway,2008;チェ・ユミ、2020)出来事があることを、閉じられた単子に窓を開けて掘りはいっていく出会いと遭遇(Tarde,2015)があることを、わたしたちは知っている。

 外から内へと、あるものを侵犯し、横切る外部性の力が、一つの存在者を別のものと束ね、そのように束ねられたものたちが個体を構成する。固体化に加わるすべてのものは、それをもってある結果の産出に参与する原因であり(スピノザ、2007)、その結果によって本性や規定性を得ることになるという点で自らその結果でもある。したがって唯物論のこの平面においては、ただ関係の内在性のみ存在する。内在性の思惟とは外部による思惟だ(李珍景、2002)。変わることのない本性を内部の奥深くに隠しておくあらゆる内部性に、内部の超越性に反する思惟だ。唯物論があらゆる種類の超越性を拒否するのは、それ〔唯物論〕が内在性を要諦とするからだ。神という超越者のみが唯物論の敵ではないのだ。いかなる条件においても変わらないもの、不変の本性を内部に持っていると見なされるあらゆるものが唯物論の敵だ。

 唯物論自身もまたこのような内在性のなかで思惟されねばならない。唯物論は対象を異にして扱う不変の思考法ではない。自分が出会った外部によって自らが変わることこそが唯物論的唯物論だ。したがって唯物論者にとって唯物論は一つではない。差異に鈍感な怠けた霊魂や変化にたやすく飽きる軟弱な霊魂にとって、一つの唯物論で千の外部を扱おうとするような、単純ゆえに簡単な、明確ゆえに楽な方法は、いかに大きな誘惑であろうか。しかしこのような唯物論は唯物論ではない。唯物論とは外部による思惟だと言う時、外部は思惟の対象ではなく、唯物論は外部に対する思惟ではない。唯物論とは外部によって本性すら異なるものになる様相を捕えようとする思考方法であり、外部を通してあらゆる対象の実体性を消そうとする思考方法であり、その外部によって思惟しながら自身すら変わろうとする思考方法だ。外部によって変わるものとして対象を捕え、外部によって異なるものになるやり方で対象を捕える柔軟な思考方法だ。異なる外部を扱おうとする時ごとに異なる思考方法が、異なる唯物論が必要だ。千の対象を扱う一つの唯物論ではなく、千の外部によってつくられる千の唯物論があるのだ!

 外部による思惟、つまり「外部性」という言葉で要約される唯物論とは、千の唯物論が位階なしに同等に置かれた平面、唯物論的思惟の流れがあらゆる方向へと流れていける平滑平面、そのように流れていき異なる唯物論と出会い、新しい唯物論が誕生する平面、その生成の平面に付けられた名だ。千の唯物論が出会い交差し合流し変性される内在性の場に付けられた名だ。

 

 

「これ以上分けられないもの(in-dividual)」に対する19世紀的な誤解の産物である「個人(individual)」という観念ほど、唯物論‐機械の作動を阻害するものはない。有機体と個体を同一視することを要にするこの観念は、人間や生命体が関与したあらゆる思考を制約する古く頑固な壁だ。この観念は、生命体についての可視的自明性のおかげで、生命に対する知識と関係なしに、いまなお執拗に生存しつづけている。これは、有機体が単一な実体であるという古き信、有機体は統一された全体であるという誤認、そのような全体の存続こそがそこに与した諸部分が服務すべき目的という観念、それらすべての肥やしだ。しかし生命体であろうがなかろうが、これ以上分けられないものは無い。生命体も、生命なき事物も、無数に多くの分割可能なものたちがあつまってつくられた巨大な衆‐生(multi-dividual)だ(李珍景、2010)。絶えず変化する境界をもち、集まりなおし散らばりなおす巨大な共同体だ。ミトコンドリアや葉緑体を通して確認されたように、生命体の歴史とは失敗した摂食からはじまった思いもよらぬ共生をとおして創造的飛躍を繰り返してきた過程だった((Margulis·Sagon, 2016;  Margulis, 2007)。あらゆる生命体はバクテリアの巨大な群体だ。換言すれば群体になるやり方で、相異なる個体化に巻きこまれたバクテリアの共同体だ(李珍景、2012)。

単一な実体としての有機体はない。分割不可能な個体はない。個体があるとすれば、それは分割可能なものたちが一つに結合し個体化した結果であるのみだ。個体はある。個体化が成功的に進行した場所であれば、どこにでも個体がある。そのようにアルファプロテオバクテリアは自身を捕食したものと一つの個体をつくってミトコンドリアになったのであり、そのように蜂と蟻は個体化に与して一つの個体をつくった。またそのようにサッカー選手はチームという個体をつくってその一部になり、そのようにわたしとコンピューターと豚と携帯電話は一つの個体になる。逆からいえば、あらゆる個体は共同体だ。個体化を通して一つに束ねられたものたちの共同体だ。したがってわたしたちは一人である時すら一人ではないことを知る。孤立したわたしを取りかこむものたちの巨大な連結網があるだけでなく、わたしたち自身がそのように連結された巨大な諸部分の共同体であることを。個人と共同体を対比し、個人主義と全体主義を対立させる多くの主張を観念論者たちに引きわたしてやるのは、わたしたちが感覚的自明性の下に隠れるこの秘密をよく知っているからだ(李珍景、2010)。

唯物論者は、わたしたちの身体が、それ自体として無数の多様な欲望の「分裂者(schizoid, schizo-id!)」だという言葉(Deleuze·Guattari,1972)を、正確にこのような意味だと理解する。器官ごとに、細胞ごとに、個体をなすあらゆる部分ごとに、各々の欲望があるのだ。わたしたち各自の身体のなかにあらゆる方向へと分裂したミクロな力と意志があるのだ(李珍景、2020)。意識が知りえない分子的諸欲望が身体のなかを流れめぐり、身体のなかで存続し、その身体を存続させている。その分裂した力と意志が、「一つのように」動かせるリズム的総合が(李珍景、2016)、個体化の結果を個体として持続させる。あらゆる方向へと発散するこの欲望の流れを性欲に単一化することも、そのような性欲とそれを抑圧しようとする父の超自我の対立として諸欲望の差異を単一化することも(Freud,2004)、わたしたち唯物論者たちとはかけ離れている。「個人」であれ「集団」であれ、それぞれの方向へと流れる分裂的な意志の流れがあり、その諸意志を総合して統合し、その時ごとに一つの意志へと変換させる「主権的な」変換(Nietzshe,2002;李珍景、2020)があるのみだ。

あらゆる存在者は自身が編みこまれた共同体の一部として存在する。自身が異なるものとともに結合されて発生する出来事の一部として「行動」する。誰かが難民や無産者の苦痛に対して語るとき、その者は難民や無産者を代弁するのではなく、その者たちと自分が編みこまれた共同体の一部として語るのだ。誰かが動物の生存と権利のために活動する時、その者は動物を代弁するのではなく動物と自身を含む共同体の一部として、その手足になり活動するのだ。誰かが氷山と氷河に対して研究するとき、氷山と氷河を代弁するために思惟するのではなく、それらと自身が連結された共同体の頭になって思惟しているのだ。もちろんいかなる共同体も、一つの口、一つの頭を持つことはない。あらゆる共同体はn個の口、m個の手、p個の足、q個の頭をもっている。わたしたちの胃や膀胱は、しばしば舌と同じくらい能弁であり、腸や筋肉はしばしば脳よりも早く考える。ある共同体の口と手足、そして頭は、このようにすぐ隣りあう場合においても分裂している。それ以上に、ある共同体の口たちや頭たちそれ自体も分裂している。あらゆる共同体は分裂者なのだ。

それゆえわたしたちは「代表者」をさほど信じない。「代議」と「代理」、「代弁」という近代的観念を信じない。その者たちはその者が属した共同体の無数の口の一つであるだけだ。むしろわたしたちは資格ある代弁者たちが集まって合意をする「事物の議会」(Latour,20042009)よりは、非人間の問題を人間の議会においてすら結局は受容せざるをえなくさせる共同体の言葉と活動が、資格なきものたちの思惟力量と行動能力が、より一次的だと信じる。参加者たちすべてが合意できる議題をつくること以上に、重要だと考えられず在るとすら知りえなかった問題をあらわにすることが、より重要だと信じる。「貧民たちの飢え」と「ペンギンの生存権」を対比して、再び代弁されることの地位を「優先性」という美名の下に序列化することは(Lomborg, 2003; Bennett, 2020)、ヒューマニズムの「最終」試験だ。しかし貧民とペンギンが対比される時、じっさいに対比されるのは飢えた貧民が属した共同体と危機のペンギンが属した共同体だ。つねに問題は代弁される者や代弁する者ではなく、その者たちが属した共同体だ。衝突することに隠された共同体の非可視的部分を可視化し、衝突しているものを相異なる共同体間の問題として捉えねばならない。問題化された事態のなかで、いかなる人間‐事物‐共同体の問題がより深刻で致命的なのかを、その時ごとに判断せねばならない。

 

 

唯物論の平面上であらゆるものは存在論的平等性を獲得する。そこには人間と非人間、生命と事物、動物と植物などの対立を通して樹立されたいかなる位階もなく、超えることのできないいかなる境界もない。唯物論の平面上では存在するあらゆるもの、作用するあらゆるもの、力をもつあらゆるものは「存在者」として平面化される。この平面上であらゆるものは「自然」に属し(Spinoza,2007)、あらゆるものは「機械」だ(Deleuze·Guattari,1980)。わたしたちはこれを「存在論的平面化」と命名する。この平面化を通してわたしたちはわたしがいる場所から最も遠いところへ行こうとする。その最も遠いところが、まさしくわたしが存在するところだ。「平面」というのは、わたしが行けないところはない、という意味だ。そのように遠いところへ行き、わたしは障害者になり、女性になり、黒人になり、先住民になり、動物になり、植物になり、細胞になり、バクテリアになり、カビになり、事物になり、分子になる。識別不可能になるよう入りまじる強度の流れになる。ラカンが捻ったデカルトの認識論的コギトは、存在論的命法として再び捻られねばならない。「わたしはわたしが思うことのできないところに存在する、ゆえにわたしはわたしではない存在者によって思われねばならない。」そのような思惟のなかでわたしは相異なる力の強度的連続体であり、無数の分子的欲望の分裂的流れであり、事物を道具として使用する時すらそれらの作用に反応し、それらの言葉なき要求を実行する事物の代行者(agent)であり、バクテリアの個性ある群体であり、化学的に通信する細胞たちの共同体だ。有機体のあいだの捕食の敵対の下で起こる分子化された植物と分子化された動物のあいだのミクロな同盟の場だ。無数の性、無数の人種、無数の障害が入りまじり、その時ごとに新しく誕生する多様体だ。

存在論的平面化とは、あらゆるものを元素的同一性というまた別のミクロな一者へと還元すること(Wilson,2005)ではなく、あらゆる結合の多様性をいかなる一者も無しに把握するためのものだ。存在論的平等性は、あらゆるものに対して形式的等価性を与える自足的仮定ではなく、重要な差異が分岐する地点にいつのまにか入りこむ慣れ親しんだ尺度を抜けでて、捉えるための命法だ。また、存在論的平面化は、わたしと最も近しいものの定規で異なるものを測るのではなく、わたしと最も遠いと考えられるものの定規で自身を測る方法だ。わたしが世の中を認識する方法で「その者たち」の認識方法を見るのではなく、「その者たち」が、たとえばとても遠くにある植物や事物が世の中を識別する方法で、わたしの識別方法を見ることだ。最も遠くにある「その者たち」の目でわたしが属した世の中を見直すことだ。「なんでもないもの」や最も「卑しいもの」へと、卓越したあらゆるものを存在者の海の中に浸水させてしまうことだ(李珍景、2012)。

西欧ではない非西欧、男性ではない女性、人間ではない動物の目で世の中を見る時、確実に世の中は異なって見えることをわたしたちは知っている。その目でわたしたちは異なる世界を探す。しかしともすれば非西欧の視線は西欧人の目に慣れ親しんだ特定の西欧批判の視線と同一視され、女性の言葉は女性のなかの数多くの「女性」たちを単一化し、動物の立場は植物や事物を他者化させることもまた、わたしたちは知っている。そのものたちさえも、わたしたちとかなり近い隣人になったのだ。最も遠いところがわたしが存在するところである限り、いくら遠いと思うところも、実は充分に遠くない。存在論的平面は平坦な平面ではなく、障害物でいっぱいに満ちた平面だ。平面化の障害物は平坦さだ。わたしたちは常に平坦さに引っかかってこける。

したがって存在論的平面化は、むしろ最も近いところすら最も遠いものとして出会う最大距離化の方法だ。不可能性に向かっていく「超越論的経験」(Deleuze,2004)の果てない反復だ。しかしこれは、壁のかなたの闇を強調しようとして、対立する諸「世界」のあいだの壁の越えることのできない厚さを強調することとはかけ離れたものだ。その不可能性とは、良心以外には越えることのできない道徳的試験の壁ではなく、感覚の手探りと理性の彷徨がはじまる暗い困惑のはざまのことだ。存在論的平面化を通して、わたしたちはむしろ闇の洪水が此岸の世の中を覆う出来事を妄想する。高い強度の地震によって、確固たるものだと信じてきた感覚と理性の大地が、無数のはざまへと分かれるような出来事を想像する。

苦痛を受けるものたちが偏在する世の中であるがゆえに、ある種の被害や苦痛を思惟の端緒にすることは、早く簡単に説得力を得る。しかし他者性の思惟が「苦痛を受ける顔」を対象にする限り(Levinas,2018)、思惟は顔をもつ人間から、言葉なきサバルタンから(Spivak,2013)、動物から(Singer,2012)、更に進むことはできない。わたしたちが苦痛を感知できない他者たちは、他者性の思惟からすら排除される。苦痛の表象が他者たちを他者化する。その思惟のなかでの他者とは、主体の思惟対象、同情と助けを待つ行為対象に過ぎない。さらには人間の霊魂が善き倫理的思惟を持続するためには、苦痛を受ける他者が無限性のなかに閉じこめられて永続しなければならない。「無限者」の栄光の場所で、苦痛を受ける絶対者として永続しなければならない(Levinas,20202000)。他者を思惟するとき、唯物論はこのような思惟と決別せねばならない。人間の顔をした他者たちと決別せねばならない。苦痛を思惟する時すらも苦痛の表象から抜けださねばならない。他者たちに対する思惟ではなく他者たちによる思惟にならねばならない。慣れ親しんだ他者たちすら消えさるようにみえる最も遠いところまで行かねばならない。

わたしたちが「存在論的転回」と命名される思惟を支持するのは、このような理由からだ。しかしわたしたちはもう少し遠くへ進まねばならないと信じる。「対称性の思惟」が重要だ(Latour,2012)と信じるならば、文化と自然、霊魂と肉体を思惟する相異なる方法のあいだの対称性(Descola,2014)に留まってはならない。血縁(filiation)を超過する同盟(alliance(Castro, 2018)は、たんに人間の共同体に極限されない。動物の観点と人間の観点のあいだを行ききする「先住民の哲学」は、わたしたちの視線を有機体の重力から離脱させる横断のベクトルへと変換されねばならない。有機体以上の巨大共同体と細胞や分子水準の小さな諸「個体」のなかで恒常的に発生する同盟へと向かわねばならない。食人という極端な形態のなかで発見される逆説的同盟は、食べて食べられる有機体間の「捕食」すら実は共同体を構成する超マクロ的で超ミクロ的な同盟だという逆説にまで進まねばならない。「捕食」の敵対性を消さずに、である。一方の極端に食べて食べられる「食物連鎖」の共同体があるならば、他方の極端には消化されたアミノ酸が消化したアミノ酸と同盟して構成されるポリマータンパク質がある。そのあいだにわたしたちは動物と植物、植物と植物、植物と菌類、そして微生物と微生物のあいだの無数の同盟が常在していることを見ることになるだろう。

反面、相異なる身体から発源する諸観点の対称性を経由して、霊魂の同一な再現法の仮定へと進んでいくこと(Castro,2018)は、神話すら強度的多様体として扱うというそもそもの唯物論的問題設定と反対方向へ行くことではないのか? たとえば「転回」の場所付近で「多文化主義」はもちろん「多自然主義」すら越えるのだと言いながら、生命の本性を表象能力へと還元し、表象の記号学を人間ではない生命体にまで拡張する試み(Kohn,2018)は、存在論的転回がいかに失敗しうるのかを見せてくれる。霊魂の普遍性に対する「先住民」の観点主義がいくら新鮮だとはいえ、わたしたちは霊魂や表象ではなく、その反対に行かねばならない。あらゆる存在者の非表象的識別能力を細胞的で分子的な水準へまで推しすすめる方向へと行かねばならない。いくら近くにあっても遠くにあるものを通して、近いものと遠いものの区別が消える地点にまで推しすすめねばならない。あらゆる境界線を行ききし、あらゆる境界のなかで新しい境界を増殖させ、モル的格子を消す分子的流れのなかへと入らねばならない。あらゆる形式を消して、あらゆる規定性を蚕食する、変形の抽象機械を稼働させねばならない。

動くことと同じくらい動かないことが、生きていることと同じくらい生きていないことが、人間と同じくらい人間ではないことが、それぞれなりの力を持って異なることに対して作用する。その作用の「本性」や様相、強度や位相は、わたしたちがその形象のある諸性質を束ねて作りだした「人間」「動物」「植物」「微生物」「事物」などの観念ではなく、あるものを取りかこむ関係ないし配置によって異なるものになる。逆にいえば平面化された存在者とは、あらゆる配置や関係から脱領土化された純粋潜在性を意味する。あらゆる規定性が消えたまま、千の規定可能性を持つ未規定性が、中観派の言葉を借りて「空」(龍樹、2001)と呼んでもよい未規定性がそこにある。存在者の存在、「である」と対をなすいかなる規定性もない、ただ「ある」とのみ表現される未規定性(李珍景、2019b)がそこにある。

 

 

強いてレーニンやアルチュセールの名を借りずとも、哲学史は明らかに戦場であったし、したがって哲学はそれ自体として、常に‐既に一つの戦闘だ。相異なる立場の対決が起こされる場だという点で、似たように見えるもののあいだに区別の境界線を引く作業(Althusser,1997)だという点で、その境界をあいだに挟んで互いにぶつかる思考方法が起こす対決だという点で、いくら小さな哲学的戦闘もそれ自体として一つの戦争だ。しかしわたしたちが哲学が戦場だと信じるのは、長く経ったという点で古いものを意味するだけである「確固たる」価値と対決することを、最も一次的な課題にするという理由からだ。唯物論は世論や常識、定説(orthodox)や様式などの名を重ねて得られる、かの確固たる諸見解に対する対決だという点で、つねに砲煙なしに起こされる戦闘だ。唯物論者になるということは戦士になるということだ。

しかしわたしたちはその戦場を遊びへと変え、戦場を遊び場にしようとする。価値の対決とはあきらかに生を賭けることであり、それゆえしばしば致命的なものであるが、確固として見えるものに駆けていって倒す対決は、いかなるものとも比較できないほど楽しいことであり、古い価値の舞台幕を破って背後の闇のなかに埋められたものを呼びだすことは、この上なくワクワクするし誇らしいことだ。したがって唯物論者にとって哲学的戦争は、何かを防御して守るための悲壮たる戦争ではなく、しっかりしているように見える要塞を前にした時にも、なぞかけを解くように隙間と亀裂の地点を探す愉快な戦争だ。闘いで力を消尽する戦争ではなく、闘いで力を高揚させる遊びだ。もちろんそれは生がかかっているがゆえに、たんなる無垢な遊びだけには留まることはできない。それは確固さや確実性に包まれることなどは期待できない未知の地へ向かう冒険であり、標識などは探しだせないところに、慎重に新しい標識を立てていく旅行だ。掴むことのできない岩に鑿で穴をうがち、再びやってくる誰かのために体を掛けうる楔を打ちこみながら進む岩盤登攀だ。

それゆえそれは、食べたことのない食物を食べたり、聞いたことのない音楽を聴いてみることにすらいくらかの勇気を必要とする者たちにとって、決して少なくない勇気を要求するが(李珍景、2013)、新しいことを試してみたい唯物論者たちにとっては光る好奇心があれば充分だ。勝負がかかっている重要な問題の時さえ、「死へと先駆する決断」(Heidegger,1998)のように人を気おくれさせる悲壮たる重々しさではなく、「失敗すればまたやればいい」と喜んで駆けよっていく真摯な果敢さがあれば充分だ。必要なのは牌を読み数を計算する卓越した博徒の合理的勝負根性ではなく、「今回は何がでるかな」と気にして予測される敗北の可能性を忘れる純真な子どもたちの分別なき勇気だ。絶えず勝敗の計算を遊びの楽しさだと誤認する博徒の繚乱さではなく、ある深刻な敗北すら意に介さず、再び始めることのできる無謀さだ。持続の過程が失敗に帰着したことを噛みしめる怨恨の冷笑ではなく、失敗すら持続の過程がしばらく留まる中断として首肯する肯定の粘りづよさがそこにある。唯物論者の能力は、持続の期間を失敗で無効化された徒労の大きさで計算する無気力な鋭利さ(「10年間積みかさねた塔が崩れてしまったではないか!」)ではなく、現在の失敗すらも過去に属する成功の大きさで計算する馬鹿たちの「精神勝利法」(「今回は10年間も成功したではないか!」)に近い(李珍景、2010)。唯物論者の霊魂を満たしているのは、すべての失敗を新しい始まりの理由にする肯定の精神であり(Deleuze,1999)、思惟の不毛地帯にしがみついて思惟の新しい大地へと変えていく遊牧民(Deleuze·Guattari,1980)の粘りづよさだ。

戦争を遊びに変えるために、確固たる価値をねじってみる遊びを永遠に楽しむために、わたしたちは重力に耐えて同一の岩を背負って登るシシューポスの労働ではなく、狭い空間で小さな円環を反復して描く時すらも、たった一度も同じ軌跡を描かないフィギュアスケートの舞にしたがわねばならない。実在性に対する固執めいた信を大義に対する忠実性と誤認する愚かな軍人ではなく、何があの同一の事物すら知らぬ間に異なるものへとなさしめたのかを、常に問いなおす緻密な戦士にならねばならない。勝負を意に介することはないが、問いを投げかける時ごとに条件や状況の変化を詳しく知りぬく繊細な感覚を持たねばならない。信念のぶ厚い布団をかけて眠る愚直な霊魂ではなく、大気の変化に乗っていく柔軟な身体を持たねばならない。それゆえ「じゃあ今回はどんなことを?」と言いながら抱えあげる岩を取りかえることができ、「じゃあ今回はどんな道を?」と言いながら背負ってのぼっていく道を取りかえることができる時、シシューポスの労働は遊びになる。望みなき絶望で耐えねばならない永遠に反復する刑罰は、永遠に反復しうるのでよい遊びになる。唯物論者は避けえないことを首肯するという点で一種の「運命論者」であるが、わたしたちが首肯することは、「避けえないこと」を否定しえない必然として耐え忍ぶ否定的受動性の宿命論ではなく、覆いかぶさってくるものに巻きこまれて思いもよらぬ道を行くことになることを幸運と感じる肯定的受動性の運命論だ。

戦争は凡人を戦士にする。哲学的戦争もまた凡人を哲学的戦士にする。唯物論的戦士にする。戦争は人を機械として扱う。別の機械たちとともに作動する戦争‐機械をつくる。哲学的戦争もまた人を機械にする。哲学的戦場でわたしたちは戦争‐機械になる。確固たる権力になった価値と対決する柔軟な戦争‐機械になる。銃の代わりに概念を武器にして敵陣を突破する戦争‐機械になる。死の煙が立ちこめる戦場ではなく生の香に満たされた戦場で、力の流れ、欲望の流れ、感覚の流れ、考えの流れ、一言で言って生の流れを新しく切断・採取する戦争‐機械になる。

「千の唯物論」を旗にかかげ、本のあいだへ流れるように行ききする時すら、唯物論者は戦士であり戦争‐機械だ。唯物論的思惟と感覚にしたがい、戦闘の起こる場所ごとにあれこれの唯物論を生産する戦争‐機械だ。新しい唯物論的諸概念を鍛え、また別の唯物論的文章や本などの知識‐機械を生産する思惟‐機械だ。唯物論的知識‐機械と接続し、唯物論を稼働させる思惟‐機械だ。わたしたちの思惟と接続して作動しつつ、唯物論的知識‐機械は、わたしたちの脳のなかに唯物論的思惟の粒子を放射する。唯物論的知識‐機械と接続し作動しつつ、わたしたちの脳はわたしたちが暮らす世界へ向かって唯物論的な文字の流れを放射する。身体化され作動する思惟の流れを解きほどく。そのようにしてわたしたちは唯物論‐機械になる。唯物論者になることとは唯物論‐機械になることだ。

わたしたちは常に‐既に機械たちの巨大な連結網のなかに存在する。わたしたちは一人で作動すると信じる時すら、小さな部屋の中で一人で作業する時すら、無数の隣りあう機械と接続して作動する。わたしが直接出会って接続した機械だけでなく、その機械と接続したまた別の隣りあう機械たちが常に‐既にわたしとともにあり、わたしとともに作動する。一つ一つ追跡すれば宇宙全体へと拡張されるような(李珍景、2009)この巨大な連結網のなかで、わたしたち各自は常に巨大な集合的機械であり、その集合的機械の一部だ。わたしが作動する時ごとに宇宙的スケールの巨大機械が作動するのだ。唯物論的思惟‐機械の性能は、そのように連結された諸機械が産出する集合的効果によって規定される。

わたしたちはそのようにして唯物論‐機械になり、別の機械たちと接続しようとする。唯物論的機械だけではなく、あらゆる種類の機械に接続するであろう。わたしたちが接続したそのあらゆる機械のなかに唯物論の粒子を流しこみ、唯物論的思惟を押しこむであろう。そうすることでその機械もまた唯物論‐機械にするであろう。いたるところに広がっている機械たちの連結網のなかへ入り、機械たちが接続される諸地点に唯物論の油をさすであろう。そこから新しい唯物論的機械の芽を育てるであろうし、それらと再び接続し、新しい唯物論‐機械をつくるだろう。

 

 

バクテリアが自分たちの共同体をつくったように、農民たちが土地と家畜、稲と麦、鍬と鎌などとともに自分たちの共同体をつくったように、わたしたちはわたしたちなりの共同体をつくる。あまりにも詰まっていて変換の余地が少ない生物学的共同体と異なり、諸部分のあいだの余白が大きく構成諸要素のあいだの距離が広い、連結様相の変化や何らかの諸要素の移入がはるかに簡単な共同体を、わたしたちは「コミューン」と命名する。慣れと安穏の内部性のなかに閉じこめられた共同体ではなく、思いもよらぬことに開かれた外部性の共同体がコミューンだ(李珍景、2010)。唯物論的に作動する唯物論的共同体がわたしたちの考えるコミューンだ。あらゆる共同体は各自がそれ自体としてそれぞれ異なる宇宙的連結網である諸個体があつまって個体化された個体だ。それゆえ唯物論者にとってコミューンとは、宇宙的スケールの連結網のなかの小さな部分であるが、それ自体が一つの宇宙的連結網である諸個体があつまって構成された集合だという点で宇宙より大きな部分だ。

唯物論者は特異点をつくる者たちだ。自らをある特異性を形成する一つの特異点として部分化しつつ(part-icipate)新しい集合体を構成する者たちだ。新しい力を産出する総合のなかへ自ら巻きこまれていく者だ。「千の唯物論」という旗の下に、わたしたちは一つの特異的集合体をつくる。唯物論的思惟の力を放射する知識コミューンの特異性のなかへ巻きこまれていく。知識コミューンとは、知識を「餌」にして人を呼びこむ力のアトラクターであり、そのように呼びよせられた者たちを友へと変換する集合的変換機だ。人はもちろん、知識を通して連結された異質的なあらゆる資源を一つに束ねて友にする友情の共同体だ。知識の力をエネルギーにして別の世界を創案するもう一つの集合的機械だ。またそうすることをもって異なる種類の生を周囲に触発するために、新しい知識を生産する機械だ。絶えず故障するが、故障を通して新しいものへと変換される機械であり、数えられないほど失敗するが、失敗を新しい始まりの出発点とする拠点だ。純益を計算する代わりに計算できない利益を追求する商店であり、「私心なき関心」であふれかえるアトリエだ(李珍景、2017)。失敗を友にするがゆえに到来する何らかの偶然すら自分の味方だと錯覚する純真な機械の遊び場だ。その機械的特異点が系列化される時ごとに、別の形象(con-figure)として誕生することを繰りかえす配置の名だ。わたしたちはこのような配置、このようなコミューン的機械をつくり、つくりなおすことを反復しようとする。わたしたちはコミューン主義者だ! コミューン的知識‐機械を稼働させるコミューン主義者だ。

周知のように、一人で行う労働はない。一人で行うと信じる時すら、だれもがグローバルな分業の連結網のなかで労働する。一人で書く文章はない。文章を書くことに要求される孤独や孤立の空間は、常にかの巨大な連結網が、文字に沿って流れる何らかの外部が折りたたまれ巻きこまれるところだ。文章を書こうとキーボードをたたく指は、まだ書かれてもいない文章を既に読んでいる目のなかで作動する。モノローグはない。一人でつぶやく些細な独白すら、かの巨大な連結網のなかで誰かに語っているのであり、誰かを相手にして語っているのだ。一人で行う思惟はない。「わたし」が考えていると信じ、自分の頭で思惟すると信じる時すら、常に「わたし」を取りかこんでいるものたちによって思惟するのだ。わたしが知っているものの上で思惟するのであり、わたしが正しいと信じる通念に包囲されて思惟することだ。そのようにして包囲されたものたちに切れこみを入れ、それらに隠されて見えないものを呼びこんで思惟するのだ。新しい諸概念の連結網をつくり思惟するのだ。

あらゆる独創的な思惟とは、それが発話する地点に集まったものたちが混じりあって沸きあがることだ。独創的な個人とは偶然性と隣接性、類似性と対決などの線に乗って集まったものたちが連結し、衝突し、煌めく小さな閃光へと変わる地点だ。創造的個人とは、かなり遠くからきたものたちの異質的な流れが最大強度で出会って入りまじる最も急な激流の合流点だ。したがって唯物論者にとって創造的作業とは、「わたし」の周囲に押しはいってくる異質的な激流の素晴らしい合流点になることを意味するだけだ。独創的な唯物論者になるということは、合流してぶつかって起こる火花を逃さずに捉えることであり、その火花に息を吹きかけ、わたしの思惟のなかへと押しはいってくるものすら慣れ親しんだものへと叩きなおそうとする「わたしの考え」を火にかけることであり、その炎で慣れ親しんだ定説と通念を燃やして肥やしにすることだ。思惟の火田民になることだ。

知識コミューンにおいて知識‐機械を稼働させるのは欲望だ。そこにはただ欲望のみがある。地位も位階もなく、分科学問の壁も専攻もない。思惟し講義し執筆するさいにしばしば要求される何かの資格もない。知識コミューンはアマチュア‐機械だ。研究や思惟をお金や生計手段にする職業主義の計算的霊魂とは反対に、お金に対する関心を消して生計に対する心配すら忘れさせる無謀なる興味と関心のアマチュア‐機械だ。仕事にしてきたことだからしなくてはならないと、専攻だからせねばならないと信じる専門性の慣性(inertia)と反対に、自身の専攻すら越えさせ、自身が苦労して成しとげたことすらそのあたりに置いて行こうとする熱情的離脱のクリナメンがそこにある。学歴や学閥の定規で欲望を閉じこめ、経歴や実績の格子で関心を飼いならす資格主義のプロフェッショナリズムとは反対に、学ぶものがあるなら幼い子どもからも学び、能力があるならば何であれ飛びついていける無謀な無資格主義のアマチュア主義がそこにある。魅惑された欲望が異なる欲望を触発し、資格なき実行が能力をつくりだし、無謀なる興味が新しい出会いと衝突を産出する、知的な流れの渦がそこにある。知識コミューンは知的欲望と能力の平滑空間にならねばならない。アマチュアリズムを失ってしまった知的活動とは、専門的生産の様相で作動する時すら活気なくくぼんだ空間〔条理空間〕に沿って既存のものの周辺をぐるぐる回る消費‐機械を抜けでることができないが、魅惑のアマチュアリズムは知識の消費に魅惑されて引きずられていく時すら、くぼみとくぼみのあいだを氾濫して横切る生産のベクトルを稼働させる。

知識コミューンは頑固な既存の世界を突破し、堅強に地層化されたものに新しい切断面をつくり、他の生の武器を研ぎすます空間だ。知識コミューンを活かす者は、その武器を研ぎすまし、その武器を扱い、古い世界の外をつくる知識戦士にならねばならない。しかしその知識戦士は正規軍ではなくパルチザンだ。わたしたちは専門化された機関から正規教育によって養成され、専門化した兵科をもつ正規軍ではなく、べつだん訓練を受けることができないまま、アマチュアの欲望に魅惑されて武器を研ぎすまし、何かを切断したり突破するやり方で対決せねばならないパルチザンだ。実戦を通して訓練し実践を通して突破能力を獲得せねばならない知識‐パルチザンだ。自身が持っている既存のあらゆる能力をあれこれ結合して武器として使用するブリコラージュ‐パルチザンだ。関心と欲望が流れる場所であるなら、なにかによって触発された関心が呼びよせる場所であれば、どこでも駆けよっていき、駆けよっていくために読み、書き、武器をつくり、武器使用法を習得する遊牧民戦士だ。時にはすでに習得された知的訓練も、すでに得た知的な資格も、公認された専門領域すらも必要であれば取りさげて、初めてであるかのように新しい戦闘を再び開始する初心のパルチザンだ。職業すら趣味に変えてしまうアマチュアパルチザンだ。

 

 

あらゆるものは、連結した共同体のあいだで発生し、連結した共同体のある部分によって主導される。いかなる状態なのかによって微生物が人間よりも主導的な力を行使し、いかなる配置に属するかによって人間が事物より副次的な力を行使する。これを「疎外」と嘆くのは、自身の属した範疇が常に主動的な役割をしたり中心にいるべきだと信じ、そのような役割を可能にしてくれる特徴を選び、人間の特別な「本性」だと逆‐定義するナルシス的観念論者に属する。関係によって対象の本性が変わるという主張に対し、対象を関係のなかに「解消overmine」することだという非難は(Harman,2019)、可変性から潜在的能力の大きさを見るのではなく実存能力の欠如だけを見る心弱い観念論に属する。「立派な理論は、互いに異なる種類の存在者たちを究極的に区別」(Harman,2020)するのではなく、もっといえば同じ存在者すら関係によってかなり異なる種類の対象になることを捕えることだ。子どもたちにとって慈愛にあふれた父が、出勤するやいなや、その同じ体で拷問警官になるという驚くべき変化が、「対象の確固たる本性」(Harman,2019)や「普遍の物質性」(Meillassoux,2010)のようなものを軽く笑い流せることを、わたしたちは知っている。

その反面、共生すら「ある人が自分を完全な状態で維持しながら」発生するという確固たる客体の実体論は、「共生関係はつねに非互恵的」という言葉と同じくらい(Harman,2020)、生物学的共生の発見者たちを失笑させるであろう。遺伝体がほとんど一致するといっても、共生体へと統合されたミトコンドリアは、完全なる状態のプロテオバクテリアでは決してなく、植物の葉のなかでシアノバクテリアを完全な状態で発見することは不可能だ。自分に窒素を供給する根粒バクテリアのために豆科植物は糖を提供するだけでなく、酸素を吸収する「ヘモグロビン性」たんぱく質の瘤を根に定着させる。「太陽から受け取るのみ、与えるものはない」という哲学者の非互恵的関係は、共生ではなく寄生に属する。その反面、細胞のなかの共生体(Magulis)も、緑藻類と菌類の共生体である地衣類(Schwendener, Potter)も、90%以上の植物が菌類と結ぶ地下の巨大な共生関係(Simard,1997)も、オブジェクト指向の哲学者の主観的共生概念とは異なり、客観的に互恵的だ。

唯物論者は「あらゆるものは関係によって変わる」という命題から「であるならばここで問題になるのはいかなる関係なのか?」を問う。その反面、観念論者は同じ命題を「関係があらゆるものを決定する」と置換し、そこから関係を絶対化する「相関主義」をひねりだす(Meillassoux,2010)。あらゆる超越的なものを否定する唯物論が、突然「関係」という言葉に超越的地位を与えるもう一つの形而上学になってしまう。すべてのものを条件と無関係な普遍原理にしてしまうことなしには耐えることのできない、このどうしようもない形而上学的霊魂であれば、「外部による思惟」という命題における「外部」を具体的なものから分離し、超越的地位をもつ「外部」という言葉に変えてしまおうとするだろう。千の外部、万の外部といくら言っても、それでも結局は「外部」という言葉は「一つ」ではないのかと反問するだろう。これを受けて、けっきょく対象を闇の深層に「埋没undermine」することだと非難し(Harman,2019)、相槌をうつ者がいることもまた、わたしたちは知っている。

そのように一言で要約するのであれば、その時外部とは千の外部と対応する規定性が全て消えた「質料的一元性」であると、ただ「ある」という言葉のみが残る「存在の一義性」(Deleuze,2004;李珍景2019b)にすべての存在者を埋没させるべきだとわたしたちは答えるだろう。あらゆる対象を支える諸根拠を瓦解させ、あらゆる対象の規定性を地下(underground)に埋めることであると。そして問うだろう。あらゆる規定性が消えた純粋潜在性の宇宙を見たことがあるのかと。あらゆるものたちの境界すら消えて、ただ諸強度の連続体一つだけが存在する壮大な流れ、変異する諸強度によって一つが別のものへと変わる無限な生成の宇宙を見たことがあるのかと(Deleuze·Guattari,1980)。

数千の規定可能性だけを持つ未規定性へともどってきた「存在」として、純粋の闇になった存在の存在論へと進みでる道はそこにある。存在者の存在論、依然として光の照明の下で陰影をもつ世界性の存在論ではなく、漆黒のような闇の存在論がそこにある(李珍景、2019a2019b)。わたしたちはその道を行かねばならない。しかしまだ時ではなさそうだ。まだ存在者の存在論が、そのような存在論への「転回」が、行くべき道を充分に行かなかったからだ。まだ一つの外部ではなく千の外部の時間なのだ。千の唯物論が語る時間なのだ。それゆえわたしたちは進めていた歩みを戻し、存在者の存在論に留まろうとする。一つの唯物論が別の唯物論に、互いが互いにとって光になってやる唯物論の真昼間を周遊しようとする。唯物論者にとって重要なのは早く行くことではなくともにすることであり、その「ともに」のなかで、その「ともに」を加速することだからだ。

耳慣れた反問を安い笑いとともに投げかける者たちがいるだろう。神という霊魂の絶対者が近代的計算の海のなかへ落死してからずいぶん経った時代に、霊魂という美しい単語が舌先の欲望に沿って限りなくふくらむ身体の重みに押されて圧死した時代に、多種多様な顔の精霊たちが一切の神秘を嘲る科学の力によって童話からすらも追いだされた時代に、考える理性と思惟する精神が瞬間ごとに視線を奪っていく機械に吸収されて機械の知能的判断がわたしの判断とわたしの趣向を代替するようになった時代に、支配者の位置を占めた観念論がいったいどこにあるというのか? 商品の力が、それを支配する資本の権力が、生全体を支配する時代に、いかなる思考も市場の経済学と利害関係の力から抜けでることができなくなった時代に、観念論を相手にする唯物論の戦争など、ありもしない敵と闘うことであり、いかなる追随者もいない信念と対決するドン・キホーテの戦争ではないのか?

しかし主体哲学批判の波が人文学的知識の場を一網打尽にして以降も、それを批判していた者たちすらふたたび「主体」を探していることを、わたしたちは知っている(Zizek, 2005; Zizek et. al. 2019)。ヒューマニズム批判をする者たちの霊魂のなかに、また別の姿で変形された人間の形象が、粘りづよく残っていることをわたしたちは知っている。他者性の倫理学とは他者たちを「苦痛を受ける顔」のなかに幽閉しつづけることなしには持続できないことを、他者性の思惟において他者たちは常に思惟対象、行為対象、憐憫対象から抜けだせないことを、わたしたちは知っている。実在性の観念に対する執着が唯物論だと信じる頑固な態度が繰りかえされていることを知っている。であるならば、観念論がいったいどこにあるのかと唯物論の名で起こされる哲学的戦争を嘲ることは、どれほど安易なことであろうか?

また身体を遺伝子情報へと還元し、脳を神経網へと還元し、神経網を情報へと再還元した後、電気的連結網によって脳を、情報によって身体を再構成しようという科学的空想(Moravec,2011)によって、不死の時代を「特異点」という名の下に予言する科学的宗教(Kurzweil,2007)がシリコンバレーで誕生し、現存していることをわたしたちは知っている。巨大なメモリー装置を持つネットワーク上に、人間の脳をアップロードし、それをふたたびダウンロードする技術に対する物語や、そのようにアップロードされた科学者の精神が神に代わって新しい超越者になるだろうという想像、あるいは超知能の人工知能(Boström,2017)が新しい超越者として到来するだろうという予言に驚く人がいまでもいるだろうか? あらゆるものが超情報化された時代に肉体的セックスや欲望の身体性を語ることはいかに田舎っぽいことかと嘲わらう想像力もまた、すでに常套的なものになっているではないか? 物質とは情報パターンであるといい、原子がビットに代替された「第四次産業革命時代」が到来したという診断が、国家と資本の現行的関心事になりはしなかったか? 古びた霊魂の観念論に代わる情報の観念論がここにある。一時騒がしかった言語の観念論が言説の観念論を経て情報の観念論へと進化した時代を、わたしたちは生きているのだ。

しかし唯物論者の戦争は可視的なある敵に向かって駆けよっていく否定的戦争ではない。ともすればそれは見えない敵と闘わねばならないがゆえに、真に困難な戦争だ。戦線の彼岸ではなく、ともすれば戦線の此岸にいる、武器をもったわたし自身のなかにある困難な敵と闘わねばならない、奇異な戦争だ。わたしを捕えている力と権力、わたしのなかで作動するがゆえに敵なのかも知りえない敵と闘う対決だ。それゆえ唯物論の戦争は武器をもつ敵と理論的に対決する可視的な機動戦ではなく、外部性を通して思惟することを忘れる時ごとに、わたしたち自身のなかで力を行使する執拗な思惟の慣性と対決する非可視的な持久戦だ。

わたしたちの思惟が「わたし」を中心に行われる限り、そのような「わたし」の同一性を支える慣性的な思考が消えるわけがない限り、唯物論者の戦闘は永遠性の車輪をはめて駆けていかねばならない。「永久革命」の戦争のなかにある。「わたし」を基準に世の中を見て、「わたし」の世界を通してわたしではない者たちの世界を見ようとする限り、動物であれ生命であれ、言葉なき他者であれ混声的な怪物であれ、いつのまにかわたしの拡張に過ぎない概念になることを免れることはできない。人間ならぬものを他者化する人間中心主義が、植物すら他者化する動物中心主義へと、事物を他者化する生命中心主義へと拡張されて再登場することを、たんに過去のことだというならば、世の中をあまりにも知らないことになる。

 

 

 かつてマルクスはプロレタリアートを「資本主義の墓掘人」と呼んだことがある。唯物論者は資本主義の穴を掘る者だ。したがって唯物論者はプロレタリアートだ(Marx,2016)。しかし唯物論者が掘る資本主義の墓穴は、この巨大な資本主義を一度に埋めることのできる巨大な一つの穴ではなく、資本主義の大地に掘っていく小さいが無数の穴だ。しばしば述べるように小さな改革を増殖させることをもって資本主義を終わらせる大団円の革命に至るだろうという考え(Bernstein,1999)が漸進主義の素朴な幻想であるならば、「神的時間」(Benjamin,2008)や「メシア的時間」(Derrida,2014)の巨大な転覆によって資本主義を埋葬できるだろうという考えは一発逆転主義の空虚な幻想だ。急速に改築して新しい建物をつくる資本家たちの都市を、建物からレンガを一つずつ抜きとって壊すという考えは空虚だと言うが(Luxemburg,2002)、500年以上お金と増殖欲で中毒になった体を一度の大手術で治すという考えは、それと比べてどれほどマシだと言えるだろうか?

 資本主義に穴を掘り外部をつくろうとする唯物論者にとって、全体としての資本主義が存続するかどうかは、むしろ副次的だ。わたしたちは資本主義に穴を掘り、その穴のなかで居住するであろうからだ。グレーバーは人類学者の鋭利な目で資本の空間である工場においてすら依然として贈与的でコミューン的関係が常に存在していることを指摘する(Graeber, 2009; Graeber/高祖, 2009)。重要なのは資本主義が存続するにもかかわらず非資本主義的なやり方で暮らす生を生きることであり、そのような生の空間を、資本主義の外部をつくることだ(李珍景、20022010)。資本主義とはわたしたちの思いどおりにならない外部の一つであるのみだ。いつでもわたしたちの前に君臨していた超越者のうちの一つであるのみだ。それに対してわたしたちは資本が支配する世界と別の外部を掘っていき、外部を生きる方法を創案しようとする。穴ですかすかになった内在性の網を想像して。

 資本主義との接続を避けえず資本の権力を免れえないという事実は、できるだけそれと距離を置く生を無効化したり放棄したりする理由になりえない。資本主義が完全に終息する遠い未来を待ち、その未来のためにいまここの生を捧げることや、いつの日かやってくるという信のなかで非資本主義的な生に対する欲望を猶予することは、唯物論者の生ではない(李珍景、2010)。それは理念の美しい幻想で彩色された観念へと、現在の生を捧げる観念論者の生だ。もちろん唯物論者は夢なしに生きる者ではなく、夢想を単に解体しようとする者でもない。その反対に唯物論者こそ、夢なしには生きることができないと知っており、夢想が新しい生の端緒になることを誰よりもよく知っている。わたしたちを包囲した権力や資本が消えた清潔な世の中について想像するのではなく、むしろそれをわたしたちが免れえない汚い生存条件であることを受けいれ、その汚い世の中でまた、別の汚い生の空間をつくることをわたしたちは夢想する。資本のカビで染みになった世の中を批判し、消しえない染みを消すことに人生を捧げるのではなく、自ら資本主義を掘って食っていく小さなカビとなり、別の染みの震源地になること(金時鐘、2019)をわたしたちは夢みる。資本主義から完全に抜けでた世界に対する革命的言辞の素晴らしい断固さではなく、完全に抜けだすことはできないが、八割だけでも、いや半分だけでも抜けでた世界を、いまここにつくろうという中途半端な言葉の曖昧さのなかに、生の種をまくことが、唯物論者の生だ。

 

 わたしたちは唯物論の戦争を再び宣言しようとする。永遠に続く戦争、永遠に反復される遊びとしての戦争を。総じて宣言は幽霊に憑りつかれて書かれる。わたしたちのこの宣言もまたそうだ。かつても(Marx,2016)、現在も、わたしたちの世界には無数の幽霊がうごめいている。その幽霊に魅惑され、わたしたちは思いもよらぬ生を生きることになる。そのようにわたしたちは幽霊の力に巻きこまれ、自身の霊魂から抜けでて、見知らぬところへと行く。わたしたちの霊魂に沁みこんだ幽霊の目で見えなかったものを見ることになり、わたしたちの耳には聞こえなかったものが聞こえるようになる。わたしたちにとって必要なのはその幽霊を追いだす悪魔退治の儀式ではなく、幽霊たちの魅力を知り、それに魅惑される呪術師の能力だ。

 わたしたちもまた幽霊になろうとするだろう。数千の唯物論の幽霊になり、その旗がなびく時ごとに飛びでていく、千の幽霊になろうとするだろう。数千の唯物論の幽霊になり、あちこちで頭をもたげる観念論の高潔な霊魂に汚い身体の痕跡を入りまじらせ、人間の意識のなかに力と意志の無数の針を差しこむであろう。苦労して探しだした鉄の必然性を、柔軟性と偶発性の笑いによって錆びのように堀って喰いこんでいく唯物論の幽霊になろうとする。堅強に見える霊魂を巻きこみ、見知らぬ事態へと引きこんでいく魅惑の幽霊になろうとする。確固たることや変わらないことを探しもとめる視線を思いもよらぬ陥穽に落としこむ陰凶な幽霊になろうとする。隠れている唯物論の幽霊を呼びだすだろう。到来する幽霊の時間のためにさいころを投げるであろう。「全宇宙に隠れている唯物論の幽霊たちよ、団結せよ!」

 

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