長崎浩への導入
長谷川大
1 日本における新左翼の源流の一つは戦後主体性論のマルクス主義バージョンとしての疎外論である。革命的共産主義者同盟の始祖である黒田寛一と太田竜はその代表的な哲学者・田中吉六の影響下にあるという点で共通する。田中は日雇労働者としての経験を織り込みながら、その疎外論を自然=身体論として展開することで1968的な視点を先駆して、津村喬や柄谷から評価されるのだが、黒田は田中の身体論とは無縁なまま、その主体性論を梯明秀の物質哲学と武谷三男の技術論を総合させて、「プロレタリアート」の「自覚」に全宇宙の使命を託す主体の革命を構想した。これに対し、主体と革命を切断することが長崎浩の一貫した主題である。
2 「プロレタリアート」の「自覚」の場所として党を作ろうとした黒田=革命的共産主義者同盟に対し、もう一つの新左翼の源流である共産主義者同盟(ブント)は共産党から分裂して結成された。ブントは60年安保闘争を主導して、その後、その総括をめぐって東京では三つに分裂した。ブントは安保闘争に敗北して分解したのではない。その最終局面で大衆蜂起を指導することに失敗したから崩壊したのである。その最大の焦点である6・15闘争は「同盟中央の解体の上にたって自然発生的に行なわれたのである」(長崎浩「安保闘争における共産主義者同盟」1960年11月)。安保闘争を前哨戦などで勝利的に総括しようとしていた指導部を長崎らの東大細胞は批判したことからブントは分裂へ向かった。そして解体の要因をありうべき党の不在に求めた労働者たちによって戦旗派が、また東大細胞と戦旗派の中間派としてプロレリア通信派(プロ通)が結成された。このうち戦旗派とプロ通は黒田たちの革命的共産主義者同盟に合流する。これらに対して東大細胞と早稲田の蔵田計成らは「革命の通達」派を結成する。のちに長崎と「遠方から」を結成する石井映禧は「革命の通達」派は先にプロ通が結成されて、それで分派を強制された実体のない組織であると語っているが(石井『聞書き〈ブント〉一代』)、メンバーたちに革共同への強い拒否だけは共有されていた。前記長崎論文は戦旗が「段階論的思考を否定し、マルクスの引用によって党の必要を訴える」ことを強く批判している。
3 その後のブント再編の過程で、「革命の通達」派は、反前衛主義に立つsect6と対抗しながら、蜂起主義として自己を再形成していった。革共同らは両者をともに「大衆運動で党をつくる路線」と批判したが、両者に共通していたのは「階級形成」を主張していたことである(正木真一「ブントについて」「遠方から」4、なおこの対立はのちの情況派と叛旗派の対立として反復される)。これはそれまで左翼に支配的な「危機」論からの離脱と並行していた。「革命の通達」派の星野中は危機を創出することを主張してブランキズムと批判されたが、長崎は危機論そのものを放棄して「革命の通達」派を解散させる(前記石井)。このあと「革命の通達」派はML派を結成して、ブント内部から生まれた「危機革命論」である岩田弘「世界資本主義論」に依拠したマルクス主義戦線派と競り合いながら、関西ブントと共に第二次ブントの結成へ向かう。ただしこの過程でML派の多数派は第二次ブントには加わらず、毛沢東主義党派へ転換した。なお「革命の通達」派のメンバーだった平岡正明は61年にはブランキ的な政治結社「犯罪者同盟」を結成し、以降も死ぬまで大衆蜂起を扇動し続けた。
4 63年に革共同から合流したプロレリア通信派の多くは当初からの革共同であった本多嘉延らと共に黒田たちから分裂して中核派を結成する。もともとプロ通は「労働者の武装を準備する党」と「より左翼的な戦術」を求めていた。プロ通=清水丈夫にとって革共同の党とはこの実現であったが、これが黒田の「自覚」の党と同床できたのは、両者にとって「党」が主体化の装置であるからであったが、「より左翼的な戦術」は黒田の「党」には不要である。プロ通=中核派は政治危機を設定して、その闘争に向けて党の組織化を煮詰める「路線主義」と長崎が呼ぶ傾向へといたる。なおこの分裂とは無縁なところで関西では蜂起をプラグマティックに総括する政治過程論のもとにブントの再編がすすんでいた。その関西ブントにいて、後に赤軍派を立ち上げる塩見孝也は政治過程論がプロ通に近しいと感じていたことを明らかにしているが、一方、危機を創出すべきものとして設定していたところでは「革命の通達」派にも近しい。中核派とともに68年街頭闘争を主導した二次ブントは関西ブントの路線下にあった。68年以降の新左翼党派を制覇したのはプロ通派だったのであり、そのもとですべての党派は危機論と主観性革命論の枠内で動揺し続けることになった。
5 長崎は二次ブントの近くにはいたが、これにコミットすることはなく、全共闘に助手共闘として参加、二次ブント分解の際、石井らの要請を受けて松本礼二らが分派として結成したブント再建委員会(情況派)に参加する。同派は赤軍派などの武闘派、戦旗派などのソヴィエト派の双方から、叛旗派とあわせて大衆運動派=右派と呼ばれた。ただし両派はともに赤軍的な党=軍路線には反対しながらも、共同体革命=社会革命派である叛旗派に対し情況派は大衆叛乱を権力闘争へ飛躍させる政治革命派を自認していた。74年、長崎は情況派に大衆政治同盟への転換を提起して党内で反発を受け、そこに高浜入闘争をめぐる農民運動の指導者山口武秀をめぐる評価や財政問題、同時に三里塚問題(一部から出た闘争収束論)も絡んで、同派は分裂、古賀暹らは游撃派を結成し、一方、長崎は松本礼二らと共に「遠方から」派を結成した。游撃派は、長崎が黒田を批判しながらも「労働力商品化」による疎外からの回復という点で同一位相にあり、その党論(私党論)を階級闘争から離脱するものとしてきびしく批判したが、長崎にとって游撃派の「党と階級の一体化」はプロ通的路線主義への回帰でしかなかった。間もなく古賀は離脱、77年には同派は毛沢東主義に転換して、79年に赤軍派(M L)(=高原浩之派)と統合、さらに81年に紅旗派(赤軍臨時総会派=プロレタリア独裁編集委員会と烽火派からの分派の統合)と統合して赫旗派を結成する。しかし83年、明大における生協と自治会(解放派)の対立を機に、游撃派メンバーの主要部分はブント首都圏委員会として分裂した。
6 「遠方から」派は新左翼の異端である。同派は階級対立に代わって地方における第三勢力の形成の時代が来たとの認識のもとに水戸右翼と共闘して茨城地方党を創設して選挙運動を展開するなど、今までのどの党派とも絶縁した活動を行った。その一方、三里塚闘争においては79年に政府と青年行動隊・島寛征の秘密交渉を仲介して、政府に二期工事を断念させて謝罪させることを内容とする文書の作成をすすめるが、途中でマスコミにリークされて挫折する。この「暗躍」は実力抵抗を掲げた三里塚の大義を裏切るものとされて空港反対同盟とあらゆる支援党派・無党派から総攻撃を浴び、80年に機関誌「遠方から」五号を出して同派の活動は終焉した。ただし2017年の時点で、当時青年行動隊だった石毛博道は島を前にこの交渉が「闘争の終わり方をイメージ」させた「目から鱗が落ちる」ような衝撃であったと語っている。石毛によればこの交渉の進行を実は「反対同盟の幹部と支援者の幹部はほとんど納得していた」(『三里塚燃ゆ』)。83年、三里塚反対同盟は分裂し、そのうち、熱田派はやがて公然と交渉のテーブルに着いた。三里塚反対同盟の分裂は新左翼の終焉の始まりでもあったが、政府交渉の「暗躍」はその端緒となった。長崎たちの「遠方から」派は新左翼を終わらせたのである。
7 長崎浩はブント参加以前に黒田が主宰する弁証法研究会に参加していた。長崎浩の起点は黒田=革命的共産主義者同盟への拒絶、主体の革命への対決である。60年闘争の総括である「叛乱論」はまずそのスタイルによって主体性革命論を斥ける。「叛乱論」は6月15日の「同盟中央の解体の上にたって自然発生的に行なわれた」闘争前日のビラの引用から始める。党は無力であることが晒される中でこそ、政治の本質としての「アジテーター=大衆」が露呈されるからだ。「アジテーター=大衆の相剋」はプロレタリアの受苦における相剋だが、この「プロレタリア」は「労働者階級」ではない。近代とは労働とその搾取・収奪による資本制であるなら、近代への叛乱はその外部からそれを破壊することであるからだ。「「階級形成」の問題は、まず逆説的にも「労働者階級(意識)」の破壊の問題となるのである」(「主体性の死と再生」)。最も重要なのは以下の一節である。「近代における無数の叛乱」は「どんなに地域的でとるにたりないものであっても……近代そのものへの叛乱なのだ」。叛乱はあらゆる近代の規定性への叛乱である。74年、游撃派は「党=主体、叛乱大衆=客体、それを媒介するものとしての《技術》」の「主−客図式」として長崎を批判したが、これは逆である。主体があるとするなら、それは叛乱の過程それ自体でしかなく、それはまた非主体化の過程である。ここに長崎叛乱論の核心があり、あらゆる革命の言説が有効性を失ったなかで「叛乱論」が甦る理由がある。60年安保で長崎がつかみとったこの「叛乱」こそが67年に始まる街頭闘争を経て全共闘で全面化される「1968」の動因である。「叛乱」は2022年にはフーコーを借りて、近代の「主権・法の論理」をはみだし、それを揺るがす「内戦」とも呼ばれることになる(『国体と天皇の二つの身』)。
8 これは「近代世界の〈規定されて在る〉存在をその内部から破壊する実践、すなわち社会的労働において労働を破壊する実践の噴出」となる(「時代経験と思想」)。「労働」の「破壊」とは「階級の無化」である。「階級の無化とは「近代」というものの宿命を無化するというのに等しい」(『革命の問いとマルクス主義』)。長崎によれば、レーニンの「階級」は自然への「嫌悪と恐れがつくりだしたもの」であり、叛乱はこれに対する「第ゼロの自然」の噴出である。近代とは時間性であり、また技術的合理性である。したがって近代への反乱とは「技術的時間を根源的な時間意識をにさしもどして乗り越える」ことであるだろう。ここにおいて長崎の叛乱論はほぼ同年にかかれたドゥボールの『スペクタクルの社会』と同時代性を刻印しているが、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」にも近似してくるのである。長崎を導入するにあたってベンヤミンを引くことは決して牽強付会ではない。全共闘を眼前にして叛乱の組織論を構想する際に長崎が参照したのはブランキであり、いうまでもなくブランキはベンヤミンが偏愛した陰謀=革命家であった。長崎にとって「革命がある」と信じるものはブランキストである。「叛乱論」は60年安保の総括であるなら、全共闘の理論化として「結社と技術」がある。「叛乱論」が主体性論への対決から生み出せされたように「結社と技術」は新左翼党派の路線主義との対決から生み出された。長崎によれば、ブランキは「結社」によって「叛乱大衆のアナーキーに形を与え」た。ガタリは「レーニンは党によって階級をダイアグラム化した」と論じた(『アンチ・オイディプス草稿』)。長崎はブランキにダイアグラムを捉えた。そして長崎の理論的実践もまた革命のダイアグラム化であった。この作業は「党」の理論によって極まる。「結社」を高度化するとき、「党」が登場する。この「党」は「固有の党」と名付けられて、大衆もしくはプロレタリアと切断されない「大衆の党」と区別される。長崎たちの「遠方から」派は「固有の党」のための実験だとしても、決してそれと同義ではない。
9 長崎浩を囲んだ討議の場(東大、2025年1月12日)で笠井潔はルカーチ主義者であった青年期に「叛乱論」と出会った衝撃を回顧しながら、『政治の現象学』の後半で出現する「固有の党」を理解しがたいことを語った。これに対する長崎の回答は「蜂起」と「叛乱」を区別し、政治の発生を後者に求め、そこに「固有の党」を位置付けることに真意があったというものだった。これを自然発生に対する「外部注入」、大衆に対する前衛という旧来の図式で理解してはならない。長崎は『政治の現象学』で「党」を論じるにあたってロシア革命のレーニンを「主人公」にした。「党と革命」がレーニンをモデルにして論じられてきたなら、「党と革命」の転換はこの「モデル」の破壊から始めなければならないからだ。「党に出会うにいたる私の政治的経験史こそは、ロシアの革命が与えた偏見を破壊し、この革命を私の側に奪還する努力を意味していたのだ」(『政治の現象学』)。長崎がレーニンから取り出した「党」は二つの点で他のあらゆる「党」と区別され、またそれらへ批評=臨床となる。一つは「党」は「革命」もしくは「階級」の外にあること、もう一つは「党」は私的なものであるということである。レーニンは党と闘争を区別したことは誰もが知っている。しかし自然発生と外部注入という図式にその組織思想は「解消されて」しまっていた。「党」は公の最たるものとしてみなされてきたが、「党」は「他者に依存する対他存在」であり、革命過程でこの「私性」が転換されるときに実現される。私的であることまた「党」を「革命過程」に駆り立てる動因である。1968は政治闘争から社会運動への転換でもあったが、長崎の「私党」はこの転換を内包していた。もはやアナーキーか「党」かが問題ではない。「固有の党」は党を自認しないところでも必ず発生するからだ。叛乱が生み出す全共闘型、もしくは行動委員会型の集合形態を長崎は大衆政治同盟と呼ぶが、この外部性として「党」を設定し、それを私的なものとして、しかし必然的なものとして引き受けることが長崎の政治である。
10 この長崎の「党」は既存の「党」の問題と限界を逆照する。黒田の「党」は「プロタリア的人間」の「自覚」の場所であり、そこから分裂した中核派も「プロレタリア的人間による強固な共同体」であった。ブント系諸派にあっても、例えば神奈川左派は「党」=「共産主義者の母体」論を展開して、武装ヤマギシズムと叛旗派に揶揄されたが、叛旗派にとっての「党」もまた「幻想的共同性を止揚する、権力死滅の回路を繰り込んだ意志的革命組織」(「叛旗」)である。しかし長崎によれば、これらの「党」の規定は大衆からすれば私事に過ぎない。これらの党派は「固有の党」が発生させる「大衆の党」である。しかし長崎も強調するように現実の過程で「大衆の党」と「固有の党」は浸透しあう。「大衆の党」は階級もしくは革命との一体化を存立理由とする。「叛乱を解放する」に収録された諸論考で長崎は日本の1968が全共闘による「近代への叛乱」とこれら新左翼党派の路線主義という二つの運動からなっていたことを指摘しているが、後者の党派の者たちを突き動かしていたものもまた前者、すなわち「近代への叛乱」であった。先の各派の「党」の「自己規定」も「叛乱の記憶」によるものであった(「革命から叛乱を解放する」)。「近代の叛乱」はあらゆる「規定態を粉砕する」ゆえに、「階級」との一体化を理念とする「党」は大衆の「粉砕」に直撃されることになる。これは「党」に分裂を強いるが、「固有の党」はこの分裂を必然として受容するのに対して、「大衆の党」は理念的に分裂に耐えることができない。1968以降の全共闘解体以降、諸党派が直面したのはこの事態であった。この極限的な表現が連合赤軍と「内ゲバ」と呼ばれる党派闘争である。前者の内部粛清は叛乱の鎮圧であり、後者は分裂の外化である。叛乱は内戦であることの現実態は「大衆の党」にとっては内破として表現された。長崎は後年、右翼を論じながら、フーコーにならって「どんな愚行の中にも闘いの轟きを聞き取ること」を強調した。新左翼党派の「愚行」にもまた「闘いの轟き」はあった。もしくは「闘いの轟き」が党派に「愚行」を強制したのである。
11 77年、『政治の現象学』と同年に刊行された『超国家主義の倫理』は「人々はなぜ反乱に立ち上がるのか」を問うた。その時、長崎は「「下部構造」の必然」という政治論を排して、「革命主義」の根もとに「政治(権力)というものを無化しうる人々の倫理的な共同性」の「仮構」をみる。これは「アナルコ・ナショナリズムあるいはアナルコ・コミュニズム」と呼ばれ、その系譜の近い始祖として谷川雁が名指されていた(「私学校宣言」)。長崎によれば谷川雁の「原点」は、「「党」の挫折の後に、谷川が−−あるいは「党」という観念が−−立たされた場所であることを物語っているのは、明らかなことに思われる」。この「「党」という観念が立たされた場所」(「谷川雁・帰郷の呼びかけ」)である「原点」は、雁の「幻影の革命政府について」では「いわば革命の陰極とでもいうべき、デカルト的価値体系の倒錯された頂点……この世のマイナスの極限値。(略)潜在するエネルギーの井戸、思想の乳房」されていた。その原点とは「日本の無を否定する」(谷川雁「無を噛みくだく融合へ」)「アジアの虚無」であり、やがてプラズマと同義とされた(同「無の造型」)。かつて游撃派は、長崎の理論が「「階級の廃絶=私的所有と賃労働の廃絶」ではなく、「労働そのものの廃絶」になってしまい「世界の無」にむかわざるを得ない」と論じた(「ボルシェビキ」1号)。游撃派は批判を意図して「世界の無」と書いたのだが、長崎にとって「世界の無」は秘められた核心である。先に触れた「第ゼロの自然」が指しているのもこれだ。「自然」とはゼロである。長崎は自然を強度ゼロとして捉えるドゥルーズと近接している。「世界の無」は2024年末に刊行された『他力という力』で改めてあきらかにされた。副題が「叛乱論終章」と名付けられた本書で長崎は他力の始祖、法然だけではなく、自力とみなされた道元、パウロまでをも他力の思想家と定義づけ、ハイデガー、三島ともどもアジテーターとして論じるのだが、この「他力」は非主体化の帰結である。非主体化とは「主体の零度」とも呼ばれる(「疎外革命論の時代」)「モーゼは雲の切れ目から見えない神に呼びかけられて、その応答において神の存在を信じた。パウロはその回心の劇において、天からの光に包まれたが見上げても何も見えなかった。見えない神を見たと信じた。見えない神が呼びかけるとはハイデガーの言い方では無の開示と脅迫であり、三島由紀夫にとっては言葉を誘う虚無であったろう」(『他力という力』)。この「無なる神」、もしくは神としての「無」こそがアジテーターを衝迫するものなのだが、同時にこれは「党」でもある。これは「アナルコ・コミュニズム」としての革命の起源であるとともに60年ブントを崩壊させた大衆蜂起の震源としての絶対的なアナーキー(反起源)であり、だからこそ「原点」である。蜂起はゼロへの降下(=「第ゼロの自然」)であり、革命とはゼロの顕現である。西田の「場所」論として「党」を設定した黒田寛一もまた「無」の革命家であったが、このゼロは谷川が否定した(噛みくだいた)「日本の無」=「永遠の今」(友常勉の論による)であった。黒田の「永遠の今」は「主体」の場所だが、長崎の「無なる神」は「他力」もしくは「第ゼロの自然」「第ゼロの自然」として「主体」を解体しながら到来する。この「他力」の信は「叛乱はある」という真を告げる。