ルンペン・プロレタリアこそ文学である 書評・影本剛『近代朝鮮文学と民衆』
NEZUMI
本書の主題は「朝鮮民衆の文学」ではなく「朝鮮文学と民衆」である。1920 年代の朝鮮で最初に民衆を描こうしたのはツルゲーネフ的な平等主義によるものであったが、これはプロレタリア文学にとって代わる。これは宗主国たる日本における白樺派からプロレタリア文学運動への移行に対応する。日本ではプロレタリア文学が標榜する全体性=普遍性に対する非全体性として小林秀雄が、あるいは新感覚派が発生した。だが、いうまでもなく文学とは非全体性の問いである。プロレタリア文学者による最良の作品もまた文学者たちの「転向」による全体性の破産よってこそ書かれた。
朝鮮の文学において影本がここで着目するのはこれらに並行するものとしてのルンペン・プロレタリアである。ルンペン・プロレタリアをプロレタリア以下の階級と見なすことはマルクスのプロレタリアの定義からも、また実態からも反している。ここで影本が正しく指摘しているようにルンペン・プロレタリアとはプロレタリアの外部性であり、さらにいうなら階級規定に対する非‐規定性(江川隆男)なのである。影本はルンペン・プロレタリアを描き続けた作家として蔡萬植を取り上げるが、蔡は「朝鮮の外部に出口がないゆえ」の「植民地朝鮮における負債の力学」を描くことによって未来の文学を創り出した。本書ではこの後に関東大震災後の大虐殺以降の日本における朝鮮人文学者たちに迫る。そこではルンペン・プロレタリアへの言及はないが、そこにおける文学の位相は基本的に同じものだとみなすことができる。その代表的な作家である廉想渉は「復興」に対して、それが隠蔽する傷を裂開させた。そこで揺るがされるのは日本人による朝鮮人への差別だけでない。日本人たちが形成したと信じてすがる秩序である。廉想渉の主人公たちは「異なる民衆像」を見つけようとした。影本は40 年代の動員小説においてもルンペン・プロレタリアを見出していくだろう。
植民地下の文学者たちはルンペン・プロレタリアへの接近において「革命」を実践していたのだ。それはプロレタリア文学がブロレタリアを描くことで革命的であったとされることとは全く次元が異なる。そもそも「ブロレタリアを描くこと」自体が革命的であるわけがない。プロレタリア文学が革命的でありえたとしたら不可避的にルンペン・プロレタリア的な非全体化に触れたからだ。影本の著作は植民地下の文学者たちの偉大な苦闘を検証することでルンペン・プロレタリアという外部性こそが文学の深部であることを示した。
(春風社・2024 年)