「インテグリティ」の危険をめぐって 書評・渡辺一樹『バーナード・ウィリアムズの哲学
長谷川大
本書第二章は1940 年ベルリンにおけるある夫婦の話で始まる。妻の弟の戦死を契機にハンペル夫妻はナチスへの抵抗を呼びかけた280 枚を超える葉書を公共の場に置き続けて、ゲシュタポの捜査の対象となりギロチン刑に処された。この抵抗は「政治的な効果が小さいわりに危険すぎる」。事実、葉書を拾った市民たち(普通の人々)はこれをゲシュタポに届けただけだった。渡辺はウィリアムズに倣って、このような態度を「インテグリティ(integrity)」と呼ぶ。「内的な統一が保たれた状態(thestate of being whole and undivided)」のことである。ウィリアムズは功利主義に対する批判としてこの「インテグリティ」を対置した。
ささやかでも何らかの活動に関わった者はただ「政治的に効果のない」実践ならいくらでも覚えがあるはずだ。誰も受け取らない、受け取っても読まれないビラをまき、無力を謗られながらデモに参加する。しかしこれだけでは「インテグリティ」とは言えない。だがその者がこれに全てを賭けて、ある「危険=危うさ」の域に達したなら、そう呼ばれうる。われわれはときにハンペル夫妻のような「危険」ではないが、しかし常軌を逸したという意味で危うい生を選ぶ驚くべき「活動家」と出会う。たとえばある当事者運動に支援として分け入り、もはや当事者とも見分けがつかない程に挺身する、自らも初発は革命を志したのか、ボランティアかどうかも忘れてしまったが、しかし決して偉ぶることのない仲間への優しさと行政や権力への敵対性によって、ひそかに誰もが一目を置く、そんな活動家だ。何かの活動に関わった者なら誰もが、そのような生のかたちを見たこともあるはずだ。このような営みを「コミュニズム」であると私たちは見なしてきたが、これは「インテグリティ」とも定義されうることを本書は教えてくれる。「インテグリティ」を擁護したウィリアムズは後期に至ってモラリズムに対して「誠実」の系譜学を対置し、ヴィットゲンシュタイン左派として政治的リアリズムによりエチカを創設する。ここでの「誠実」はニーチェ的に苛烈なものであり、政治的リアリズムとは偶然と実践にとどまって、終極を放棄することである。この時、「政治的リアリズム」は脱構成的コミュニズムと見分けがつかない。
渡辺の描くウィリアムズは鶴見俊輔を連想させる。鶴見が共感した抵抗者は誰もがハンペル夫妻に似ているからだけでない。方法としてのアナキスト鶴見もまた終極を拒絶したからだ。そしてささやかな抵抗が徹底することによって「危うさ」に達したからだ。特異な言語哲学者であった鶴見もまた、ひそかにヴィットゲンシュタイン左派だったのだ。
(青土社・2024 年)