フランス版「宇宙戦争」 クリスティン・ロス
箱田徹訳
以下はクリスティン・ロスが『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』(2023年8月13日0に寄稿したものである。原文のリードには「過去2年間、環境保護活動家やグループのネットワークである「大地の蜂起」は、汚染者や開発業者と直接対決し、フランス農村部の産業型農業(インダストリアル・アグリカルチャー)の独占を脅かしてきた」とある。なおこの議論と深く関わるクリスティン・ロスの『コミューン形態』The Commune Form は箱田徹氏の訳によって間もなく刊行される。
エマニュエル・マクロン率いる新自由主義政権は、数か月にわたってその政策を一斉に拒絶する人々と対峙してきた。マクロが提案したフランスでの退職年齢引き上げは、極右から極左まで、そしてその間のほぼすべての層に属する人々から反対を招き、いがみ合う労働組合を団結させ、主要な労働部門で大規模なストライキを引き起こした。都市でも町でも冬から春にかけてデモが日常生活の基調となった。マクロンの緊縮財政政策に対する拒否反応は、2018年にジレ・ジョーヌが燃料税の引き上げに抗議したことで劇的に噴出し、3月にはマクロンが退職制度改革に関する国会での採決で敗北を免れないと悟り、代わりに大統領令によってこれを強行したことで頂点に達した。新たな蜂起の波は、6月27日にパリ郊外の路上で、北アフリカ系移民の青年ナヘル・メルズークが警察に殺害されたことで始まった。
これほどまでに不人気を露わにしたマクロン政権は、抗議者に対する重装備の警察による弾圧と、巧みな陽動戦略の両方に頼らざるを得なくなった。6月21日、マクロン政権の内務大臣ジェラール・ダルマナンが、環境保護に携わる活動家や団体のネットワーク「大地の蜂起」の「解散」を宣言したとき、それは政権の不人気と、郊外の変わらぬ植民地状況から関心をそらすための新たな戦術でしかないように見えたかもしれない。ダルマナンは主張した。都市ではなく農村で大混乱を巻き起こしている、新たなテロの担い手、エコテロリストが存在すると。
しかし、いわゆるエコテロリストを標的にすることは、確かに有効な陽動作戦であったかもしれないが、大地の蜂起の解散を政府が望んだ理由は他にもあった。設立からわずか2年という短期間で、このネットワークは、汚染者や開発業者、インフラとの直接対決というドラマチックな行動を通じて、工業的農業が農村を独占する現状への現実的な脅威となっていた。反政府暴力の嫌疑を掛けられた団体の行政による解散は、政府の武器庫に控える究極の政治的武器であるが、最近まで主にイスラーム系テロリスト団体やネオファシスト団体に用いられてきた。それが今では環境活動家に対して行使されようとしているのだ。 金曜日、コンセイユ・デタ〔最高行政裁判所〕は、この件の審理を行う間、解散を一時的に停止した。
「大地の蜂起」は、登録されたアソシアシオン〔フランスで二〇世紀初頭から法的に存在する団体の形式〕でも政党でもなければ、正規の法的地位も持たない。メンバーたちが自分たちの活動形態を表現する際に好んで使う言葉は「星座(コンスタレーション)」である。このようなつかみどころの無い存在(「社会運動は解散させられない」がスローガンの一つだ)は、国家がトロツキストや毛派の小さな政治集団(グルプスキュール)を標的にした1960年代や1970年代よりもはるかに困難であることが立証されている。この団体を解散する意向を発表してから実際に解散させるまで、政府は2か月間もの時間を費やした。
やがて明らかになったのは、マクロンが農業経営者団体全国連合(FNSEA)の会長であるアルノー・ルソーに強く迫られて解散を急ぐことにした事実だ。この団体は、大規模土地所有者からなる強力な産業型農業(アグロ・インダストリー)組合であり、大地の蜂起からすれば、土地の割り当てや利用のあり方をおおむねトップダウンで決定する団体だ。「現在」、とルソーは週刊誌『ポワン』の6月15日付のインタビューで語った。「あらゆる人を内戦に導くだろう完全な無法状態が存在する。農民は二級市民ではない。保護されなければならないし、持っている権利は改めて確認されなければならない。FNSEAは責任を持って行動しており、すべての人びとに冷静であれ、節度を保てと訴えている。しかし、付け加えなければならない。私の下にある部隊をこれ以上抑え続けることができるかどうか、私には確信が持てない」。ルソーの言葉は文字通りに受け取るべきだろう。彼の「部隊」は、フランスのジャーナリストのニコラス・トゥリュオンが「宇宙戦争」〔本稿のタイトルでもあるThe War of the Worldsは、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』の原題であり、二つの世界間の戦争という意味なので、それに掛けている〕と呼ぶ戦いに今まさに身を投じている。一方には、人類学者のフィリップ・デスコラ〔コレージュ・ド・フランス名誉教授。日本語訳の著書に『自然と文化を超えて』(水声社)がある。ノートルダム・デ・ランドのZADや大地の蜂起の擁護者としても知られる〕の言葉を借りれば、集約型農業や単一栽培を行う「少数の生産者グループ」がいる。彼らはアグリビジネスが環境に悪影響を及ぼしていることを認めようとしないか、あるいはそもそも意に介していない。他方で、小規模農地とエコロジカルに持続可能な方法を中心とした農業の支持者がいる。彼らは気候変動により、私たちが何をどのように栽培するかを一から変えなければならないとわかっている。私たちに突きつけられた多くのエコロジー危機の中で、大地の蜂起が優先課題として選んでいるのは、農地を開発業者や産業型農業の侵食から防衛することだ。大地の蜂起からすると、「気候を救え」という呼びかけはあまりに抽象的であり、実際のところ特定の土地にまで落とし込んでこそ意味がある。彼らの行動には、占拠、封鎖のほか、彼らが「武装解除(ディスアーマメント)」と呼ぶ一種のサボタージュがある。これは深夜に黒ずくめの小集団が行うものではなく、白昼堂々と数千人によって行われるものだ。例えば2021年6月には、ラファージュのセメント工場の占拠者が、自分たちが立ち去った後もその場所が使えないように、機械のガスタンクに砂を注ぎ込んでいる〔フランスのエコロジー運動では歴史的に「コンクリート」(béton)への強い批判がある。ラファラージュ社が標的となった理由は、気候変動の文脈でセメント産業が温室効果ガスの大量排出産業として批判の対象であることに加えて、2010年代のシリア内戦でイスラーム国と裏取引していたこともある〕。
私が初めて大地の蜂起の活動に参加したのは、2022年3月、フランス西部のドゥー=セーヴル県でのことだった。「メガバサン」建設への反対デモだ。この巨大貯水池は、この地域の農家の約7%、つまり飼料となる穀物やトウモロコシなどの水を大量に必要とする作物を栽培する大規模土地所有者たちのために地下水を貯蔵する巨大クレーターだ。地下水は冬にこのメガバサンに汲み上げられ、春と夏に使うために貯蔵されるが、干ばつに見舞われやすいこの地域では、その年間貯水量が確保されているとは言い難い。ましてや、気候変動の影響により、確保できる見込みそのものがいっそう低下している。かつて共同利用されていた資源をメガバサンに貯水することは、かつての土地囲い込みと同様に、地域の水供給を枯渇させるものである。メガバサンの建設により、アグリビジネスは自然環境が供給できる以上の水を消費できるようになる一方で、小規模農家は窮地に立たされることになる。こうしたことが明らかであるにもかかわらず、政府はメガバサンの建設を承認し続けており、違法なメガバサンのオペレーションも見逃している。フランスの農地の半分は、農家の高齢化により今後10年間で所有者が変わるとされる。大地の蜂起が、ドゥー=セーヴル県のような、大半が農村に属する紛争地域を慎重に選んで行動を起こしたことで、この土地が惹起する問題、つまり土地のアクセスと利用が、政治的な議論の中心とともに「戦争」の中心となったのである。
週刊誌『L’Obs』の最新号は、この戦争による犠牲者の一部を一覧として掲載しており役に立つ。圧力、侮辱、威嚇の試み、さらには暴行などが、アグリビジネスの擁護者たちによって、ジャーナリストや反農薬活動家、人工スキー場などの破壊的プロジェクトに反対する人びとを標的に行われている。日課のランニングから帰宅した若い反ダム活動家は、自宅の前庭で男2人に襲われ、肋骨を折られ、鼻を骨折し、1ヵ月間の休職を余儀なくされた。1月30日、モンサント社の製品で中毒症状を起こしたことを法廷で証明し、同社を相手取った訴訟で勝訴した農場主のポール・フランソワは、自宅ガレージで男3人に暴行された。男たちは彼を縛り上げるとナイフで脅した。「てめえの話を聞くのも、その面をテレビで拝むのも、もううんざりなんだよ」と、彼らは言ったという。
大地の蜂起は、インフラや財物を攻撃するが、人間は攻撃しない。ディスアーマメントには、新たに私有化された水でメガバサンを満たすために使用されるパイプラインを掘り起こして解体する行動もその一つとなりうる。大地の蜂起はこうした行動を、それらは政府が解散命令を出した大きな根拠となっているが、自分たちを破壊しつつあるものを破壊しようとするという意味で自己防衛的なものだと考えている。汚染や資本主義体制そのものが私たちの自由、健康、そして私たちを支える土地、またその他の天然資源に向けられた大量破壊兵器なのだ。
この運動の起源は、十年近く及び、「防衛ゾーン(Zone à Défendre)」または「ZAD」として知られるようになった占拠闘争にある。この闘争は1970年代半ば、ナント郊外の国際空港建設予定地となっていたわずかな土地について、農民たちが売却を拒否したことに端を発する。国は農民たちが立ち退くのをひたすら待ったが、そうした状況は訪れなかった。2000年代初頭、国はこのプロジェクトを再開すると、農民たちは支援を呼びかけた。すると数百人の活動家、若い農民にナチュラリストがやってきた。約十年が経過すると共同占拠が形を成した。参加者は小屋などの建物を建て、基本的なニーズを満たすオルタナティヴな手段を考案した。いわば国家からの生き生きとした分離である。農地防衛として始まったものが、やがてその防衛の中で形をなした集団生活のプロジェクトそのものの防衛へと発展したのだ。長年にわたる法廷闘争、住民投票、国家による武装侵攻、そして区域内の家屋の破壊を経て、ZADはついに勝利した。2018年、マクロン政権は空港建設の中止を決めた。共同農場での実験的試みを続けるために現地にとどまった占拠者の一部は、後に大地の蜂起を立ち上げ、その組織化に一役買っている。
空港建設の戦いに敗れたことへの憤りが、大地の蜂起に対していままさに向けられている暴力を煽っている面もあると私は思う。政府がでっち上げたエコテロリストの戯画の表面を削り取ると、その以前の兆候が見えてくる。「ザディスト」(Zadist)〔文字通りには「ZAD主義者」だが、ノートルダム=デ=ランドのZADの活動家を越えた「(環境系)左翼過激派」を指すマスコミ用語、治安用語として用いられている〕だ。ダルマナンは、政府による大地の蜂起解散の意向を発表してから数日後、「反ZAD法学者」によるオペレーションの創設を宣言した。前任者がガン細胞に例えたZADがフランスに今後根を下ろすようなことがないようするというのだ。
広範な同盟を構築、維持する手腕を発揮したザディストを前に、エリート層はパニックに陥った。マルクス主義哲学者アンリ・ルフェーヴルは、社会やイデオロギーの大きな垣根を越えたこうした同盟の構築こそが、土地をめぐるあらゆる闘争の特徴だと考えていた。ZADの戦いは「空港とそれが体現する世界」との戦いではあったが、保守派、商店主、議員など、資本主義に反対しているとは限らず、単に空港の近くには住みたくないと思った人びとを動員することができた。ザディストたちは、異なるイデオロギー、アイデンティティ、信念を持つ人どうしが作るこうした連帯を「構成(コンポジション)」と呼ぶ。運動が多様な要素から成り立っているからこそ、さまざまな行動による自己表現が可能となる。例えばZADでは、法的見解の提出、遠方の支援グループとのコミュニケーションの構築と維持、警察との対峙、ゾーン内の絶滅危惧種の目録作成、機器へのサボタージュなどが行われた。この方法があの方法よりも優れているという前提もなければ、合法と非合法のどちらかへの執着もなかった。ある手段を支持する人びとは、自分たちのやり方のほうが優れているとは主張しないようにした。ある友人が表現したように、「戦術(タクティクス)より機転(タクト)」にこそ重きが置かれたのである。
空港建設反対運動の勝利後も、「敵」はやはり存在していたが、よりつかみどころがなくなった。空港計画がなくなった今、「それが体現する世界」との戦いをどう続けていくのがベストだろうか? COVID以前には大規模で大人しい気候行進がヨーロッパ各国の首都など各地で行われたもののほとんど効果がなかったと判断された。理由の一つとされたのは目標の抽象性だ。 必要だったのは実際のローカルな闘争に根ざし、特定のコミュニティとその歴史に目を向け、そこでなされているいくつもの試みをグローバルな野望を持つ共同戦線にまとめ上げる方法だった。固定的なものでなく、柔軟だが、それでも組織化された戦線にである。
2021年1月、さまざまな流れや主張を持つ100人ほどの活動家たち(その中にはエクスティンクション・レベリオン、ユース・フォー・クライメイト、地球の友、ATTACのメンバーもいた)が、ZAD占拠者や農民連盟などの農民組合員と会合を開き、活動を調整し、ある友人によれば「農民たちの土地=大地(terre)とエコロジストの地球=惑星(Terre)を結びつける」ことを目的に大地の蜂起を立ち上げた。彼らは、リヨンにあるモンサント社工場への反対運動、ブザンソンにある労働者コミュニティガーデンの防衛、ナント近郊のセメント製造用の砂採取への反対運動など、一連の行動を慎重に計画した。このグループにはいまや世界中で15万人を超えるメンバーがいる。ノーム・チョムスキー、サパティスタのコミュニティ全体、そして私もそうだ。解散命令後には5万人を超える人びとが加わっている。グレタ・トゥーンベリは、政府の発表があった日にパリで行われた記者会見でメンバーと並んで会場に現れ、山場となったその後の日々では支持を表明した。
私が初めて参加した大地の蜂起のデモは、ドゥー=セーヴル県で行われたもので、数千人が参加していた。当時、私もそうだったが、COVIDによる隔離生活で孤独を味わっていた人びとにとって、その群衆は途方もなく大きいものに感じられた。それから1年後の3月25日、サント=ソリーヌで再びメガバサン反対デモが行われると、私たち参加者の数は3万人に上った。都市住民の視線を農村で起きている犯罪行為に巧みに向けるという、大地の蜂起の才が遺憾なく発揮された。この日、武装車輌に乗った機動隊が貯水池の周囲を取り囲み、彼ら自身の推計によれば2時間足らずのうちに5,000発以上のグレネードをデモ隊に発射した。その結果、200人が負傷し、2人が一時は意識不明の重体となった。機動隊が使用したグレネードの一部は、ヨーロッパではフランス以外で使用が認められておらず、軍隊が用いる武器とみなされている。警察は救急隊による負傷者の救護を妨害した。
サント=ソリーヌでの警察の暴力について、歴史家のクリストフ・ボヌイユ〔フランス国立科学研究センター(CNRS)研究ディレクター。日本語訳に『人新世とは何か』(青土社)がある〕は、政府はなぜ地面にある穴を守るために自国民と戦争状態になることも辞さなかったのかと問いを立てるところから分析を始めた。まず、彼は、政府が、大統領令の行使によって退職年齢引き上げを進めたことに怒りをますます募らせる都市部のデモ参加者たちへの警告として、残忍な力を誇示する必要性を感じていたと指摘した。しかし、政府は生産主義的農業への全面的な支援にも力を入れていたと付け加える。ボヌイユによれば、政府は資本主義の「不公正な社会秩序」を守るためなら自国民の殺害も辞さないのだ。
政府はまた、不満の高まりがはっきりと可視化されたこと、そしてそれが公共的性格を持ったことにもはっきりうろたえていた。その怒りは広く共有されており、フランス各地から大量の人びとが――その多くは数週間前にはメガバサンの存在すら知らなかっただろう――、都市住民が「何もない場所」と口にするようなところまで、何百キロも移動したのだ。これほど大勢の人びとがゆっくりと耕地を移動する光景は一風変わったものであり、奇妙な感動を覚える。これほど多くのフランス人が政治的理由から移動する必要性を感じたのは、50年前、軍事演習場設置を目的とした政府の収用から自分たちの土地を防衛しようとした(最終的に勝利した)ラルザック地方の牧羊農家を支援して以来のことだった。
フランス政府、いや、我が国の政府も、資本主義による生活環境の破壊について、どれほど多くの論文が書かれているかなど気に止めてはいない。統計やデータ、論文、学術シンポジウムの中身に悩まされることもない。予測可能な善意のデモは歯牙にもかけない。しかし、ドゥー=セーヴル県中部メル郊外の野原に集まった3万人は、そうしたものとは異なる何かなのである。
原文:Kristin Ross, “The War of the Worlds in France”, The New York Review of Books, August 13, 2023, https://www.nybooks.com/online/2023/08/13/the-war-of-the-worlds-in-france/