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マテリアルな霊性、あるいは聖なるものたちのコミュニズム

彫真悟   悪を自己の外に撒きちらす傾向、わたしにはまだそれがある。いまだわたしにとって、人びとや事物が十分に聖なるものになっていない。たとえこの身が泥の塊になりはてようと、なにひとつ穢さずにいたい。思考のなかでさえも、なにひとつ穢さずにいたい [1] 。   はじめに  「二〇五〇年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」する――現在国家が打ち出しているこの「ムーンショット目標」 [2] は、「科学技術・イノベーション」に関わるものとされながら、ある意味ではきわめて 霊的 〔スピリチュアル〕なのではないだろうか。なるほど、ムーンショット目標の達成にあたり用いられるのは、ロボットや 3D 映像、身体能力や認知能力の拡張技術をも含んだ最新のサイバネティック・アバターである。これによって身体の限界を突破し「社会通念を踏まえた新しい生活様式」へと移行するのだ、と。  しかし、きらびやかな謳い文句に反して、ここにはなんら新奇なものは見当たらない。その見立ては、霊と肉という古典的提題をそのままに反復しているように思われる。すなわち「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。(…)あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(ローマ八章一三-一五節)。もちろん、パウロにおける肉〔サルクス〕は今日にいう身体〔ソーマ〕を必ずしも意味しない――肉はむしろ罪を意味する――というのはつとに指摘されているが、キリスト教史上、そこにしばしば混同があったのもまた事実である [3] 。肉と霊の二元論の含意は身体と霊魂・精神という二元論へと滑落し、「肉体に閉じ込められていることの恥」がキリスト教の信仰を形成する重要な機能を果たしてきた [4] 。そしてこのことは、近代科学の粋が結集されるであろうムーンショット目標においても、いささかも変わっていないというべきである。そこでは肉体は、われわれを閉じ込める限界にほかならない。この状況に恥を覚えよ、自由とは限界がないことなのだから――そのように唆す統治を食い止めることは、まずもってわれわれの務めである。  かつて若きシモーヌ・ヴェイユは『自由と社会的抑圧』において、マルクスを批判して次のように述べていた。「自然とおなじく社会に

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