「あってもなくてもいいもの」、そして別の生  『存在論的中絶』および石川義正インタビューに寄せて

 以下は先に掲載した石川義正インタビュー「存在論的中絶と革命」、そして石川の著書『存在論的中絶』を脱構成的政治として読み解くための導入として書かれた。「HAPAX2期2号に掲載の予定である。

 

長谷川大

 

 

『存在論的中絶』に寄せたこれ以上ないほどに見事な書評で髙山花子は書いている「なぜ自分が存在しているのだろうと思ったことのある人は、一読する価値がある」(「「わたし」という偶然のフィクション」『文藝』2024春号)。これに対する本書の回答はこの問いを徹底的につきはなすものだ。われわれは「あってもなくてもいいもの」である、とこの本は答える。

 

「あってもなくてもいいもの」とは何か。「あることがいい」、生を善とするプロライフ派と、「ないことがいい」、生を悪とする反出生主義は優生主義体制の表裏をなしており、双方は生死を裁くことも共犯している。裁くこと(肯定判断と否定判断)は超越であり、これに対して裁かないことはカントにおいて無限判断である。カントの無限判断論はここで徹底的に拡張され、過激化されて、核心に定位される。「魂は可死的である」「魂は可死的でない」に対して「魂は非―可死的である」であるというのが無限判断である。「無限判断は、そもそも日常の〈肯定/否定〉の判断形式に先立」つが、「他方ではその規定性それ自体を非規定化するもの、つまり感覚の度合そのものの〈強度=0〉ヘの落下である」という江川隆男の論(『内在性の問題』)は石川と深く響き合う。無限判断において生と死は無媒介に結合し、切断される。資本主義は日常的にわれわれに「裁き」という排他的選言命題を強いる。これに対して無限判断は包括的選言命題と不可分である。無限判断は江川隆男によれば「離接的総合」以上の総合、すなわち「分裂的総合」である。「離接的総合」は「私は旅する、旅しない」だが、「無限判断」=「包括的選言命題」においては「私は旅する、非―旅する」になる(『死の哲学』)。内在とは「非―存在」への「部分―生成」なのである。

 

無限判断は「裂け目」(ゾラ=ドゥルーズ)、異なるものの永遠回帰(ドゥルーズ/ニーチェ)、もしくは「可能性の感覚」(ムージル)ともいわれる。この可能性は現実化を前提としたアリストテレス的な可能性ではない。アリストテレスにはじまる哲学は、生殖的正統性から漏出するものを、すなわち可能性=偶然を排除することしかできなかった。しかし無限判断=包括的選言命題において可能性は現実化しない。現実化できない可能性を生きることが「障害」であるなら、インタヴューにもあるように「障害者であることが本来的である」

 

地球とは「非平衡開放系」であり、地上の全ては太陽からとり込んだエネルギーを変換してエントロピーを排出する。石川によればスピノザの「コナトゥス」はこのプロセスにかかわる。われわれは何かを生産しているのではなく消尽している。従って生殖はあらゆる営みと全く同じく不毛である。生とは物質のみた夢=無限判断であり、物質とはエネルギーがみた夢=無限判断なのだ。「生命は物質の無限判断である」という一節は自然への内在の核心を示している。消尽はここで生産、産出に代わる。生は無底であるとともに絶対的に不毛である。消尽することだけがわれわれのなしうる一切である。

 

人工妊娠中絶をもとめる女性の闘争は「障害者」が生まれてはならないものとするのではないかとして重度障害者の批判にさらされたことがある。しかし実のところ、重度障害者は潜在性に拒まれ、女性たちは現実的なものを切断したことによって、それぞれ根源的な無根拠さにとどまり、この世界の優生体制に抗うことで同じ闘いを実践しているのである。女性たち、障害者たちによるこの切断が、「可能的なものの領域」を開く。これは絶対的な悲しみをともなう「残酷」でもあるだろうし、生死を越境する「自殺」でもあり、そして「革命」である。生は「現在進行的な死」であり、「非個体化の過程」なのだ。

 

石川はバートルビーの「非選好の選好」にマルクスやエンゲルスの階級闘争とは全く異なる「革命」を見出した。資本主義の「排他的選言命題」とは適応と非適応の弁別であり、これが優生体制なのだ。統治とは優生体制であり、現在のパレスチナはその帰結であると同時に予示である。優生体制は「あってもいい」生と「なくてもいい」生を弁別する。これに対してわれわれ自身の現実的なものを切断し、「あってもなくてもいい」生を肯定すること。だからバートルビー、ベケットの主人公たち、あるいはその目の前で死ぬ一匹の蠅は、革命的なのである。

 

3・11を受けて岡崎乾二郎はこう書いた。「私たちは、確率的にみな死の必然性を抱え込んで」、「それぞれの身体が、それぞれに共約不可能な、異なる時間、生死のサイクルに位置づけられている」(「確率論的主体性(放射能的アソシエーション)」)。『存在論的中絶』はこの「確率論的生」の以前の生=「存在以前の政治」(ドゥルーズ)を「可能的なものの領域」として示した。存在と非存在は決定不可能であり、そのことは決定不可能命題の核心でもある。この「存在以前の政治」(ドゥルーズ)への「逆行」においてわれわれは、放射能、あるいはパンデミック、そして気候変動に対置されるべき生を見出す。確率論的生は未規定的だが、内在は江川隆男のいう非規定的なものに対応する。確率論の「誰でもいい」に代わる「あってもなくてもいい」。「群衆」に代わる「群れ」。すでに「群れ」である。群れは感染的である。それぞれが「潜在性の不在において逆に越境する触発として」あるからだ。「「非―存在」の群れは非加算的な生成であり」「蜂起の様態の多定立」である(江川隆男「現前と外部性」)。

 

本書とインタビューで石川はみずからを(もしくは万人を)「白痴」と呼び、また自由意志から切断された「超人」(来たるべき人民)も「白痴」であるとする。われわれは、本来的に障害者であることにおいて、もしくは地球における自動人形であることにおいて、あるいは「自由意志」の切断において、「白痴」である。「白痴」はわれわれの現在の無底性でもあるとともに、われわれとは別の生のすがたでもある。アルトーが自らの思考の不可能性=「白痴」に苦しめられ、最後に「白痴」としての身体=「脳のない身体」を見いだしたように。丹生谷貴志によれば、「白痴」=イディオットの語源はアリストテレスが「社会的関係」という属性をもたない者(=非人間)を「独りぼっち」=イディオイと呼んだことである(「Don’t be cruel  深沢七郎の「ニンゲンなしの世界」」)。「白痴」であることは階級的には「賤民」=「下層民」(peuple)であることであり、身体的には障害者であることであり、「自然の残滓」であることだ。ヘーゲルが予感していたように「賤民」は統治の不可能性であった。これらが無限判断の帰結であることはもはやあきらかである。


「カフカには、つぎのことだけは確かだった、第一の、助けるためには、ひとは愚か者(=白痴)でなければならぬ。第二に、愚か者の助力だけが、ほんとうに助けになる。不確かなのが、その助力がまだ人間に有効かどうか、という点にすぎない」(「カフカについての手紙」野村修訳)。ベンヤミンはその後でこう書きつけて「別の生」を肯定した。「無限に多くの希望があるのだが、ただ、ぼくらのためにはない。この命題にはほんとうにカフカの希望が内在している。かれの輝くばかりの晴れやかさは、この命題から湧き出してきている」(同)。『存在論的中絶』は「輝くばかりの晴れやかさ」において革命を開示した。

(注記した以外の引用は『存在論的中絶』月曜社による)

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