革命が空ける非-都市  

書評/レスリー・カーン『フェミニスト・シティ』『Gentrification is Inevitable and Other Lies』

彫真悟

 


 かつて李珍景は次のように語った。この社会には敷居がある、通り過ぎることのできるものとそうでないものを隔てる敷居が。これを取り除くことが革命である、と(1)。むろん、条理化された空間をたんに平滑なものにせよというのとは違う。平滑空間が優れて資本のフローする場であり、そしてまた資本こそは敷居をそこかしこに敷設してきた――数多のヒト-モノの収奪をともなって――当のものである以上、敷居を取り除くとは、資本の運動を積極的に封鎖し、その国家的な道備えを停止させ、スピノザ的な意味での良き出会いが十全に果たされる空間を現出させることでなければならない(2)

 このことを別の仕方で述べているのが、フェミニスト地理学者レスリー・カーンの『フェミニスト・シティ』(3)である。カーンは問う、「なぜ、ベビーカーは交通機関に乗せづらいのか? 暗い夜道を避け、遠回りして家に帰らなければならないのはどうしてか?」。デヴィッド・ハーヴェイなど数多の批判地理学の知見が明らかにしてきたとおり、都市の建造環境はもとより資本主義そして国家と不可分なものだが、カーンにとってこのことはとりもなおさず、都市が「われわれ」のものではないということを意味する。都市とそれを構成するインフラは、白人、異性愛者、健常者、ミドルクラス、国籍保有者などなどの男性の主観性から設計されている。このように述べることがリベラルなアイデンティティ・ポリティクスへの警戒心を呼び起こすのなら、より端的に、ジャック・ランシエールがいうところの「不和」(4)を除去する装置の組み合わせが都市なのだといっておく。一九世紀のパリでかのジョルジュ・オスマンが手がけた都市大改造が、人民の蜂起を予防し、いざとなれば鎮圧する目的を兼ねていたことは周知のとおりである。都市は、そこに現れることができるものと現れることができないものを分割する、それじたいが巨大な敷居なのである。

 もっとも、現れることができないものたちはしかし、別の意味で現れている。イアン・アラン・ポールは、現在のパレスチナ/イスラエルの地におけるランシエールの限界を指摘する(5)。パレスチナ人は、イスラエルが駆使する数多の軍事的監視テクノロジーによってつねに監視され、強制的に可視化されている。現れることをつうじた、分け前なきものの分け前を要求するものとしての政治は、イスラエルによってすでに囲繞されているのである。そして殺される。かかる「絶滅主義」(6)的な統治を物質化したものこそ、分離壁であり、検問所であり、あるいはそれじたいとしてはごく凡庸な見かけをとった入植者たちの住居やホテルやプールの類にほかならない(7)

 こうした可視性の操作は、それと相補的なもうひとつの極を備えてもいるだろう。たとえばテルアビブがゲイ・フレンドリーな都市としてみずからを演出し、イスラエルが同性愛に寛容なリベラルな国家として自身を誇示しているのとまったく同様に、今日の都市では口さがもなく多様性ダイバーシティが言祝がれる。すなわち、その現れを防いできたものたちを、別の仕方で現れさせること――女性や同性愛者や有色人種や障害者や高齢者や子どもなどなどに優しい都市を。この現れが分け前の新たな分有そして平等につながるものではけっしてなく、ときに消費をつうじた、そしてときには取り締まりをつうじた、新たな収奪と蓄積の機会を準備するものにすぎないことは、ホモノーマティヴィティやホモナショナリズムをめぐる議論が例証するとおりである。敷居はなおも横たわっている。

 『フェミニスト・シティ』のあとにカーンが上梓した『Gentrification is Inevitable and Other Lies(8)は、この情況における革命のツールボックス的な著作である。カーンは同書で、ジェントリフィケーションは不可避で自然的な過程である、ただ階級関係のみに起因する、文化的な趣味の産物である、物理的な立ち退きのみを指示するといった通説に次々と反駁していくとともに、それを食い止め、押し返すさまざまな実践を敷衍していく。労働者や女性や黒人や先住民など、便宜的には区分されつつも輻輳したその実践の担い手をカーンは交差性の概念によって把握しようとするが、そこにはデヴィッド・グレーバーのケアリング階級の概念を当ててもよいだろう。いずれにせよ、ジェントリフィケーションが都市=敷居の再構成であるのにたいして、反ジェントリフィケーション闘争は敷居なき都市、ある意味では非-都市的な都市へと都市を脱構成する。もはや敷居がなく、いっさいの収奪の装置が拭い去られた都市――ジョルジョ・アガンベンの表現になぞらえれば、それは「都市ではないのではない都市」である。

 同書を手にとれば気づくことだが、カーンはこうした脱構成的都市闘争への参与に読者を促す仕掛けを、そこにいくつも含めている。自身の日常的な経験に重点を置いた記述のスタイルも、この点と無関係ではあるまい。とはいえ、こうした闘争への招待を取り上げて「レーニン主義では?」「構成的なのでは?」「アイデンティティ・ポリティクスに陥るのでは?」などと疑うのは――脱構成的に思考しようとするとき、期せずしてそうなりがちではないだろうか――いささか狭隘すぎるというものだろう。思い出されるのは、世界の創造をめぐるシモーヌ・ヴェイユの思索である。神は自らが占めていた空間を退くことで、世界を創造した。創造すること、ヴェイユの言葉でいう脱創造とは、自分で埋めてしまわないこと、他のものに譲って、空けておくことなのだ。

 先に引いたイアン・アラン・ポールは、かつて自身が西岸地区で教師として勤めていたときに教え子たちと目撃した、分離壁に空いた穴のことを回顧している。その穴は、「かつては敷居があったがもはや存在しない世界の証拠」(9)として、なんら正当性の釈明を必要としないアナーキーなものとしてただそこにあるのだ、と。穴という物質的で空間的な様態は、分離壁という敷居へと結晶した入植植民地主義的セトラー・コロニアルな権力の脱構成へと、ここにおいて結びついていく。空間を空けることは脱構成の問いとなり、脱創造は脱構成と分かちがたいものとなる。

 カーンはクリエイティヴ・シティやクリエイティヴ・クラスといったジェントリフィケーションのイデオロギーを批判しつつも、闘争における創造性クリエイティヴィティ重要性を手放さない。これを「社会」的――かつてティクーンが批判した意味での――すぎると言い募ることもできるが、それよりもわれわれとしては、脱創造=脱構成へと引き寄せて読むこともできるはずだ。じっさい、夜の都市を安全に気ままに歩きたいという自身の欲望が、どこかで有色人種やホームレスの男性たちの取り締まりに結びつきはしないかと自問するカーンの姿勢は、革命のありかたによく適ったものであるように思える。夜の街を歩いてどこに向かうのか――スターバックスか、違う。ハイクラスなブティックか、そうではない。つつましくもただ、友に会いに行くのである。旧知の友に、まだ出会っていない友に。

 ところで、友であるとは何を意味していたか。かつてイエスはいった、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ1515節)と。そしてその友へと、自らの血と肉を食物として供した。「友のために自分の命を捨てること、それ以上に大きな愛はない」(13節)のだから。革命が空ける非-都市は、このような交わり=聖餐コミュニオンの空間である。これは、神学化された道徳談義だろうか。畢竟、重力に引きずられるのがヒトではある。不幸を被ったヒトは自らを軽蔑し、そして他者へとそれを転移させる。自分のことも他者のことも大切にすることができない、それがヒトのある種自然な姿ですらあることを、ヴェイユはよく認識していた。だが、イエスはほかならぬそのようなヒトへとコミュニオンを開いたのではなかったか。非-都市のコミュニオンは敷居を設けない。それが容れないのはただ、誤った仕方でこの自然を糊塗し、自らの餌とする力だけである。

 



(1)李珍景『不穏なるものたちの存在論――人間ですらないもの、卑しいもの』影本剛訳、インパクト出版会、二〇一五年。

(2)都市における出会いについては、アンディ・メリフィールド「都市への権利とその彼方――ルフェーブルの再概念化に関するノート」小谷真千代・原口剛訳、『空間・社会・地理思想』二一号、二〇一八年、一〇七-一一四頁。

(3)レスリー・カーン『フェミニスト・シティ』東辻賢治郎訳、晶文社、二〇二二年。

(4)ジャック・ランシエール『不和あるいは了解なき了解――政治の哲学は可能か松葉祥一・大森秀臣・藤江成夫訳、インスクリプト、二〇〇五年。

(5)Ian Alan Paul, “Anaesthetic Violence,” Illwill, December 16th, 2023, https://illwill.com/anaesthetic-violence.

(6)ピーター・フレイズ『四つの未来――〈ポスト資本主義〉を展望するための四類型』酒井隆史訳、以文社、二〇二三年。

(7)この点について、一定の慎重さを保ちつつも付言しておく。現在、日本語圏をふくめグローバルにパレスチナ連帯、ガザ解放の機運が盛り上がっているが、そのなかではしばしば、イスラエルによって虐殺されたパレスチナ人の遺体の写真がインターネット上などで流通している。しかも、連帯を呼びかけるといった文脈で、それは積極的に流通させられている。もちろん、パレスチナで何が起きているのかを知らずにいることはできないし、そういった写真が強い情動的な喚起力を有するのも事実だろう。写真は「この情況を見てくれ」という訴えるひとつの実在なのだ。だがそのうえで、なお考えるべきことがある。すなわち、そうして悲惨さを梃子にして連帯を立ち上げることは、翻って大規模な攻撃のときにのみパレスチナが俎上に登るといったこれまでの流れを、なぞることにはならないか。あるいはそもそも、情動によって政治闘争を動かしていくことじたいをどう考えるか。ここでその答えを出すことはできない。ひとついえるのは、われわれが遺体の写真からなにがしかを感知するのであれば、それとまったく同じ強度でもって、そのものとしては何の変哲もないイスラエルの風景――家屋や娯楽施設や種々のインフラ――からも感知すべきことがあるのではないかということである

(8) Leslie Kern, Gentrification is Inevitable and Other Lies, Verso: New York and London, 2022.

(9)Ian Alan Paul, “Anaesthetic Violence.”

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