世界の死としての身体 「死してなお踊れ」書評
P.L.W
この列島において最も革命的な、そしてアナーキーな思想は一遍によって創成された。この苛烈さははじめて栗原の著作によって発見された。
一遍は仏教的ニヒリズムを受動的なものから徹底して能動的なそれに転換させた。その能動的ニヒリズムの徹底において本書を超える書はない。その平仮名の多用と啓蒙的な文体によって、本書はその意図をつつしみぶかく隠しているが、それらが政治的な戦術であることはあきらかである。
まず念仏がある。阿弥陀仏がすべての人民が救済されないかぎり仏になることはないと誓ったという一文がそのすべての根拠である。法然・親鸞・一遍がそれぞれのスタイルでこれを極限化させた。極限化とは最小回路化である。彼らは阿弥陀の請願という仮構作用をもって外を信の対象とした。他力とは自由意志の否定である。親鸞の「歎異抄」は自由意志への批判のみが外を開くものであることを生の技法としてあきらかにする。
念仏はしばしば一神教的といわれるが、それとの違いは歴然としている。阿弥陀仏はかつてすべての救済を誓ったことがあるというだけにすぎず、ここにはいかなる垂訓も供儀もない。
吉本の親鸞論は一遍のラディカルを批判することによって成立する。吉本の親鸞は左翼前衛主義への批判としての大衆論の帰結でもあった。いうまでもなくそこは親鸞の限界でもある。
親鸞と一遍を断絶させるものは「踊り」=身体である。一遍による身体の発見が芸能の起源であったことはよく知られている。この身体の発見への着眼こそ本書における栗原の偉大な貢献である。
一遍において他力に委ねるとは蜂起であった。蜂起とは能動的な破壊である。この地に王国を願うのは日蓮である。他力派に残されたのは末法=世界の死を徹底させることだけであった。そして外部とは身体であり、時間である。ここに踊るという蜂起が生成する。そして極楽とはこの世界の死である。