『大量殺人の“ダークヒーロー”』に寄せて 補遺
NEZUMI
前回、粉川哲夫の書評を批判的に引用したものの、その評自体は重要な見地を提起している(粉川哲夫のサイト「雑日記」を参照)。粉川は「共謀罪」にふれつつこう書く。「はっきりしているのは、いまの時代は、「共謀」など不可能な方向に向かっているということだ。」「いま進んでいる管理と生産様式は、ひとびとを極限まで孤立させ、さらには、一個の人格の内部の複数の自我、さらには、もっとミクロな分子単位をもばらばらにしながら、適度に「共謀」させる(その一つのモデルが「シェアリング」)という前提と願望で進んでいる」粉川はこの事態の先にビフォに即しつつ「「アイデンティティ信仰」は変わらぬままなので、孤立した個、孤立させられた分子は、「アイデンティティ」に対する反乱を起こさざるをえない」として「ダーク・ヒーロー」の「反乱」をとらえるのだ。しかしこの「反乱」は「アイデンティティ」の捏造に向かうのではないかというのがわれわれからの応答であったが、その前段の現状認識は共有したい。
不可視委員会はこの「適度」な「共謀」の強制に対して「断片化」による「孤立」からコミュニズムを開こうと告げた。孤立とは「離脱」であり、「共謀」はその段階でこそたちあがるだろう。
この相違はビフォが「自殺」と「殺人」を同一にとらえることに由来するとわれわれは考える。この両者に同一視に根拠を与えるのはいわゆる「自爆テロsuicide terrorism」なのだろうが、その起源とされるわれらが「リッダ闘争」は決して自殺的ではなかった。
ビフォは両者を同一化したいがためか、日本の例で1977年に若者の自殺者が急増したことと1983年の横浜寿町野宿者襲撃を無造作に併記している。しかし統計では77年に若者の自殺は前年よりは微減している。また83年の野宿者襲撃は84年の佐藤満夫、86年の山岡強一虐殺の予兆であったというべきである。(ただしイタリア人であるビフォがこの事件に着眼したこと自体は評価しなくてはならない)しかし「自殺」と「殺人」を切断することこそが重要ではないか。これは現在のファシズムの問題であり、先にも書いたとおり「ダーク・ヒーロー」と共鳴するのは現在の新たなファシズムである。
粉川は「雑日記」で一貫してオルタナ右翼を注視してきたが、今回のバノンの分析にも学ぶことが多い。「おそらく、バノンは、今後、イデオロギー的「極右」とも、議会制体制派とも異なるネットワークを組織し、民主党のみならず、共和党をもふくむ「体制」そのものをぶちこわす方向を展開しようとするだろう」と粉川は書く。レーニン主義を標榜するバノンはあきらかに(実際に影響関係があるか否かにかかわりなく)BLACK ENLITHIMENTの中心的思想家ニック・ランドの同志である。「相模原の戦争」(7号)であきらかにしたとおり、かれらは終末論的加速主義者である。かれらの望みは世界が混乱のうちに滅びていくことであり、その関心はレイシズムの勝利ではなく、これによる抗争の激化である。(ビフォもその一員とするアウトノミアもまた逆の意味で加速主義である。この対照については別途、考察したい)
こう書くことはいうまでもなくこれへの対決の停止をよびかけることではない。むしろ彼らの愚劣な破滅願望そのものを死滅させるべく、これと闘わなくてはならないのだ。ただし「相模原の戦争」で書いたとおり、この対立は非対称的である。ここで問われているのはポスト人間主義をめぐる闘争なのだ。