『大量殺人の“ダークヒーロー”』に寄せて
NEZUMI
われわれは「相模原の戦争」において植松聖による重度障害者の虐殺を現在の内戦のあらわれと規定した。フランコ・ベラルディ(ビフォ)による『大量殺人の“ダークヒーロー”』が描く殺人者たちは植松の兄弟である。
ヴァージニア工科大学乱のチョ・スンヒ、ヨケラ高校乱射のオーヴィネン、そしてノルウェーのブレイヴィークなど本書の主人公たちの誰も自分たちの利益のために銃をもつことはなかった。それぞれが自分たちの描く歴史と大義のために虐殺にたちあがったのである。
オーヴィネンは書いた。「これはわたしの戦争なのだ。人類に対する戦争、世界中の政府や愚かな大衆に対する戦争なのだ」。
では彼らはねじまがった蜂起主義者なのか、アウトノミアが赤い旅団をそう呼んだように「あやまてる兄弟」なのか。もちろん絶対に違う。彼らの大義、彼らの歴史は「統治」にささげられているからだ。かれらのおぞましさはネトウヨと同根なのだ。
『プレカリアートの詩』において本書の主題は予告されていた。すなわち資本主義の破局的な展開が強いる抑鬱が自殺と大量殺人として現象しているのだ、と。そして抑鬱は「統治」の病いなのである。
ビフォはそれらの大量殺人者が死を覚悟しているがゆえにこれと自殺を同一の病いと規定しているようだが、その原因が同じであるとしてもその同一化は本書の潜在的な政治性を弱めることにしかならない。粉川哲夫は本書によせたすぐれた書評で「ベラルディは、とりあげた人物たちの、大量殺戮的欲動と自殺のそれとが同じ根に根ざしていることを指摘している。いずれも、強制される「アイデンティティ」への反乱であり、反抗である。」としているが、殺人者たちの目的はアイデンティティの防衛なのである。これを過剰にしているのは現在の「統治」の危機である。
これらの「ヒーロー」たちが仕掛ける内戦にどう反攻すべきなのか。これは彼らの統治をよき統治をおきかえることではない。では「治癒」としての戦争はありうるのか。たしかなのは、その「統治」の正当性の根拠そのものを破壊することがわれわれの任務であるということだ。つまり歴史を中断させ、装置をなきものにすること、「世界の死」をもたらすことである。