ジェントリフィケーションをめぐって
NEZUMI
ジェントリフィケーションへの闘争は現在の前線である。その意味でも最も重要なサイトである「反ジェントリフィケーション情報センター」の「トリノの路上から」が引用するように「権力はインフラにある」(『われわれの友へ』)にあるからだ。これを「遮断」することは「時間をとめる」(同上)ことであり、歴史を停止させることだ。インフラこそ「文明」そのものであり、したがって反ジェントリフィケーションの闘争は「文明の死」を到来させる実践である。
大阪においては新左翼がジェントリフィケーションの推進派となっている。東京でもこれと類似した事態がないではない。これらは左翼の溶解の結果だ。「労働者たちの運動は資本主義に敗北したのではない。民主主義に敗北したのである」(トロンティ)。われわれは90年代以降、かつてのプロレタリア独裁主義者が雪崩れをうって民主主義者を自称するようになる光景を目にしてきたが、これはネオリベラルの進行と運動のNPO化に対応するものであった。そしてここ数年の政権の極右化はこれを劇的におしすすめた。新左翼が自分たちの運動の足場ではジェントリフィケーションに加担しつつ、安保やレイシズムとの闘争のシーンでは最左派として登場することは現在の喜劇的な象徴である。ジェントリフィケーションとの闘争とはこれと根底的に訣別することでもある。
権力のインフラ化は現在のこととしても、歴史的にインフラへの闘争は常に前線であった。もうひとつの偉大な前線である辺野古や高江をみよ。反基地や発電所への闘争を思いだそう。70年代から80年代はじめにおいては国際空港というインフラとの闘争が左派のよりどころだった。
いま公開がはじまりつつある『月夜釜合戦』はジェントリフィケーションに対する闘争そのものである。『山谷 やられたらやりかえせ』が帝国との闘争そのものであったように。『釜合戦』は人情喜劇であることによって「スラムの惑星」にすまうわれわれの自己組織化が歴史を停止させることを感動的にさししめしたのだが、これについて詳論することは別の機会としたい。