流言は既に革命の到来を告げている
HAPAX
本稿は海外の著作に掲載のため、「HAPAX」1号、4号などのテクストを再編集して2016年に書かれたものである。ここで言及されている「放射脳」の一帰結である「移住」運動については8号の高祖岩三郎「黙示録的共産主義」を参照されたい。
1「無題」
70年代、南半球で軍事独裁がトレンドとなる。同じころ北半球では原子力発電所の建設がトレンドとなる。軍事独裁は第三世界に対する統治の装置であり、原子力発電所は第一、第二世界に対する統治の装置だった。地球のこっち側で同志たちが失踪したり軍部に誘拐されたりゴミ投棄場で死体となって見つかったりしているあいだ、反対側ではたとえていうなら映画のフィルムに一コマ紛れ込ませるような、妙にコソコソした監視がはじまった。ちなみに、ここでいう第三世界とは場所の名前ではなくとある革命プロジェクトの名称である。第三世界革命プロジェクト。そのプロジェクトは実は第一、第二世界の内部でも痕跡をたどることが可能である。原子力発電所とともに生きることは全員が潜在的なテロリストと見なされ取り締まりの対象となることなのだ。監視カメラの体系的な導入も70年代。
2「不埒な女。」
時は1977年、聖霊降誕祭の月曜日、スイスのゲースゲンには数万人が集まっていた。当時、建設が予定されていた原発に反対するためである。なにかが湧き上がってきて微動だにできない。あらゆるもの、あらゆる人間が彼女にぶつかり千の舌打ちを浴びるが自分の夢想に浸りきって動かない。彼女のいびつなニタニタ笑い。やがて頭をふってすっきりさせ、ここがどこかも分からない様子でしげしげと辺りを見まわすが、一瞬たってから自分がいつのまにか拘置独房にいることに気がつく。
この物語はアンナ・R(仮名)22歳が抗議の群衆が立ち去った後も、ひとりでたたずみ見聞きしたことをよく考えようと思ったところ、警察にこの振る舞いを見咎められて逮捕されてしまったという実話だ。逮捕されたアンナ・Rを待ち受けていたのは生まれ変わって社会と呼ばれる地獄に帰還するための精神病院収容、および電気ショック療法であった。原子力発電所とともに生きることは全員が潜在的なテロリストと見なされ取り締まりの対象となることである。アンナ・Rのスキャンダルが暴露したのは原子力管理体制への移行という、とりかえしのつかない経験であった。カネだけ持ってる最低野郎がいつまでもこの事実を隠ぺいしようとするとしても、たしかに体制は変わったのだ……。
アンナ・Rの孤独な姿は原子力発電所によって維持される社会をこばんでいる、と同時に、いびつなニタニタ笑いが反対運動の仲間たちをイラつかせるのは彼女が反対運動そのものにも入り込む社会をこばむからにちがいない。
アンナ・Rは寓話である。
わたしたちも寓話である。
まわりの憎悪に火を点けて
爆発につぐ爆発をまきおこす
人間爆弾に火を点けて
うんと遊ぼう
3「この世界になにかなすべきことがあるとしたら、この世界から逸脱することだけだ」
精神科医にしてもっとも偉大な第三世界プロジェクト功労者フランツ・ファノンは死の床から同胞へむけてゲキを飛ばした。「おい、ヨーロッパ人であることを止めろ」「ヨーロッパ人になろうとすることも止めるんだ」これはいまやこう読みかえられるだろう。「おい、人間であることを止めろ」「人間になろうとすることも止めるんだ」人間から生を解放しろ。
放射能は三つの漢字であらわされる。「放射する」を現す二つの漢字に「能力」をあらわす一つの漢字。この「能力」をあらわす漢字を「脳」をあらわす漢字に変えてみよう。「能力」も「脳」も音が同じで、口に出してよんでも区別がつかないから、ひとつの音に意味をふたつもたせたカケコトバになる。放射「脳」。このコトバは耳から入る情報より視覚情報を優位においた場所で力を発揮する。となると半ば予想がつくかもしれないが、これはもっぱらウェブ上で使われるスラングだ。ウェブでは視覚が優位に立つことは承知の通り。福島第一原発事故による高濃度放射能汚染に過敏な反応をみせる人々、ほどの意味だ。
放射「脳」は蔑称である。脳たちの特徴を思いつくままに挙げてみよう。まず、人が死ねば死因はすべて放射能汚染だとする。事故死であっても寿命でも同じ。発病もしかり。芸能人や政治家の不倫スキャンダルもうつ病も奇行も放射性物質が脳にまわったためだという。福島周辺で収穫された農作物は絶対に手をつけない。国に義務付けられた検査を通過してようとしていまいと関係ない。魚や牛、豚、鶏、等々の畜産物はもちろんいうに及ばず。日本政府が福島から約200キロ離れた首都東京までの地域を安全だと、つまり被ばくによる健康被害の可能性が小さいと言いはるのは、本質的な目的を隠ぺいするための偽装だとする。こうした隠ぺい工作には日本政府だけではなくCIAも関与しているとする。本質的な目的とは、汚染地帯を汚染地帯と認めると特に首都で地価が下がり、いろいろあってから最終的に国の経済が破たんするのを防ぐことである。脳たちによれば2020年の東京オリンピックは死の祭典である。心ある各国、個人はボイコットすべきだ、一時的でも東京に滞在すれば被爆をまぬがれない。また福島から東京までの汚染地域での居住は病や遺伝子変異をまねき、きわめて危険である。当該地域の全住民にはまったなしの移住をすべきだ。この地域での出産および子育ては子への権利侵害であり、虐待行為。以上、被ばくリスクをなくすためにゲスなほどエゴイスティックになるのが脳たちである。自己犠牲や自粛の身振りはみじんもない。
当然、こんな脳たちを文化人や良心派は批判する。たしかに事故直後のパニックのなかではさまざまな議論を許容する余地はあったかもしれない、だが事故から6年が経過したいま、内部・外部被ばくによる健康被害は低いと科学的に決着がついた、科学的根拠のない憶測でただでさえ混乱している被災地をさらに混乱させるのはやめろ。放射線にかんする知識をほとんど持っていないにも関わらず、あぶない福島を前提に「不安によりそわなければならない」とか「自分たちこそ正義だ」とか自己正当化するのはやめろ。被災者をさらに傷つけ自分の商売の利益に変えるのはやめろ。この、悪の錬金術師め。
このように、文化人や良心派は脳たちをカルト呼ばわりする。たしかに脳たちは狂っている、狂いたがっている、狂わざるをえないが、どちらかといえばカルトというよりもその行為は犯罪である。池田雄一の話では放射能がおかれている存在論的なポジションとは独自のものだ。それは古代ギリシャからある四大元素をすべて総合したようなシロモノである。放射性物質とは火であり水であり土であり空気であるような物質のことである。この物質は感官によって感知できる世界とそうではない向こう側の世界との境界をかたちづくっている。これらの境界は放射性物質という即物的な存在に置き換えられることになる。放射能にみちた世界とは、したがって、境界の消失した世界である(『思想としての3・11』)。
脳たちはなにげない通勤風景やいつもの食卓にドリッピング絵画のようにまきちらされた放射性物質を見る。放射性物質は普通、目に見えず、匂いもせず、味もせず、それゆえに恐ろしいものだが、脳たちはその存在を感じとる。放射能測定機器による数値として、推論として、またはそれすら超えるなにか、たとえば本能的で神秘的な直感によってなどなど。放射能はよく見知った風景に闖入する異物として、あるいは風景そのものの変容として日常の遠近法を狂わせてしまう。脳たちがその特殊能力により感知した放射性物質をアトムと呼ぼう。そしていろいろの物質と共に世界をかたちづくる、もの悲しい世界の仕組みをアトミズムと呼ぼう。アトミズムは古代哲学のスキャンダルだった。そして今現在、脳たちもスキャンダルをまきおこしている。大儀の実践がただひとつの大地を全面的に転覆し、別の自然を創設するものである以上、この場合のアトミズムは国家や経済、社会にとってはそのままひとつの武器として現れることになる。武器が発明される方法はさまざまにあるが、いずれにしてもその発明はいかにささやかなものであれ、既にある秩序の中にはっきりとヒビをいれていくものとなる。そしてアトミズム=武器の発明とともに開始される実験が公然化するとき、それは端的にいってひとつの犯罪と呼ばれる。
脳たちは被爆者たちの物語を熱心に収集する。広島長崎のルポタージュ、ロンゲラップ島民のノート、チェルノブイリの聞き書き、ベラルーシの医師たちの証言、スリーマイルのなんとかかんとか。どの物語が正しいかではない。それがこの物語である限りにおいてどの物語も尊重される。IAEAの調査報告よりもよくわからない仲間の噂話に信をおく。これはそのまま英語によってロンダリングされた知のグローバリゼーションに対する対抗運動、より低い地点からの物語の収集だ。脳たちは非科学的でどうしようもない、という指摘は的を得ている。脳たちは数値の多寡をめぐる議論そのものをあらかじめ退けているから。彼らがこころみているのはこの身体を数値化すること、一般化することそのものに対するラッダイトであり、統計を通した生の抽象化、死のカテゴリー化に対するラッダイトでる。彼らは被ばくさせられることと同時に社会そのもの、統治そのもの、他の諸身体とともに他の諸身体に扱われることを拒否しているのだ。そうした営為が生成させていくのは無数のナラティブが可能であるような無秩序のコアリションの平面である。ある部分は有意なデータとして科学に回収されていくだろう。放射線科学や歴史学をはじめとしてさまざまな分野の科学を洗練させることに寄与するだろう。だが脳たちの営為はしろうとの下からの科学であるだけでなく、科学の条件そのものに抵触しているために嫌悪の対象となってきた。科学は物語群を自身の条件に屈服させデータ群として扱う。しかし脳たちが蒐集したデータ群は物語であることからも切り離せないのだ。とくに3・12以降、この身体のものがたりの無秩序のコアリションはパニックと呼ばれてきた。だが流言の反乱は既に革命の到来を告げる。アトミックで平滑な空間は出現している。物語のコアリションそのものがデータ・ストライキと呼ぶべきものを引き起こしている。
第三世界プロジェクトから学ぶ教訓はつぎのようなものだ。「状況を武器に転化せよ」。さて、くだんの文化人、知識人の批判を書きかえよう。2011年3月12日にひとたび解き放たれた脳たちの無意識はもう一度、戦場をよびよせるのだと。それに対応する生のかたちが流言である。死と自由とを平等に引き寄せる肉体の極点とそこに反射する暴力。流言こそ、都市下の日主体的な実存であり、その様式において横断的である。あらゆる街頭の趨勢は流言にかかっている。病的であるがゆえに暴動的であり、それによってプロレタリアからも離脱する。流言は反生産的であり、したがってマルチチュードとはなんの関係もない。この終わりなき生の表現としての暴動はときに暴動のかたちをとらない。人間たちからなる社会を葬るために……。流言は既に革命の到来を告げている!
4「ふたたび無題」
元・ソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによればソ連が崩壊したのは確かにチェルノブイリ原子力発電所事故のためだという。原子力発電所は体制の権威を物質化したものである。それがコントロールできないことは権威への隷属にもとづく体制の瓦解を意味するはずである。ここ日本においてもおそらくは今後被害があらわになるにつれて現在の体制は維持できなくなるだろう。
最近、というかここ数年この国の政府は次のように言っている。高濃度放射能汚染という事態も自分たちの神のごとき全知全能をもってすれば必ずや就職し、自分たちの都合のよい方向へと変化させることができるだろう、と。そしてあたかももうその時が来たかのように振舞っている。思い出すのは「もうひとつの世界は可能だ!」という90年代反グローバリゼーション運動がぶち上げた全世界的なスローガンだ。これは世界は変えることができるという可能性の強調にとどまらずしかもそれは自分たちの手で可能なのだという力強さをもっていた。だからまあ口にすると快感を感じたり元気が出たりしたものだ。しかし3・11のあとではこのスローガンも皮肉に響く。わたしたちには汚染されたこの世界しかない。放射能汚染や被爆の実態を否認する社会に住まう以上、これはいくら強調しずぎてもしすぎることはないだろう。現実を直視することが希望の始まりだ。大地から太平洋にまで拡散した放射性物質を全て回収することは誰にもできない。
被ばくした社会において資本は絶えず「もうひとつの世界」を呼び込みながら駆動する。「もうひとつの世界」はわれわれの眼前を満たし、それにより社会は継続する。これに対し、たとえば個人の放射性物質計測活動などは、「もうひとつの世界」をおいはらう悪魔祓いの作業だといえる。不可視の放射性物質をデータ化し可視化することはわたしたちの世界と直接ふれあう行為だ。資本のよびこむ別の世界は存在しないということを暴いていく。簡易測定器で集めたデータが生産を止めることもあるだろう。放射性物質の測定は、だから、「データ・ストライキ」とでも呼びたいような側面をもつ。この生においては「もうひとつの世界は可能だ」と叫ぶより「もうひとつの世界は不可能だ」と叫ぶことがよりラディカルなみぶりとなってしまった。わたしたちは現在、そういう社会に生きている。
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みんなもうひとつの世界は可能だと思い込みたがっていて、もうひとつの世界をほしがっている。そんなの冷静に考えればまるっきり無理に決まっている。あまりにばかばかしいから信じるしかないというたぐいの話だもうひとつの世界が不可能だという事実がまだのみこめてないだけで。もうひとつの世界が不可能な唯一の理由はもちろんもうひとつの世界が「ない」からで、それなら一体なにが「ある」のか。実のところ問題なのはそこで、事故から毎日のように会議をやってるわたしたちや、あらゆる名前で無数のテクストを書くわたしたちや狂気そのものの脳たちは「ある」という肯定形で一体なにをやっているのか。
5「弁証法ってなんだ。」
ある命題「テーゼ」とそれと矛盾する命題「アンチテーゼ」があり、二つを本質的に統合すると命題「ジンテーゼ」のできあがり、一般にはこの動きをいう。わたしたちなりにごく簡単にいいかえてみるとAがある。Bがある。AとBは対立している。二つが止揚されてスーパーAのできあがり。弁証法はAとBの差異を最大化し、Bを殲滅し、Aを強化し、かつ全体は保持する、そんな仕組みのことであり、これを解放だといいくるめる悪人は後をたたない。が、これこそが統治だとわたしたちならいう。もっと簡単にいいかえよう。ヘイトクライム野郎がいる。それに反対する市民運動がある。最後にこの二つを止揚する共産党が出て来る。これが弁証法だ。さらに言おう。恋愛する。セックスする。二人は結婚する。ああ、習俗打破。これが弁証法だ。わたしたちは恋愛でもあればセックスでもあるような友情の方法を考えたいと思っている。賢者の俯瞰的な愛ではなく自然の逸脱を思考する友情の狂気をもとめ、大海を小舟のようにさすらいたいと。
つまりひとことでいえば差異を最大化する統治の方法が弁証法である。このときAとBの関係を「体言(コントラ・ディクション)」という。一方、弁証法とは無関係に差異が最少へと向かうとき、AとBは「副言(ビス・ディクション)」にあると江川隆男はいう(堀千晶との対談「絶対的脱領土化の思考」など)。実は副言こそがわたしたちの政治で、その政治とは弁証法の解除であり、あらゆる裁きとの決別である。副言とはアトミズムのことだ。AとBが結合し、衝突し、遭遇し、運動する。差異はなにも特別なものではなくただ濃度の違いに過ぎないし外部であるような超越的な一者は存在する余地すらない。世界はもやのかかった夕暮れに似る。水もやのたちこめるような春の日に明かりが灯りはじめた町を歩けば、すれ違う全て、なにもかも、ぜんぶがみんな美しいと詩人もうたっている。薄明りのもとで主体と客体は入り混じりこの逢魔が時において否定はなくただ差異があるだけだ。こうした情景をわたしたちは友情と呼ぼう。
弁証法のもとでAと体言の関係にあるBは来るべき統合をにらみ「否―A」といわれる。しかし副言におけるBとは「否―A」ではなく「非―A」だ。このときAとBの関係は対象から非対称へと変わる。なぜならBという存在を肯定的に下支えする副言的な別の要素がBという存在をあらしめているから。BはBが意識しているかいないかにかかわらず生存の条件が変化することを欲望しているし、そんなBには「否―A」に規定されない別の出来事が生じていて、この出来事は無際限に開かれてもいる。たとえばBは汚染された都市で鍬も鋤ももたない農民になるだろうし、路上でファック・ザ・ポリスに生を燃え上がらせるだろうし、中学の窓ガラスを96枚割るだろうし、反原発デモの最後に一人静かに見聞きしたことをよく考えるだろうし、無数の会議を開いてうんざりするだろうし、あらゆる名前で無数のテクストを書くだろうし、無数のグラフィティが内戦を告げるだろうし、無数の鳥や鼠たちがうごめき始めてもいる。たしかに被ばくは自明であり地上から放射性物質を消すことは出来ないがわたしたちは大地や海や身体や友達や小動物たちのうちに否定性を知らない存在を探りあてようとする。こうしてわたしたちの存在そのものがアトミックに流転するとき到来する共同体は狂気と共にあり犯罪的なものとなる。さもなければ存在しないだろう。