『三つの革命』を読んで
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『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』は「彼ら(ドゥルーズ=ガタリ[以下DG])の全仕事の核心に『革命』という主題はあったということを、今こそ、一点の曇りも残さない仕方で再確認しなければならない」と告げる。そのために本書はDGの三冊の主要な共著を論じながら、「資本主義に対する闘争のために、すなわち革命のためにドゥルーズ=ガタリが提案した、三つの異なる戦術を描き出す」。三つの戦術とは『アンチ・オイディプス(AO)』におけるプロレタリア革命と分裂者による主体集団の形成、『千のプラトー(MP)』におけるマイナリティの公理闘争、『哲学とは何か』においてはマジョリティの恥辱から「来たるべき人民」を呼びかける革命的実践とされる。
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著者たちによればブルジョワからプロレタリアートが割って登場し、プロレリア革命を割って登場する「分裂者による主体集団の実現」が登場する。この「分裂者主体集団」が全体の基調となるのだが、『AO』の記述からそれが「割って」出てくるかのように読み取ることは困難である。一言でいうなら、DGがそこで書いているのはプロレタリア革命もそれを実現するのは主体集団の形成が不可避であるということではないのか。レーニンも「四月テーゼ」をあきらかにした時はいくぶんか分裂者であったのである。そうでなければ「レーニン的切断」の意味はない。
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また仮に「分裂者主体集団」が戦術であるとして、それはいかなるものか。階級形成論のように人びとを「分裂者主体集団」へ転化させていくことなのか、「分裂者主体集団」を同心円的に拡大させていくことなのか、それとも「分裂者主体集団」が資本主義を打倒する前衛となるのか。この疑問は、革命とは「万人の主体集団の実現」であるという回答によって得られる。驚くべき事に「主体集団」は戦術であると同時に革命の内容でもあったのだ。しかしだとしたら戦術とは何だったのか。革命とは「資本主義の打倒」だとも語られていたが、「分裂者主体集団の実現」はそれとどう関連するのか。
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本書ではこの戦術はプログラム(綱領)とも言い換えられる。一般に綱領は戦略を措定し、そこから戦術が導かれる。ここでは綱領が戦術へ短絡させられる。しかしそもそも著者たち自身が引用しているようにDGは「分裂分析はそれ自体として政治綱領〔プログラム〕を提示しようとするものではない」(AO下、304)と書いていたではないか。「分裂分析それ自体は、革命から出現するはずの社会体の本性の問題など提起していない」(下、305)。著者たちはこの禁をあえて破ったことで自らを混乱に招いた。
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ではDGから革命路線をいかにしてひきだしうるのか。簡単にここでおさらいをしておこう。著者たちも引用するように「革命」とは「分裂」であり、「因果性の切断」と同義であり、これは「逃走」として実現される(AO下、230−234)これは資本主義に対しては「離脱」の戦略を要請する。この「逃走」は『MP』においては「逃走線」として展開され、そこに「戦争機械」が登場する。「脱コード化と脱領土化によって作動する抽象機械がある。逃走線をひくのはこの機械である」。「逃走線」から生み出され「逃走線」を生み出すこの「戦争機械」が「資本主義を倒す」。ただしそのモデルは将棋ではなく囲碁である。「国家装置」の将棋に対する「戦争機械」としての碁。碁は戦闘なしの戦争、純粋な戦略、すなわち戦術なき戦略の実現である。これは革命/政治の脱様相なのだ。そもそも「存在以前に政治がある」と何度もDGは書いていた。そうであるならDGの哲学のすべては「政治哲学」として読まれることを要請しているのではないか。
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著者たちがここでDGの核心を革命であると言い切り、民主主義、社民主義にはっきりとした敵対を表明したことをわれわれは支持しうる。だからこそわれわれはこの書をとりあげなければならなかった。ついこの間まで著者のひとりは「代表制民主主義を補完する新たな政治的発明の模索」(「「市民—主体」の理念とそのポリティクス」)を語っていたが、その「政治的発明」が「人権概念」「民主主義概念」自体が「マジョリティであることの恥辱を知らない」ものとして訣別の上になされるなら注視されるべきである。