「行動の狂気」のために


NEZUMI
小泉義之『あたらしい狂気の歴史』によれば1970年代とは「狂気の抑圧に対して狂気の解放を対置する革命的年代記の破産」の過程であった。今年は68からの50周年だが、この一言に現在、ほぼすべての問題は凝縮されている。68とは「狂気の解放」としての「世界史的錯乱」の実験であり、その敗北が資本主義の狂気へのそれであったとするなら、その突破は小泉にならって「精神の狂気」にかわる「行動の狂気」によるほかなく、実際、そのようにして70年代の苦闘はあった。転機となったのは1972年である。連合赤軍がその路線の稚拙さにもかかわらず当時もいまも衝撃的なのは新左翼の敗北を「行動の狂気」として体現したからである。それ以降、赤軍派は「正気」へと復帰するべくどこよりもはやく古典的左翼に回帰した。先になくなった塩見孝也は講座派まで再評価したことは記憶に留められるべきである。その分派が21世紀にはいって左翼のNPO化=体制化の先駆けをなしたのもその「行動の狂気」への反動として理解される。連合赤軍の総括から左翼そのものを清算して「国家民営化」をとなえた共労党の笠井潔も大枠では同列である。しかし「狂気の解放」の総括はそのようなくだらないものだけではない。1973年、中平卓馬は「なぜ植物図鑑か」で68的錯乱としてのブレボケを自己批判して、物質的な「撮影行為」への転換を打ち出し、同時に沖縄へのコミットを開始する。しかしこれは錯乱に対する覚醒というよりより「高次の狂気」のための断絶であった。1977年の記憶喪失とはこれである(この軌跡を貴重な証言とともにあきらかにした書として高島直之『芸術の不可能性』がある)。「なぜ植物図鑑か」で中平はそれまでの自らの写真がどこまでも自らのイメージでしかなかったことに自らの敗北を認めた。江川隆男は思考にとりつく「鏡」こそ破壊すべきであるとして、ニーチェも「破壊的な鏡」の創出にとどまったことを指摘し、その破壊の実践をアルトー的な「器官なき身体」にもとめた。それにならうなら68的錯乱の限界とは「破壊的な鏡」にとどまったことにあり、中平の昏倒はこれをこえる「鏡の破砕」であった。

人気の投稿