「党」について
S・G
ラプジャードは政治=革命論としても際立った名著であるドゥルーズ論においてあらゆる闘争が1)公理系における闘争と2)〈外〉を開くための闘争という二重性をもつことを指摘している。〈外〉は実のところ、公理系への不毛な闘いなしに開かれることはない。しかしなんらかの闘争にかかわったことのある者なら、些末な消耗するほかないような実践がある別の次元へとつながることを感じたはずであり、それこそが人を闘争に向かわせるのである。つまり左翼であることとは二重性にあることなのである。ドゥルーズの左翼と右翼の定義である知覚の非対称性もここにかかわる。われわれはささやかな闘いにかかわる時でさえそれが遠くからのよびかけへの応答であるように感じる。しかしこの感覚こそ右翼には理解できないものなのだ。右翼が左翼の背後に謀略的意図を見ることしかできないのはこのためである。そしてこのふたつめの水準をどう名付けるかに革命の問いが、より一般的には「路線問題」がかかっている。「党」とはこの二重性の媒介者としてあらわれ、しばしば第二の水準そのものともなる。これを最も自覚的に対象化したのがレーニンであり、それゆえレーニンは党を「指令語」であることを定式化した。しかし「党」は外部注入的な「外部」であったとしても決して〈外〉であることはない。「党」とは擬制の〈外〉であり、レーニン主義は本質的に社民主義左派にとどまるのである。付言しておくならバディウやホルワードのようなレーニン主義者がドゥルーズを非政治化したがるのは彼らの左翼社民主義の限界そのものの表現でしかない。(ネグリから革共同まで)党派的な新左翼とは大枠でいえばレーニン主義の復権というプロジェクトとして定義されうるが、今日におけるその社民化はここに淵源する。