マイノリティと革命



S・G

われわれはひと月前、注で「シベルタン=ブランの『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』は国家と戦争機械の錯綜した構図を精緻に描いた重要な著作だが、著者のマルクス主義がその破壊性を脆弱にしているように思われる。その端的なあらわれは「マイナリティ」を「プロレタリアの再解釈」としてしか評価できないことだ」と書いた。以下の一節はその脆弱さをしめしてあまりある。「マイノリティの闘争と労働者階級の闘争を対立させることには意味がない。同じ難題に立ち向かっている以上、いずれの闘争も必要なのである」。しかし旧来の左派の革命とマイノリティへの生成変化を同列にすることこそ「意味がない」。その折衷こそがDGのマイノリティ論の革命性を隠蔽し、抑圧してきたのである。労働者階級の闘争がマジョリティのためのものであるなら、これとマイノリティの生成変化は別次元のものである。そして革命的なのは後者だけだ。労働者階級の闘争が時に革命的になるとしたらそれはそこにマイノリティへの生成変化を内在させているからである。マルクス主義の歴史とは「修正主義」との闘争であったが、これは同時にマルクス主義によるアナキズムの包摂の過程でもあった。むろんアナキズムを自称すること自体とマイノリティへの生成変化は無縁である。しかしアナーキーがあらゆる根拠そのものとの闘争である以上、ここにこそアナーキーが賭けられていることもたしかである。革命の歴史と未来はここから書き換えられなければならない。

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