「HAPAX」9号
S・G
HAPAX9号は「自然」を主題として間もなく刊行される。3・11以降の破局、そして「アントロポセン」という主題の浮上は「自然」を根底から再定義することを要請してきた。これは「政治」の再定義、すなわち新たな闘争の開始と不可分である。「アントロポセン」、すなわち地球温暖化をはじめとする人類の種としての絶滅の開始は資本主義の長期にわたる終焉の過程でもある。シュトレークが「資本主義はどう終わるか」で描き出したようにこの過程の悲惨さは喜劇的ですらあるだろう。かくしてこれらとスーパーインテリジェンスなるものが世界を支配するという夢想はなんら矛盾することはない。いうまでもなくわれわれにとって「持続可能な社会」を構成することなど意味はなさない。破局をいかなるものとして生きるかをめぐる闘争こそが問われなければならないのだ。この号に掲載予定のテクストで高祖岩三郎は書いている。「これからの『戦場』は、『破局』よって開示された『拡張する世界』の破綻と、それに対応した『終わることなき発展』の過程から、「終わることなき終焉」の過程への転換に、方向づけられていくだろう。(略)民衆闘争は、『破局=自然』のなかに、世界の拡張が捕獲しえない、そこからこぼれ落ちる
『自然=生成』を感受し、それを糧に「終わることなき終焉」の過程のなかに、世界史とは異なった時空間をつくってゆくだろう」(「自然という戦場」)。この闘争の偉大な先駆が過日、逝去した石牟礼道子と水俣闘争であることはいうまでもない。今回、これに多くふれることはなかったが、そこで発せられた問いはいまこそ検討されなければならない。この時、石牟礼ともうひとりのミチコとの晩年の接近を、すなわち天皇制を問い直すこともまた不可避である。このことが端的にしめすようにいまや敵は天皇主義リベラルとしてその姿を現しつつある。一年前、われわれはファシズムとリベラル、その両者とコミュニズムの内戦として世界を規定しようと考えてみた。しかしこのリベラルの主流が天皇主義者となるというのが現在だとしたら、先の構図はさらに錯綜したものとなるだろう。これについてはあらためてこの場で検討する。