栗原康「何ものにも縛られないための政治学」によせて


MK
ファシストは栗原のことを「メンヘラアナキスト」と規定して嘲笑するが、これは見事なまでに的を外した評である。栗原には病むべき内面など一ミリも存在しないし、そこに「メンヘラ」を見たとするなら、それは栗原という鏡に映された批判者の顔なのだ。自らがアナキストかファシストかも見分けがつかないほどに「メンタル」を病んだイデオローグたちはこの本に集約された栗原の政治論を一行たりとも理解することはないだろう。彼らの栗原への批判には自分が正当なアナキズムを知っていることへの自負とその教化への欲望があふれていて微笑ましいかぎりだが、それこそが彼らの政治をしめしている。ファシスト(および彼らと同盟するボリシェヴィキ)にとって政治は権力の構成であり、彼らが俗流アナキズムから真正ファシズムへ移行したのは必然であった。栗原にとって自分のアナキズムが正当であるかどうかなど問題ではない。むしろ正当性と根拠の放棄こそがアナーキーなのだから。栗原の文体はこの正当と根拠の拒否の表現であり、それゆえたえずユーモアが追及されるが、これは批判者たちのアイロニー(と呼べるほど上等かはともかく)と対照をなしている。本書は正当たることをあらかじめ拒否したアナキズムの教典であり、ここで栗原は「無知な教師」(ランシエール)をこそめざしているのだ。その帰結として本書はランダウア―へのリスペクトをもってしめくくられた。ランダウア―にとって革命とは離脱であり、そしてすべての離脱はただひとつの革命として途上にある。この確信において、いかなる批判も栗原にとっては栄光なのだ。

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