天皇制について、ふたたび


P.LW
先の投稿で菅孝行による天野批判をとりあげた。その際、菅の反天連批判を注目すべきものとして評価したが、菅の最新著「三島由紀夫と天皇」を読んで、その評価が早計すぎるものであったことに気づいた。菅の天野批判はつまるところ天皇主義リベラルをもふくんだ護憲統一戦線を構想するものであり、菅にとっては天野たちの議論はそれを阻害するがゆえに誤りなのである。同書はその戦後と現状分析を白井聡の対米従属論に依拠しており、菅はアキヒトの「憲法を蔑ろにする『現政権』との闘い」を評価し、そことの分水嶺は「天皇の霊性を価値とする」とするか否かにすぎない。われわれは天野たちの天皇制批判の根拠を民主主義にもとめる立論よりは菅のかつての戦後民主主義批判としての反天皇制論の可能性を評価してきた。しかしその帰結がここにいたるとしたら、戦後天皇制批判とは何だったのか、あらためて問い直さなければならない。天皇制という用語自体をうみだした32テーゼの誤りは天皇制を前近代的な装置であるとみなしたことであり、それは戦後の天皇の象徴化を闘争の対象とすることを隠蔽した。それに対して戦後天皇制の政治性をあばいたのは奥崎謙三、富村順一など、68以降の無名者たちによる直接行動である。彼らの戦いは戦前のアナキストたちの「テロル」の無意識的な反復であり、彼らはまさにマイノリティへの生成としてこれらを戦ったのである。ここで問われたのはまずはヒロヒトの戦争責任であったが、それにとどまるものではないはずだ。

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