総動員


NEZUMI
ハイデガーのユンガー論(「エルンスト・ユンガーへ」)は「ニーチェの唯一の真正な継承者」としてユンガーの総動員を論じたテクストだが、奇怪なことに途中からユンガーへの言及が消え去りレーニンの「共産主義」の称揚が展開する。これはジジェクや中沢などよりも上等なレーニン擁護であり、いまなおレーニンにすがりたい奇特な方々には一読をすすめたい。「力の本質は、無制約的で完全な支配を強く求めるので、それ故にその本質への、力の現実化という根本的な出来事は、『総』動員である。しかしこれは、その最も決定的な要求と強化を世界戦争の内に見出す」。ハイデガーにとって第一次大戦を「内乱に転化して」ロシア革命を実現したレーニンこそは実はありうべきユンガー路線の体現者なのだ。現在はこの世界大戦の延長であり、その拡張である。これはかつて赤軍派議長・塩見孝也が創案してブント各派がそのヴァリアントをつくった過渡期世界論を想起させる。塩見はロシア革命にはじまる世界を世界革命までの完遂過程ととらえて、攻撃的に闘うことを路線化した。破局の前倒しに賭ける点で赤軍派の攻撃的階級形成論は加速主義の双子の兄弟である。赤軍派だけでなく世界革命戦争を提唱する諸派はすべて全人民の武装化を夢想した。ユンガーが「労働者」の総動員を夢想したように。したがって今日、アナルコ・ファシストがユンガー主義を自認し、それと同盟する批評家がジェイムソンの「国民皆兵」にならいはじめるのは当然の帰結としての戯画である[1]。しかし「国民皆兵制」を待つ必要などない。ゲシュテルにおいてわれわれはすでに兵士であることを強制されている。この間の父親による児童虐殺はその証左ではないか。ただしこれらはその崩壊の症候でもある。国家装置と戦争機械の相克、もしくは統治をめぐる内戦はいまここですすんでいるのである。




[1] ジェイムソンの「国民皆兵」論をめぐる論集にはジェイムソン自身が憲法を反革命文書とそこだけは正しく明言しているにもかかわらず、柄谷が「9条」こそ「日本のユートピア」だとする一文を寄せている。ただしこの笑止な事態もまた逆説的に「憲法」なるものの本質が「国民皆兵」であることをしめすものとしてみれば正しいのかもしれない。

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