『資本主義リアリズム』というニヒリズム


NEZUMI

フィッシャーの『資本主義リアリズム』が描き出す破局はシュトレークのそれを思わせる。「あいにく資本主義はぴんぴんしている、だれもその腐った死体を払いのける力がないからである」。フィッシャーはこの腐乱を「資本主義リアリズム」と呼ぶのだが、これは資本主義ニヒリズムと呼んだ方がふさわしい。ただしこれは破壊にむかう能動的ニヒリズムではなく受動的なニヒリズムである。たとえフィッシャーが小泉義之のいうように「リベラル左派に対する強烈な怨念」をあらわにしようとも、その路線が「真の新しい左派の目標は政権を握ることではなく、政府を一般意志に従属させること」であるならば、そのポジションはリベラル左派の1ミリだけ左に位置するものでしかありえない(この日本語訳がかの堀之内出版から出るのもそれゆえである)。これはたとえば難民問題をとりあげて、われわれは「非人道主義的でなければならない」とリベラル左派を恫喝しながら、その実、路線としては「経済の新たな組織化と日常生活の再組織化」(『絶望する勇気』)というしごく常識的な提言にとどまるジジェクと相似している。「反・資本主義は、資本の世界主義に、それ自身の正当な普遍性で対抗しなければならない」とフィッシャーは説く。これに対してアナーキーはこう答える。「反・統治主義は資本に対して正当性の放棄で対抗しなければならない」と。フィッシャーの細やかな政策的提言がきわめて質が高いものであることは認めよう。だがそれも「死体」の腐乱の輝きなのだ。フィッシャーの自死はイアン・カーティスの反復ではない。

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