生田武志『いのちへの礼儀』に寄せて2 「動物の死」としてのコミュニズム

NEZUMI
HAPAX10号で書かれていたとおり、ドゥルーズにとって生成変化は動物の死へ立ち会うことにはじまる。そして左翼とはこの生成変化と同義なのだ。われわれがニーチェを参照しつづけるのも彼が倒れる馬とともに自らの生を崩壊させたからに他ならない。生田武志の『いのちへの儀礼』を貫くのもこの「動物の死」という情動であり、その一貫性がこの本を比類ないほどに美しいものにしている。ペットロスと呼ばれる情動もこの「動物の死」を前にした生成変化の一種として捉えることができるし、あらゆる情動の起源は「動物の死」にあるのかもしれない。生田は「動物の死」から世界史を再構成すべきであるとおそらく考え、本書の前半でそれを実現した。それだけでも本書は驚嘆すべき達成なのだが、驚くべきなのは後半においてそれが文学として論じられるにいたって、動物の地平からのコミュニズムを展望していることだ。ここにおいて生田はこの間の動物をめぐる思考を決定的に更新させた。その展開の要におかれるのはフローベールの「純な心」という「動物の死」をめぐる作品だ。そこから生田は二葉亭四迷が書こうとして書かなかった「子犬の哲学」(というより「子犬の死の哲学」)にありうべき「文学」を幻視する。榎並重行によれば二葉亭とは文学を「近代」に封じ込めた文学者であったが(『「新しさ」の博物誌』)、それと表裏をなすように近代の病にも自覚的だったのであり、横山源之助の体験的な下層社会研究を導いた。ヴェイユ論とともに批評家として登場した生田はそれ以前に釜ヶ崎の活動家であり、その意味で横山の遠い後身でもある。生田のこの書は四迷が開き、そして閉ざした文学の再開でもあるだろう。そうした生田だからこそ釜ヶ崎におけるセンター閉鎖の問題性を適格に批判した。占拠されたセンターには動物の姿はないが、その試みは本書の最後で感動的に描かれる「動物と人間の共闘」のためのものでもあるはずだ。

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