感性の寡頭制
彫
感性の寡頭制。連発する性暴力とそれにたいする無罪判決は、あられもないヘテロセクシズムとともにかかる制度に根ざすものでもあるだろう。ジャック・ランシエールも認めるとおり、現代の政治は寡頭制である。それは、声と音の分割=共有によってなる。人間と動物、貴族と平民の分割といってもよい。みずからの声が声として聞かれる者と、意味を欠いた唯の音としてしか聞かれないものとの分割、そして前者による支配が、現行の政治をかたちづくっている。このばあい重要なのは、それが感性の問題だということにある。分割=共有は、議場や法廷と同様に、ごく日常的な生活をも貫いて反復されている。声を声として聞かず、恥知らずなふるまいによって他者を深く傷つけながら、闊歩する人間がいる。まるで世界は自分のものだとでもいうような、愉悦の笑みを浮かべて。対してランシエールは、感性の寡頭制が破壊され、声なき声が聞き届けられる瞬間を「不和」と呼んだが、それはすでに以下で預言されている。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである……あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(ルカ12:49-51)。火が放たれる。みずからが人間であり貴族であることを疑わない者たちの頭上へと、瞬く間に降り注ぐ。泣きわめいて歯ぎしりしても手遅れである。恩寵は、人間にはやさしくない。しかしそれこそが、動物を、平民を、離脱へと導く「火の柱」(出エジプト 13:22)にほかならない。