ファシズムについて

NEZUMI
HAPAX」は11号「闘争の言説」に続く12号では「ファシズム」を特集する。現在の全世界的な「極右化」と呼ばれる動向の根底にあるのは新たな人種主義であり、これが運動、もしくは擬似革命として顕在化する事態をファシズムと呼んでいいだろう。そして人種主義の考察において二人のニーチェ主義者、フーコーとドゥルーズ以上のものはない。フーコーによれば近代以降の人種主義は生権力とともに形成された。「人種主義とは権力が引き受けた生命の領域の切れ目を入れる方法なのだ」(『社会は防衛しなければならない』)。ナチスは殺す権力としての人種主義の極限であっただけでなく同時に生権力の極限でもあったのだ。したがって生政治としてのリベラリズムは本質的には人種主義への対抗たりえないのである。ネオリベラリズム以降の人種主義の制覇はこの両者の相関が新たな次元へと突入したことを意味している。綿野恵太の新著『「差別がいけない」と誰もがいうけれど』が示すのはこの次元の荒涼たる光景であり、もはや旧来の問題設定ではなにも解決できないという危機なのだ。著者はその混沌を引き受けたうえで「PCの汚名を肯定する」と宣言するのだが、この肯定の根拠自体が本書で明示されているとは言い難い。しかしこれを指摘することは批判ではない。逆説的だが根拠を求めることこそファシズムからの誘惑だからだ。/いまや社会構築主義も脱構築も踏まえた上で生物学的優生思想に基づく人種主義が公然と主張されており、この新しい人種主義の典型が加速主義であることは言うまでもない。ではどうするのか。ドゥルーズ(とガタリ)は『アンチ・オイディプス』で人種が強度の備給から発生したことを論じながら、「錯乱は人種主義的と人種的という二つの極をもっている」と書き、この極には「不確かで微妙な移行が起こる」とした。ニック・ランドがたどったのはまさにこの「移行」なのだ。ドゥルーズは『千のプラトー』では人種には劣等人種しか存在しないと語り、ランボーに倣って「劣等人種になれ」と呼びかけた。晩年のデリダがその思考の主題を動物に集中させていたのがデリダによる反ファシズム闘争であったことはいうまでもない。その意味でファシズム研究を起点としてきた藤原辰史の『分解の哲学』は極めて重要である。藤原は生産ではなく、分解こそ思考と実践の基底にすえるべきことを提起する。種、生産、自然などについての旧来の思考はすべて放棄されなければならない。ファシズムとの対決はそれを要請しているのだ。

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