ファシズムについて2

NEZUMI

過日の選挙以降、ポピュリズムが焦点になっている。酒井隆史はかつてポピュリズムをポスト・ファシズムと定義した。両者はともに代議制を徹底的に利用しつつ、その理念の虚妄を食い破ろうとする運動である以上、これは全く正しい。前回、ファシズムを人種主義として論じたが、同時にファシズムは全体化の運動でもある。ただしその全体化は局所的な形態をとる。したがって「れいわ」のみならず「N国」もまたポピュリズムを体現しているのであり、同党が生活保護受給者の隔離と強制労働をNHK解体以外の唯一の政策として表明していることは、ポピュリズムのファシスト的本質を示している。これに対して「れいわ」は代議制を下から解体する運動となるのだろうか。ただそこにはポピュリズムゆえに多くの危うさがあり、それは何よりその表看板たる反緊縮論に現れている。「HAPAX11号の小泉義之「日本イデオローグ批判」における反緊縮論批判はこうして決定的に重要である。同じ小泉はラクラウの左派ポピュリズムが国家的秩序の言説であることを指摘していた(「ドゥルーズ=ガタリにおける政治と哲学」)。ラクラウ、ムフの闘技的民主主義の構成自体が明快に示しているように、ポピュリズムは戦争機械の国家装置への捕獲である。それゆえポピュリズムはポスト・ファシズムなのだ。重要なのは、ラクラウらが元々はラディカル・デモクラシーを名のったことに顕著なようにこれが民主主義の極限でもあることである。野党共闘を延命の綱とする政党的民主主義者は「れいわ」に怯えているが、それは自身の凋落の鏡をそこに見出しているからに他ならない。再び酒井を引くなら、ここに響くのはあの「人民が欠けている」という叫びなのである。ところでポピュリズムはポスト・ファシズムだが、ファシズムとはポスト・ボルシェヴィズムである。これについては改めて書くことにしたい。(8/12に改訂)

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