気候変動の政治
マーク・ダガン協会
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ステファニー・ウェイクフィールドは人新世におけるシュールマンを論じている(「HAPAX」9号)。「アナーキーの原理は、福島で進行している文字通りの災害の管理・経営に注目することによって明確になる。なぜなから、岩盤に割れ目が開くときこそ、世界はそのすがたをあらわにするのである」。ハイデガーはその断層にとどまったがシュールマンは「断層を超えていく」。それは「時節を画する根拠のすべてをすすんで枯死させること」なのだ。ついに訳出されたアバンスールもまた『国家に抗するデモクラシー』の最後でシュールマンを論じながらこう書いた。「無−原理の原理の時代、あるいは原理を持たないように命じる時代が幕をあけたのだ」。アバンスールはここで政治を主題にしているのだが、これは現在の気候変動の主題でもある。その同一性こそが「無−原理の原理の時代」のしるしなのだ。
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ラトゥールが人新世的な事態を前に自由意志への依拠にもとづく近代を逆行させようとする「非近代」のもと、自然観を転換させることで近代人と「テレストリアル」(新たな地球)との戦争を宣言するとき(『地球に降り立つ』)、そこにも「無−原理の原理の時代」のしるしを見出すことができる。そこで重要なのは生産にかわって発生を基準とすることである。ここで階級闘争が「地理−社会的立場間の闘争」に変わることに対してアリエズとラッツアラートは疑義を呈している(『戦争と資本』)が、この両者の対立は「無−原理」化の問いの徹底によってのみ超えられるだろう。コッチャ『植物の生の哲学』は旧来のエコロジーが「生息可能域の概念を普遍化したものとして、世界を見てきた」ことを批判し、「あらゆる居場所は、生息不可能になる傾向、家ではなく〈天空〉と化していく傾向」にあり、「地球においてはすべてが天空」であり、「居住不可能」であること、すなわち「無–原理」を根底にすえるべきであることを教える。
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「現代思想」一月号の斎藤幸平と篠原雅武のこの主題をめぐる対談は(篠原が嘆くほどに)驚くべき不毛なものだったが、これは気候変動をめぐる闘争を支持する斎藤幸平のような左派もラトゥールがいうところの「近代人」であることをあらわにしている。斎藤は「市場に任せていく社会ではなく、もっと様々な計画化が必要です。つまり新自由主義からの脱却が必要」と語る。斎藤にとって新自由主義にかわるのは強力な統治であり、それが危機を解決するというのだ(注)。しかしこのような自由意志こそがこの事態を招来させたのではないか。だがグレタ・トゥーンベリたちの戦いは小泉義之が「天気の大人」で論じるようにそんな愚かな議論をも善導する「別の生」に賭けられているのである。