コロナウイルスについて
NEZUMI
スコットの「反穀物の人類史」によれば疫病が人類にとって脅威となるのは農耕と家畜の飼育による定住化と同時である。スコットの同書は穀物生産による奴隷化が国家の起源であったことを説く。すなわち疫病は奴隷化として国家と表裏にあるのだ。以来、感染症は文明の鏡として発生してきた。ドゥルーズ=ガタリ的にいうなら疫病は文明の決定不可能性である。
それからの歴史はフーコーをひくまでもない。近代とは暴動と疫病への予防として形成されてきた。監獄と病院がそれを象徴する。監獄は労働と非労働を分割し、後者を犯罪化し、前者を本源的蓄積の基礎として動員することで誕生し、この労働力再生産のための基地として都市は再組織化され、「社会医学」が生まれる。これは生政治としての統治の開始でもあった。
新自由主義とはこの統治の高度化であり、社会における「安全性」(セキュリティ)の極限までの上昇と自己責任化(個人の起業家化)の徹底をともなう。これは軍事的にはドローン化に対応する。
その統治はAIによるアルゴリズム支配として新たな段階ではいりつつある。それを先駆けていたのが「幸福な監視国家」(梶谷懐、高口康太)としての中国だった。これこそドゥルーズにいう「コントロール社会」である。コロナウイルスはまさにこの統治の未来から生まれたがゆえに文明にとって破滅的なのである。
石川義正によれば今回の特徴は疫病自体の症状とそれに対する反応がきわめて不均衡なことにある。これを準備したのが社会における「安全性」(セキュリティ)の極限化であり、「コントロール社会」化である。かくして国家自身が生産と消費、そして交通を停止させるという信じがたい光景が到来した。いま、社会が社会を、文明が文明を崩壊させているのである。