コロナウイルス ヴァネーゲム 

 以下は、ギー・ドゥボールと双璧をなすシチュアシオニストの理論的支柱だった思想家、ラウル・ヴァネーゲムによる論考「コロナウイルス」の翻訳である。訳出はあたっては、リード文もあわせ『ランディ・マタン』に掲載された仏語原文(https://lundi.am/Coronavirus-Raoul-Vaneigem)を底本とした。なお[ ]内は、邦訳のさいに付した訳注である。



ラウル・ヴァネーゲム 
 訳:五井 健太郎

 じっさいにあからさまな生権力がふるわれているフランスや南欧の状況にたいするここでの分析を、うわべだけの対応の影で進行する棄民化のなかで、むしろ漠然とより強固な権力が待望されている感さえある日本の現状にそのまま対応させるとしたら、いささか早計になるだろう。だがいずれにせよ、経済的な合理化=データ化によってもたらされた、ただ「生き延びる」という惨状を脱し、日常生活の革命やフーリエ主義的な評議会主義=コミューン主義のほうへという、六〇年代からまったくぶれることのないヴァネーゲムの一貫性に驚嘆しつつ、混乱した状況のなかにあくまでも力強い肯定の線を見いだすその議論から、われわれが学ぶことは多いはずである。なにも終わりはしない、「すべてははじまったところだ」。



 コロナウイルスの危険性に異議を唱えることは、間違いなく馬鹿げている。だがいっぽうで、病の一般的な展開が生みだす混乱が、これほどまでの感情的な搾取の対象になり、かつてフランスからチェルノブイリの雲を追いやったたあの傲慢な無責任さがふたたび動員されようしとていることもまた、おなじように馬鹿げたことではないだろうか[八六年の原発事故のさい、フランスの一部メディアが、チェルノブイリからの雲は、ドイツとの国境で「奇跡的に」止まるだろうと報じたことを暗示]。じっさい、世の初めにもたらされた破局を簒奪し、すべてを一掃した大洪水のイメージを操作して、罪悪感という鋤でソドムとゴモラの不毛の土地を耕すために、黙示録というスペクタクルがどれほどたやすく持ちだされることになるのかという点については、だれもが知るところである(原注:このテクストは、『日常生活の蜂起』というタイトルのもとヴァネーゲムの論考やインタヴューをまとめ、エディション・グルヴィ(https://editionsgrevis.com/)から出版される予定の論集からのものである。同書の刊行は当初二〇二〇年四月の半ばを予定していたが、目下の状況に鑑みて現在は延期されている。今後の動向については同社のサイトで確認されたい)


 神の呪いというものは、権力を効果的に後押しするものだ。たとえば一七五五年のリスボン大地震の時点ですでに、ヴォルテールの友人だったポンバル公爵は、イエズス会士たちを虐殺し、じしんのおもいどおりに都市を再建して、〈原スターリニズム的〉な裁判によってみずからの政治的なライヴァルたちを首尾よく一掃するために、その地震を利用している。だが民主主義による全体主義が、目下コロナウイルスの蔓延にたいしてグローバルな規模で実行している悲惨な措置の数々は、かくも下劣なポンバルのあからさまなふるまいとさえ比べようのないものだといえる。

 ウイルスという呪いの拡大を、現場で用いられている医療手段の痛ましいほどの不十分さのせいにするのだとしたら、それほど見当違いなこともない! 公共財はもう何十年も前から瓦解し、ことに医療部門は、市民の健康をないがしろにして財政上の利益を優先する政治の犠牲になってきた。銀行にカネがまわればまわるほど、病院のベットや看護師の数は減っていくわけである。起きている事態をごまかすための道化芝居がなにを演じようと、そういった危機を煽る言説による危機をつうじた管理は、グローバルな覇権をにぎる金融資本主義に本来的に備わったものなのであり、またそれは、こんにちやはりグローバルに、われわれの生や、この惑星や、救いだすべき種の名のもとに打倒の対象とされているものなのだという事実を、いつまでも隠蔽しておくことはできないだろう。

 神罰などという発想をーーつまり自然が人間を、さながらうっとうしい害虫のように厄介払いするのだという発想をーー繰りかえして事足れりとするのではなく、いまこそ思いだすべきなのは、人間的な自然や物質的な自然にたいする搾取が、もう何千年ものあいだ反フュシス的で、反自然的なドグマを強制してきたという事実である。この点については私じしん数十年にわたって批判してきたことだが、一九九七年に出版されたエリック・ポステールによる著作『二一世紀の伝染病』は、恒常的な脱自然化のプロセスがもたらす破滅的な影響を強調している。(一九二〇年代の時点でルドルフ・シュタイナーによって予見されていた)「狂牛病」の悲劇を喚起しつつ著者が指摘するところによれば、われわれはそのなかで、ある種の病気に直面したさいまったくの無力さをさらすことになるだけでなく、科学的な進歩それじたいがそうした病気を生みだしかねないのだと気づくことになるのだという。伝染病やその治療についてのまっとうなアプローチを説く議論のなかで彼は、序文を寄せているクロード・ギュダンが「現金引きだし機の哲学」と呼んでいるものを批判している。ポステールは次のように問う。「草食動物を肉食動物に変えてしまうまでに個体群の健康を利潤の法則に従わせることは、自然と人間にたいして致命的な破局を引きおこしかねないことではないだろうか?」。周知のとおり、この問いにたいして各国の政府はすでに、声をそろえて〈然り〉と回答したのだった[遺伝子組換え生物の取りあつかいにかんする原則を規定するものとして二〇〇三年に発効されたカルタヘナ議定書を暗示か]。だが経済的な利益という、その問いたいする〈否〉の声が、ひきつづきなんの臆面もなく勝ちほこるのが現状であることを考えれば、そうした回答になんの意味もないことはあきらかだといえる。

 ほかでもなくそれが、排他的な統計データを盾にして公共病院の消滅を正当化しているWHOによって、大手をふって推進されているものであることを考えれば、利益率の拡大を理由とした脱自然化のプロセスが、万人の健康にたいして破局的な影響をもたらすことをほんの少しでも証明してみせるのに、なにもわざわざコロナウィルスをもちだす必要はないだろう。コロナウイルスとグローバルな資本主義の崩壊のあいだにはあきらかな相関関係がある。同様にまた、コロナウィルスの流行にともなって生じ、そのすみずみにまで浸透している感情的なペストや、ヒステリックな恐れや、ある種のパニック状態が、治療体制の欠陥を隠蔽するだけでなく、罹患者をいたずらに動転させる悪しき状況を継続させていることもあきらかである。過去の大規模なペストの流行のさい、ひとびとはみずからに鞭を打って悔いあらため、じぶんたちの罪を告白したのだった。だがグローバルな規模で進行している非人間化のプロセスを管理する者たちは、我が身の利益のために作りだされた悲惨な運命の外に出るための道は存在していないのだということをーー彼らが提示できる選択肢は、自発的な隷従という自罰行為しかないのだということをーー白状するつもりはないようである。すさまじい規模で駆動するメデイア機械は、不可侵にして不可避な神の意思という古い嘘を繰りかえすばかりだが、その嘘のなかでかつて血に飢えた気まぐれな神が占めていた場所にはいま、途方もない額のカネが鎮座しているわけである。

 平和的なデモ参加者たちに襲いかかる警察の野蛮さは、唯一効果的に機能しているのが軍事にかかわる法だけなのだということを、じゅうぶんすぎるほどに示してきた。こんにちそれは、女たち、男たち、そして子供たちを家に閉じこめ隔離している。屋外には棺が、屋内にはTVがあって、いずれにせよわれわれに与えられた窓=画面は、閉じられたひとつの世界に開かれているわけだ! こうした施策は、不安によって過敏になった感情のなかにひとを留めおき、無力なまま怒りに身を任せて分別を失うことを激化させることで、実存的な不安を煽りたてるためのものだといえる。

 だがそうした嘘でさえ、全般的な崩壊の前に屈することになる。国家によるポピュリスト的な愚鈍化は、すでにその限界に達している。そうした嘘をもってしても、まったくあらたな実験が進行中なのだということを否定することはできない。市民的不服従は伝播し、根本的に人間的なものであるからこそ、これまでとは根本的に異なる社会を夢見ることになる。連帯は、もはやじぶんじしんで考えることを恐れない者たちから、個人主義という羊の皮を取りのぞいていく。

 コロナウィルスは国家の破綻を暴露するものになった。この事実は目下、強制された監禁の犠牲者たちにとって、すくなくとも議論の対象に値するものとしてあらわれている。かつて『ストライキ参加者たちへのささやかな助言』[Vaneigem, Modestes propositions aux grévistes, Vertical, 2004.]を刊行したさい、友人たちは、そのなかで私が示唆した、各種の税金にたいする支払いを集団的に拒否するという手段に頼るのは困難だと指摘してくれたものである。ところがいまや、詐欺師としての国家のあきらかな失敗によって経済や社会の荒廃は実証され、中小企業や、地域的な商取引や、低所得者層や、家族経営の農家たちや、さらには自由業と呼ばれる業種の人間たちさえもが、完全に支払不能な状態に追いやられている。われわれがそれを打倒しようと決めるよりも早く、リヴァイアサンの崩壊は誰もが認めざるをえないものになったわけだ。

 コロナウィルスがもたらしたのはそれだけではない。生産至上主義という公害が収束すると、地球規模の汚染は減少し、何百万ものひとびとがあらかじめ定められていた死から免れ、自然は呼吸をはじめて、サルデーニャではふたたびやってきたイルカたちが戯れ、大衆の観光から浄化されたヴェネツィアの運河は澄みわたり、そして証券取引所は崩壊する。スペインは、まるで社会保障というものをあらためて見つけだしたかのように、あるいはかつてみずからが破壊した福祉国家を思いだしたかのように、市立病院を国有化することを決断している。

 だが確かなことはなにもなく、すべてははじまったところだ。ユートピアは、いまのところまだ這って進んでいる。われわれの頭上を旋回する何十億もの紙幣や中身のない意見の数々は、そのまま天上の空虚を漂わせておくことにしよう。利権の泡は勝手にはじけさせ、しぼませておけばいい。重要なのは、「やるべきことをわれわれじしんの手でやる」ことだ。たえず大胆さと信頼を失わずにおこう!

 われわれの現在は、ただ生き延びることがわれわれに強制する監禁にではなく、あらゆる可能性にたいして開かれた入り口にある。寡頭制国家がつい前日まで不可能だと宣言していた基準をしぶしぶ受けいれたのは、さしあたりのパニックの影響を考慮してのことにすぎない。われわれは、取りもどすべき生や地球の呼びかけにこそ応じたいと願っている。隔離された状態は、落ちついてものを考えるのに最適だといえる。目下の監禁は街頭の存在を消しさるのではなく、かならずそれを再発明することになる。あえていうなら私としては、日常生活の蜂起こそが、思いがけない治療効果をもつものなのだといっておこう。


二〇二〇年三月一七日
ラウル・ヴァネーゲム

人気の投稿