学生たちへのレクイエム ジョルジョ・アガンベン

オンライン授業はクソだった。というわけで、大学も休みなったことだし、ここさいきん「間違った」ことばかりいっていて総スカンをくらっている感もあり、どうせ他所じゃあ取りあげられないだろうから、ジョルジョ・アガンベンがこの件についてなにをいっていたかを紹介しておく。以下は、イタリア哲学研究所のHPに五月二二日付で公開されたテクストの全訳である(Giorgio Agamben - Requiem per gli studenti https://www.iisf.it/index.php/attivita/pubblicazioni-e-archivi/diario-della-crisi/giorgio-agamben-requiem-per-gli-studenti.html)。

これぞありうべき「老害」のすがた。WE STILL LOVE YOU, AGAMBEN !!


学生たちへのレクイエム

 

ジョルジョ・アガンベン

 

 

 予想されたとおり、大学の授業は来期からオンラインで開催されることになった。注意深い観察者からすれば明白だったこと、すなわち、「パンデミック」がデジタルテクノロジーをよりいっそう跋扈させるための口実として利用されるだろうということが、まったくそのとおりに実現されることになったわけである。

 学生と教員の関係においてたえず重要なものでありつづけてきた身体的な現前という要素が決定的に失われ、教育の場においてもっとも活気をもった部分であるゼミのなかでの集団的な議論が失われてしまったとはいえ、ここでわれわれにとって重要なのは、結果としてもたらされた、教授法にかかわる変化ではない。そうしたことはあくまで、実体のないスクリーンのなかにいつまでも閉じこめられることによって、あらゆる意味の経験から生が抹消され、まなざしが失われてしまうという、すでにわれわれが経験しているテクノロジーによる蛮行の一部をなしているものだ。

 いま生じていることのなかでより決定的なのは、それじたい興味深いことだが、まったく話題にあがっていないこと、つまり、生の形式としての学生的な生き方の終わりのほうである。大学というものは、ヨーロッパにおいて、――ウニヴェルシタスと呼ばれる――学生どうしの組合から生まれたもので、その名もこの組合に由来している。したがって学生という生の形式においては、勉強したり授業を聞いたりすることがたしかに重要である一方で、――多くの場合ひじょうに遠く離れた場所で生まれていながら、その出生地に応じてさまざまな学生団体[nationes]のもとに集まっていた――別の学生たち[scholarii]との出会いや、彼らどうしの熱心な交流も、それに劣らず重要なことだった。こうした生の形式は何世紀にもわたってさまざまなかたちで発展しつづけていったが、中世の放浪学僧から二〇世紀の学生運動に至るまで、現象のそうした社会的な側面は一貫したものだった。いかにしてじぶんのすぐ側で友情が生みだされていき、文化や政治についての各々の関心に応じて小グループが作りだされて、それが授業の終わったあともつづいていったかについては、大学の教室で教えたことのある者なら誰でも、仔細に知っていることである。

 十世紀近くもつづいてきたこうしたことのすべてがいま、永遠に終わることになる。学生たちはもう大学街に住むことはなくなり、かわりに部屋に閉じこもり、かつて共に学んだ仲間たちと何百キロも離れたまま授業を受けることになるだろう。以前は名の知れていた大学がある小さな街では、おうおうにしてそのなかでもっとも活気に満ちた要素を生みだしていた学生たちのコミュニティが、街頭から消えていくのが見られるはずだ。

 とはいえ、それがどんなものであれ死にゆく社会現象のすべては、ある意味では終わって当然なのだということもできる。じっさい現在の大学が、そのことを嘆いてみせることもできないほどに堕落し、過度な専門化の果てに蒙昧さに陥ってしまっていること、そしてその結果として、学生的な生の形式もすっかり衰えてしまっていることは、疑いようのない事実である。だがだとしても、以下の二つの点は肝に銘じておく必要がある。

 

 ・データ通信上で進行する新たな独裁制に服従し、オンラインで授業をおこなうことを――目下一丸となっておこなわれているとおりに ――受けいれている教員たちは、一九三一年のファシスト体制に忠誠を誓った大学教員と完全に同等な存在である[ムッソリーニは同年、大学教員のファシスト党入党を義務化している]。その当時と同様、事態を拒むのはおそらく、一〇〇〇人のうち一五人程度になるだろうが、間違いなく彼らの名は、ファシズムへの忠誠を拒んだ一五人の教員たちの名と並べて記憶されることになるはずだ。

 

 ・学ぶことを真に愛する学生たちは、現下のように変わってしまった大学に所属することを拒み、その起源に立ちかえって、新たなウニヴェルシタスを作りだすべきである。目下のような技術的な蛮行に直面するなかにあって、過去の言葉が生気を保ちつづけ、まったく新たな文化のようなものが――もし仮にでも――生まれる可能性があるとしたら、そのなかにしかないはずだ。

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