デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』によせて
匿名希望(職業:ブルシット・ジョブ)
デヴィッド・グレーバーが亡くなった。以下の書評はそのことを知る直前に書き上げたものだ。しょうじき、かれの著作のそこまで熱心な読者というわけではなかったし、もちろん会ったこともない。いや、正確には、かつてグレーバーの来日時に機会があったのだが、英語が下手なので気後れして行かなかったのだ。だから、追悼文といえるほどのものを書くことはできない。それでも以下の書評の「本書は、国家と資本の解体をもくろみ、相互に配慮しケアしあう動物としての人間の力能に信をおく、このうえなきアナキストによるものだということ」というところだけは、グレーバーも言われて悪い気はしないのではないか。かれの著作からは、人間という動物の生態がもつアナキズム・コミュニズム的次元をありありと学び取ることができた。あとはそれぞれが勝手に、この次元をはぐくみ拡張していくだけなのだ。
だれかの取り巻きを演じる、ひとを脅してあやつる、尻拭いをさせられる、中身のない書類の束をひたすら処理させられる、それらもろもろを采配し管理する……すべてクソどうでもいい仕事、ブルシット・ジョブであることは、おそらくだれもが気づいていることだ。とはいえ、じぶんはブルシット・ジョブになど従事していないかのように取り繕うこともその仕事には内包されているのであり、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』の邦訳刊行がこれまでのかれの著作以上の注目をもって迎えられたのも、その点がおおきいだろう。「よくぞ言ったくれた!」と。内心ではだれもが口に出したくてウズウズしていたことを、グレーバーは言ったのである。
邦訳書のあたかもビジネス書かのような装釘は、その意味で皮肉に満ちている。「アフターコロナ」の「経営戦略」やら「プレゼン術」やらを読み漁っている層が、勘違いして本書を手にしたら、どうか。その耳元でグレーバーはささやくはずだ。おまえがやっているのはほんとうはクソどうでもいい仕事なのではないか、と。もっとも、勘違いでなくマジでビジネス書として手にとられることもあるだろう(噂では、本書は日経新聞の「ビジネス書」売行ランキングにランクインしたという)。本書のとりわけ前半の議論は、ごく表面的に——「いいとこ取り」による領有は、われわれの敵の常套手段である——なぞれば、より合理的な仕事の進行や配分、より親密さに満ちた職場環境といったネオリベラルの口車ともそう矛盾するものではないからだ。もちろん、グレーバーじしんの論点は、そうした「合理性」は前著『官僚制のユートピア』でも論じられた全面的官僚制化、あるいは封建化した経済の一部であり、人間の魂をすりつぶす暴力へと縫合されているという点にあるのだが。
はっきり強調しておきたいのは、本書は、国家と資本の解体をもくろみ、相互に配慮しケアしあう動物としての人間の力能に信をおく、このうえなきアナキストによるものだということだ。その意味で注目すべきは中盤〜後半の議論である。端的に言って、ブルシット・ジョブはなにも生み出してなどいない。労働することじたいを道徳とみなす神学的な規律が反復されているだけで、無益で有害ですらある。にもかかわらずブルシット・ジョブに従事するひとびとは、じっさいには何をしている、あるいはされているのか?
そこには、ティクーン/不可視委員会との交差がある。「いまや政治的モメントが経済的モメントを支配している。その最上の賭け金は剰余価値の抽出ではなく、コントロールである」(ティクーン「批判形而上学は装置論として誕生するだろう…」『反-装置論』)。労働することとはいまや生産することではなく、コントロールされることである。じぶんが何をしているのか、何者であるのかすら見失わせる、精神的暴力の鞭をふるわれることである。はっきりいえば、労働することは、装置ないし「惑星的ブルシット機械」(「訳者あとがき」『ブルシット・ジョブ』)によって統治されることと同義である。「かれらをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」……
パンデミックのなかであらためて浮き彫りになったのは、無用なブルシット・ジョブと必要なエッセンシャル・ワークのあいだの階級的な差異だった。前者は数量化可能な経済的価値の領域に割り当てられるのにたいして、ケアをはじめとする後者はまさにその重要性のゆえに数量化不可能な諸価値の領域に位置し、対価や報償にはなじまないとみなす倒錯した切り分けがそこにはある。かといって、経済的価値の論理をただ貫徹させればよいというものではない。まさにそうしたことが、教育や医療福祉の市場化、ケアのブルシット化につながっているのだから。けっきょく価値とは、一個のゲームの賭け金にすぎない。このゲームはますます浸透し、まるで脱出不可能であるかのように思われているが、それでも絶対ではない。離脱することは可能なのだ。
グレーバーの言うように、やはりネオリベラルの謳い文句になりさがっているベーシックインカムをわれわれの手に奪還するのは一案である。それは価値の論理の徹底化ではなくむしろその正反対、官僚制と国家を罷免しブルシット・ジョブに終わりを告げるとともに、人間にとってはケアこそが基盤的であり優先されねばならないという真実の行為遂行となる。もっとも、こうした議論はフェミニズムなどが長らく言ってきたことでもあり、まるで新発見をしたかのようにふるまいすぎるのも考えものだ(グレーバーがそうだというわけではない。ここぞとばかりに飛びつきたがるネオリベラルを牽制して言っている)。われわれがなすべきは、余計なことは言わずにブルシット機械をただ打ち壊し、吐き出されたありガネすべてを路上でバラ撒き、そして最後に火を放つことだ。それもまた、ケアであるはずである。