武器と倫理 エイドリアン・ウォーレベン  高祖岩三郎訳


 

翻訳者ノート:

当文は、<https://illwill.com/weapons-and-ethics>からの和訳である。これが書かれたのは、昨2020年9月で、若干の時が流れてはいるが、ジョージ・フロイド蜂起以後のアメリカにおける路上の現状が、日本では未だにあまり知られていないようなので、あえて訳出し、こうした問題機制に開かれているHapax誌に掲載を依頼した。ここで議論されている「銃器使用」の問題はアメリカにおける反差別闘争が直面している状況とその行動形態を、もっぱら非暴力的で合法的なものとして表象したがるリベラルな諸メディアの傾向に反して――以後、アメリカにおける民衆闘争の現在/未来を規定する物質的条件となってしまった。この経験を、抗議者側の視点からより細かく報告した文章として、関心がある各意は、< https://hardcrackers.com/eye-storm-report-kenosha/>を参照されたし。

 


2020年918

 

倫理的な問いは、武器についてではなく、そのどれかに関わっている。

 

平和的な蜂起といったものは存在しない。これはアメリカなのだ。社会的な抗争がつづく中で、全ての側において、人々が武装しないという筋書きは考えられない。武器が必要かどうかは、開かれた問いだが、いずれにせよ、それは不可避なのだ。ただし、友人たちがしばらく前に明記したように、「武装していることと武器を使用すること」の間には、重大な差異がある。アメリカの蜂起において、銃が不可避的な要素であるなら、問題は、その使用を不要なものとするためにあらゆる努力を払うことである。

 

警察によるジェイコブ・ブレイク銃撃につづいて起こったケノーシャの衝突は、この夏の蜂起に参加しそれを観察した人々にとって、武装/暴力にまつわる問いを前面に引き出した。「私たちの側」の銃の存在は、何らかの形で危険性の穏和を意味するのか?それは、それが無ければありないような、何かを可能にするのか?それらの使用が、状況を開示し、人々の力能化に貢献すると、私たちは想像しえるのか?

 

ドイツにおける共産主義者蜂起の敗北直後に書かれた「暴力批判論」(1921)において、ウォルター・ベンヤミンは、暴力と「非暴力」、合法的な力と非合法的な力との間の不毛な対立を迂回し、その代わりに私たちの関心を、より決定的な暴力の様態と作法の中の差異に向けようと試みた。ベンヤミンにとって、直ちに神話や形而上学に回収されてしまう、暴力の「意図」あるいは目的を宙吊りにし、むしろその方法と使用を差異化することによって、私たちは、この問題を道具的あるいは技術的な領域から倫理的な領域に転換する。「この行為は何の目的に向けて行われるのか?」と問うかわりに、私たちは以下のように問わねばならない――この行為は内側ではどのようなものか?それは私たちや私たちの周りの者たちにとって、何を為すのか?それは私たちが、実存に関与する力を、どのように活性化し、あるいは制御するのか?かくしてベンヤミンは、革命的暴力の問題を設定しなおすことに成功する――つまり、その国家暴力との差異は、それが捧げる「使命」あるいは課題に介在しているのでなく、まず何よりも、それが、私たちや他の者たちのためにつくりだす、世界との関係性にあるということだ。

 

この洞察が、今日の抵抗運動における暴力と武器の存在に、適応されねばならない。暴力は、「善」でも「悪」でもない。またそれは、それが役割を果たす「意図」あるいは「目的」によって、位置づけられるのでもない。(この意味で伝統は、我々の役に立つような企画、模範あるいは使命をほとんど提供していない。)むしろ武器の種類、そしてその使用を問う方が有意義である。私たちの武器使用は、どのように私たちの力の意味と限界を、私たちの背後で、規定しているのか?この選択は、どのように、私たちの行動に参加しえると感じる者たちを感化し、構成しているのか?そして私たちが「勝っている」と考える状態に影響し、それを構成しているのか?私たちは、どのようにこの選択を、自分たち自身で納得しているのか?はっきりさせると、この問いは(ここでの主題である)銃器使用に限定されるものではなく――デモ、封鎖、占拠、反乱、略奪、相互扶助など――全ての戦術領域を包括している。長期の視点からすると、ここで問題になっているのは、内在的で生きられる過程としての革命そのものの意味を、我々がどう考えるかという全体的視座である。反乱において使用されるあらゆる方法が、かかる意味での倫理的思考によって、判断されることになる。私たちは、今日、戦術に関する真摯な議論を必要としている――どの実践が、社会的亀裂を深化し拡張し、そのことで共産主義への真の可能性を開示しているのか?どの行動が、反乱を、よりよく統治し管理すべき、特化された問題の閉域に封じ込めているのか?

 

――

 

銃器の選択と、それが含む可視性には、倫理がまとわりついている。たとえば、抗議者側の銃の存在を考える時、あからさまな所持と隠された所持を区別する必要がある。ライフルをあからさまに所持する左翼の民兵集団は、しばしば裁判所前に集う抗議者あるいは民衆を「保護」するためにそこにいると主張する。この理由で私たちは、彼らを、形式的あるいはイデオロギー的に、抗議者側あるいは「われわれの側」に組みしていると考える。だが実際には、ケノーシャにおける群衆は、すでに、ベルトの下に拳銃を隠す形で、武装していたのだ。これら二つの集団は、武装の様態と方法において、またその保持を通した周りの群衆との関わり方において、質的に弁別される。

 

ライフルを持ち、防弾チョッキを着た者たちと違って、ベルトに短銃を隠し持っていた者たちは、より「社会的な」形式で、反乱に関与し続けることができる。言い換えると、それは――グラフィティーを描く、裁判所の窓を壊す、警察に投石する、ダンプカーに火をつける、暴動を起こす、略奪するなど――そこに現れた誰にも可能な特化されない行動の形態となりえる。ほとんどの場合、群衆の中の隠された銃の所持者たちは――もし皆が銃撃されたら撃ち返すことを、周りの人々に知らせるほどの意味で――自分たちが武装していることを隠していないが、同時にそれを特権的に主張しない。銃の所持は、自分たちをその他の人々から区別する自己同一性あるいは「社会的機能」として扱われていない。ほとんどの場合、群れの中で、彼らと共に動いている者たちは、それが使用されるまで、彼らの銃を見ることはない――たとえば、ATMを撃ち開いたり、武装右翼カイル・リッテンハウスが発砲した時、少なくとも、十丁以上の拳銃が出現したことなど。

 

それに比べて――まさにこの意味で、ライフル銃の使用が、技術的なだけでなく、倫理的にもなるのだが――黒人中心のあるいはそこに同伴する武装民兵集団の銃器の使用は、それを特化する傾向があり、そのことが社会的閉鎖性の形態となっている。銃をあからさまに所持する左翼民兵は――たとえばケノーシャ裁判所前の第一日目に、群衆に向かって乗りつけたベアキャットとの対決中に見られた極めて稀な例外もあるが――通常、デモ隊の端に留まり、それ以外の参加を控えている。他方で、もちろん人は、この遂行的な決定を――もし群衆が「保護」や防衛を必要としていると考えるならば――「社会的」機能として見ることもできる。それでもやはり、これは誤認のように思われる。なぜなら、抗議行動は、すでに武装しており、撃たれたら撃ち返すことに吝かではないのだから。そして同時に、これらの隠され所持された銃器は、その他の役割、実践、参加形態と合体しつつ運動してゆく。それらは、その他のどれとも同じように、攻撃し、防衛し、ケアしてゆく――コンクリート防御壁を壊し煉瓦を取りだす、警官隊を光線銃で攻撃する、ベアキャットの窓にペンキ爆弾を投げて移動不能にする、警察によって傷つけられたり、盲目状態にされた抗議者たちを助けだす、花火を投げるなど、諸々の行動と同じように。

 

武器の選択は、技術的なだけではなく、同時に倫理的である。社会的敵対性が増大している情勢下で、集団的防衛の必要性は、現存する社会的亀裂の否定しえない現実なのである。われわれがこの問題をどう解決しようとするか、それが路上の社会的構成の可能性を左右してゆくだろう。武装暴力が、自らをその他の闘争形態から切り離せば離すほど、それは秘教的知識を要請する特化された技術として扱われるようになり、群衆の知恵や自信から反目してゆくだろう。このことが、究極的には、この方法に通じていない人々を除外し、参加を躊躇させ、闘争の不活性化に帰結するだろう。

 

それに対して、私が隣で投石している者のベルトには銃があることを認知している間、この事実が、その他の形態の介入、参加、協業を抹消することはない。このことは、私たちが、武装している者としていない者を横切る実践の共通な存立平面を保持する上で、決定的に重要である。それに比して、ライフルをあからさまに所持する民兵的スタイルは、ある種の戦術的独我論を作りだす危険性を孕んでいる。人々が、自分たちのデモにおける役割を「生きる銃」と信じれば信じるほど――共に立ち向かっている問題に対して銃撃以外の解決策を見いだす可能性をもった――群衆の集合的知性に参与する志向性を失ってゆく。これが、こうした人々と一緒に行進する時、あるいは彼らと共に警察と闘う時に感じる、妙な齟齬を説明している。つまり彼らは、群衆と流動的な関係を保つのでなく、進行している事態の部分というより、そこから離隔された、路上における第三あるいは第四勢力のように感じられる。彼らは、警察、抗議者、右翼民兵に加えられた、もう一つの問題、つまりそれ自身の論理を孕み、周りから接近不能な、もう一つの予期しえぬ要素として現れている。

 

「われわれの側」の銃器は、われわれに危険性からの穏和を与えているのか?それが無ければありえないことを可能にしているのか?

 

短銃あるいはライフルの存在がわれわれに与えるかもしれない「安心感」は――警察か右翼がわれわれを銃撃するという――すでに十分おぞましい筋書きを体現している。それはいずれにせよ、群衆の集合的な力を破壊する混乱に帰結しえるものである。我々の側が武装しているという知識は、どれだけ我々が、この可能性に関与することを助けるのか?こうした筋書きにおいて――反撃が我々の側の犠牲者の増大に帰結しないという条件において――ファシストたちだけが発砲するのでないことは良いことかもしれない。こうした状況の強度は、正直に言って、我々が知り理解している行為や戦術の領域をはるかに凌いでいて、簡単に把握しようがない。だから現時点で、こうした状況を肯定的なものに結びつけることには、あるいは銃器の存在が、その出来事性の外部状況において、何らかの可能性を開くと主張することには、ほとんど意味がない。

 

究極的には、私たちの側に銃器があることの唯一の貢献は――それが反撃の可能性を導入することによって――虐殺を減速する可能性にある。とはいえ、流血は単なる流血であり、それ自身の中に、倫理的あるいは社会的に寿ぐべきものは何もない。

 

 

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